客席1番 〜蓮さん 後編〜

1/1

5人が本棚に入れています
本棚に追加
/13ページ

客席1番 〜蓮さん 後編〜

約束の1時間が経った。 私は、新しく淹れたコーヒーを持ち、客席1番の蓮さんの席に向かった。 ちなみに、コーヒーのおかわりは自由だ。 この店は、基本1人席で、それぞれのプライバシーが保たれるように席と席の間隔は、割と広い。 BGMも流れているので、小声で話す程度なら、他の人の邪魔にはならないはず。 また、客席1番は、店の角にあり、幸い、今日、周りの客席は空いている。 これなら、蓮さんと話をしても大丈夫だろう。 「コーヒーのおかわりいかがですか?」 蓮さんが私の方を見た。 「ありがとう。」 穏やかな顔だ。奥様と良い時間を過ごされたのだろう。 「奥様のお話、聞かせて頂けますか?」 私がそういうと、目を閉じて頷いた。 私は、自分用に持って来た折り畳み椅子に座った。 蓮さんは、反対側に置かれたコーヒーを見つめながら、ゆっくりと話し始めた。 「僕の妻はね、とてもコーヒーが好きな人だったんだよ。毎朝、彼女は僕に丁寧にコーヒーを淹れてくれてね。僕は、そのコーヒーのいい香りで目を覚ます。あまり料理が上手とは言えない彼女だったけど、あのコーヒーだけでとても幸せだったんだ。」 そう言って、コーヒーを一口飲む。 蓮さんの奥様の淹れるコーヒーの香りがしてきそうな気がした。 そして、少し遠くを見るように、話を続けた。 「僕と妻は、大学の同級生で、僕はこの土地を離れて、遠方の大学に行っていて、彼女も同じように離れた土地から来ていて、お互い一人暮らしをしていたんだ。 大学3年の春、近所の定食屋に行くと、彼女もそこにいたんだ。僕たちは同じゼミだったけど、仲が良いという訳でなくて、でも、実は、僕は彼女の事が気になっていて、なんとか仲良くなれないものかとずっと考えていたんだ。で、そこにこのチャンスが訪れて、これを逃すものかと、思い切って、同じテーブルに座っていいか聞いてみたんだ。そしたら、彼女はニコニコ笑って、どうぞと言ってくれたんだよ。そこから、僕たちは急激に仲良くなって、大学を卒業するまで、ほぼ毎日、どちらかの家で過ごしたんだ。本当に楽しい毎日だったよ。でもね、楽しい時間が過ぎるのは早くて、すぐに卒業する年になって、僕たちは、無事に卒業して、それぞれの地元に戻り就職をしたんだ。毎日、一緒にいた相手がいなくなるのは本当に淋しくて、就職したばかりで忙しかった中でも、毎日電話で話してたんだ。でも、やっぱり淋しくて、2年経った所で、僕からプロポーズをしたんだよ。」 照れ笑いをしながら、コーヒーを一口飲む蓮さん。幸せな空気が溢れている。 「でもね、結婚は簡単じゃなくてさ。結婚と恋愛は別って、あれホントだよね。彼女、2人姉妹の長女でさ、お母さんが大学2年の時に病気で亡くなっていて、自分が家を離れるわけにはいかないって。僕も僕で、一人っ子だから、婿養子に入るわけにもいかず、ダメかもしれないって不安になっていた時に、彼女の妹が、笑わなくなった彼女に、家には私が残るから、お姉ちゃんは行っていいよ。と背中を押してくれたんだ。義妹には本当に感謝してるよ。で、僕たちは無事に結婚する事ができたんだ。」 その頃を思い出しているのか、蓮さん、嬉しそうな顔だ。 「ごめん。こんな他人の昔話を聞いてばかりでは疲れるよね。」 蓮さんは、ハッとして言った。 「全然疲れてなんかないですよ。ロマンティックな話にうっとりです。幸い、この時間帯は、みなさん、私を呼ばれる事も無いので、いつもは、カウンターの中で本を読んでいるのですが、今日は蓮さんの物語が聞けて嬉しいです。なので、続きを聞かせて欲しいです。閉店までは、まだまだ時間がありますので。」 そう言う私に、蓮さんが照れ臭そうに言った。 「有難う。ロマンティックかぁ。実際にはそんないいものでもなかったんだけどね。」 少し間をおいて、 「それに、ここからはあまり楽しくない話なんだよね。」 蓮さんの顔が曇った。私は、ドキッとして、慌てて言った。 「ごめんなさい。蓮さんが話せる事だけ聞かせてください。ここまでならここまででぜんぜんいいんです。」 私が本を読むように、次の展開を待ってしまった事が負担になってしまったのだろうかと不安になる。 「いや。いいんだ。僕が聞いて欲しいんだ。僕がやらかしてしまった後悔も。」 今までとは声のトーンも違う。こんなに素敵な出会いをされた奥様が亡くなってしまうのだから、それは辛い話に間違いない。蓮さんは、開店当初からのお客様で、その時はもう奥様を亡くされていた事は以前聞いた事がある。もう10年以上も前の事なのに、蓮さんの心の傷は癒えていないんだ。そう思ったら、胸が苦しくなった。 ふぅっと、息を吐いて、蓮さんが話始めた。 「僕たちは、無事に結婚した。結婚して、数年は楽しかったんだ。お金はなかったけど、2人の時間はたくさんあった。本当に楽しかったよ。でもね、僕はいつか起業したいと言う願望があって、30歳の時に彼女に相談したんだ。起業すれば、今よりお金が無くなるかもしれないし、今より忙しくなるかもしれないけど、挑戦していいかって。彼女は、大学時代から、僕がいつか起業して社長になるんだと言う話を聞いていたから、笑って、「いつ起業するのかと思ってたわ。諦めちゃったのかと思ってた」って言ってくれたんだ。僕たちには、まだ子どもがいなかったから、きっと彼女も今ならと思ってくれてたんだと思う。それからすぐに、僕は、彼女に背中を押されて、今の会社を立ち上げたんだ。でも、やっぱり起業したら大変で、お金も時間も無くて、生活するのがやっとの時期が続いて、がむしゃらに働いて5年をすぎた頃から少しずつ大きな仕事も増えてきて会社が安定しつつあったんだ。僕は、まだまだ会社を大きくしたくて、それからも必死に働いたんだ。それは、僕の夢でもあったけど、それ以上に、背中を押してくれた彼女の期待に応えたくて、そして、幸せにしたくてね。僕はね、本当に彼女を幸せにしたかったんだ。彼女は、僕ががむしゃらに働いている間も、僕の身体を気遣い、精神面も支え、空いた時間に翻訳をしながら金銭面でも支えてくれたんだ。しんどい時期だったけど、毎朝、2人でコーヒーを飲む時間だけは、変わらず、穏やかで幸せな時間だった。」 蓮さんの話が途切れた。大きく息を吐く。蓮さんの顔からは、だんだん表情がなくなっていっていた。 「辛いお話なら…。」 と、私が言うと、少しだけ口角をあげ、 「ここからは少し重い話なんだ。でも、君さえよければ聞いてもらえないだろうか。人に話すことは、僕の気持ちの整理でもあり、懺悔なんだよ。でもね、ここからは、決して、楽しい話ではないから、君がしんどいなら、ここまで聞いて貰えただけで充分なんだけど。」 と、遠慮がちに言った。 私としては、ここまで聞いて、蓮さんと奥様の物語を最後まで聞かないと言う選択肢はなかった。ここからの話は、きっと蓮さんがここにいる理由にも関係あるのだと感じていた。 「蓮さんがよければ、もう少し聞かせて頂けますか?」 と言うと、蓮さんは黙って頷いた。 「かなり会社は安定してきていたんだけど、僕はまだ多忙な日々を過ごしていた。後から思い返してみるとなんだけど、その頃、彼女が眉間にシワを寄せ頭を押さえる仕草をする時があったんだ。「頭痛?」と聞くと、そう。と言って、弱々しく笑っていた。僕は、ひどいなら病院に行くように言ったけど、彼女を病院に連れて行く事まではしなかったんだ。そんなに重篤とは思いもしなかったから。ある日、24時頃に彼女からの着信があった。僕は書類作りに没頭していて、彼女からの着信に気づかなかくて、1時間も過ぎてから着信があった事に気づいたんだ。彼女が電話をしてくるなんて事は滅多になくて、慌ててかけ直しても彼女は出なかった。僕は慌てて帰宅した。でも、もう遅かったんだ。彼女は、自宅で電話を握りしめたまま倒れていたんだ。」 蓮さんは震えるように息を吐いた。私は何も言えない。ただただ蓮さんの前のコーヒーを見つめるだけだった。 「僕は彼女名前を叫びながら、震える手で救急車を呼んだ。というか、呼んだらしい。実は、ここから数ヶ月間、断片的な記憶しかないんだよ。葬儀が終わっても、僕は彼女がいない事実が受け入れられず、葬儀の翌日から出社したらしい。僕の会社には、起業当初から僕を支えてくれた幼馴染がいて、彼が側で何もかもをやってくれたんだ。僕は、その後、魂が抜けたように、彼女が亡くなった時間になると泣き、夜中にふら〜っと外を徘徊し、目の焦点は合わず、抜け殻だった。母親が同居して見張っていなければ、死んでいたかもしれない。僕は、後悔し、自分を責めていたんだ。彼女の電話に気づかなかった事、その前に前兆があったのに病院に連れて行かなかった事、彼女を1人で逝かせてしまった事に。 抜け殻になった僕は、時々、公園で朝を迎えていた。特に霧が濃い日は、そのまま天国に行けそうな気がして、公園のベンチで過ごしたんだ。ある日、霧の中から人が現れて、この店に来るようにって名刺を渡され、その人に「とにかく、今晩、来て」と言われて、なんとなくここに来たんだ。霧の中で、このお店に誘ってくれたのはオーナーだった。霧の濃い日は、幻想的で、本当にお店があるかどうか半信半疑だったけど、このお店はちゃんとあって、オーナーもちゃんといた。オーナーの手招きでカウンターに座ると、コーヒーのいい香りがしてきた。彼女が淹れるコーヒーと同じ香りだった。一気に涙が溢れて、一生分の涙を使い果たすくらい泣いた。オーナーは、僕にそっとティッシュ箱を差し出し、泣き止むまで、何も話さず、ずっと側にいてくれた。僕は、ティッシュで鼻を押さえながら「失礼しました」と言うと、オーナーは「あなた、生きる力が弱まってるように見えたから」と言ったんだ。確かに、僕はこのまま死ねればいいのにと思っていた。オーナーは、「何があったかわからないけど、今のあなたを見て心配する人はいないのかしら」と言った。泣いて泣いてめちゃくちゃに泣いた事で、心に痞えていたものが少し流されて、頭もモヤが晴れていた。僕はハッとした。僕の身体を一番に考え、僕の夢を支えてくれた彼女の事を。彼女は、一緒に天国に行く事を望んでなんかいない。僕が僕らしく生きて行く事を望むはずだ。今の僕を見たら、彼女はどう思うだろうって思ったんだ。心配する人。そうだ、彼女だ。僕は、やっと現実の世界に戻って来た。彼女に心配をさせてはいけない。次に彼女に会えた時に誇れる自分でいたいってね。数ヶ月経ってやっとね。でもね、やっぱり彼女が亡くなった時間になると辛くて、夜は眠る事ができなくてね。オーナーは「眠れないなら眠らなければいい。辛いならここに来たらいい。仕事は誰かに頼めばいい。無理をする必要はない。」と言ってくれたんだ。だから、幼馴染に相談して、僕は夕方から働く事にして、しんどくなる24時頃はここで過ごすようになったんだ。それから、かれこれ12年。今年が銀婚式で、とうとう結婚してから彼女がいない時間の方が長くなってしまったよ。寂しいけど、銀婚式、一緒にお祝いできなくてごめんねって言って笑う彼女の顔が目に浮かぶから、もうそれだけでもういいと思ってるよ。」 蓮さんは大きく息を吸い、そしてフゥッと身体の力を抜くように大きく息を吐いた。少し穏やかな顔になっていた。 「僕は、今も彼女と生きているんだよ。ここのコーヒーがそうさせてくれるんだ。実はね、彼女が淹れてくれていたコーヒーの豆は、オーナーのご主人の豆だったんだよ。どおりで、同じ香りがしたはずだよ。僕は、今でも、彼女に申し訳なかったと思っているし、これからもずっと思い続けると思う。でも、不幸ではないんだよ。ここでコーヒーを飲む度に、彼女が大丈夫と背中を押してくれるから。だから、僕は大丈夫なんだ。彼女に次に会える時まで、目一杯生きるんだって決めたから。」 そう言うと、蓮さんの目から大粒の涙がポトリと落ちた。慌てて、涙を拭き、笑顔を作り、 「ごめん、ごめん。重い話だったよね。聞いてくれて有難う。彼女の事を人に話すと、彼女との記憶が鮮明に甦ってくるんだよ。彼女が側にいるみたいに。今日は沢山彼女に会う事ができたよ。本当に有難う。」 私は、黙ってコクリと頷いた。それしか出来なかった。 蓮さんの心の傷は、まだ癒えていない。 いや、違う。癒えているけど、傷は刻まれているのだと思う。 きっと、蓮さんは、これから先も、その傷と共に生きて行くんだろう。 蓮さんは、ちゃんと今を生きている。蓮さんが言う通り、不幸だとも思わない。そして、今の生活が悪いとも思わない。 でも、いつか、蓮さんがこの店に来なくてもよくなる日が来る事を祈らずにはいられない。 蓮さんは、きっと今晩も24時頃にやって来る。 その蓮さんは仕事モードの蓮さんだろう。 でも、私の中で、今日の蓮さんは残り続ける。だから、心を込めて美味しいコーヒーを淹れよう。 そろそろ、夜と朝が混ざる時間がくる。 このお店もそろそろ店じまいだ。 客人たちもそれぞれの場所に戻っていく。 また今晩、夜更けにお会いしましょう。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加