客席3番 〜大翔(はると)さん 後編〜

1/1
前へ
/13ページ
次へ

客席3番 〜大翔(はると)さん 後編〜

大翔さんの落書きがどうなったか気になって、早くお店に来てしまった。 昨日、突然、トイレに落書きをすると言い出した大翔さん。 昨日はトイレ掃除が終わったあと、便器の蓋とか、ドアノブとか汚しちゃいけない所のカバーをしていた。そして、どう描くのかを考えていたのか、トイレと客席を何回も行ったり来たりしていた。 お店を閉める時に、トイレにいる大翔さんに声をかけた。 「大翔さん。私、帰ります。ドアの鍵はかけていいですか?」 「ありがとう。愛美夜。今日は夜までお店に籠るから、鍵をかけてくれると助かるよ。」 大翔さんは、合鍵を持っているので、お店に自由に出入りができる。恐らく、誰よりもこのお店に長くいると思う。だから、私が出勤する多くの日、大翔さんに声を掛けて出勤し、大翔さんに声を掛けて帰る。 一般的には違和感があるかもしれないが、樹さんも、いつもそうしていたから、それが自然で当たり前の日常だ。 私は、大翔さんの落書きに思いを馳せながら、お店のドアを施錠して帰宅した。 いつものようにお店のドアの鍵を開け、店内に入る。静かだった。 あれ?大翔さん、いない? トイレの方に直行する。 えっ??大翔さん? 大翔さん、トイレの前で横になってる。 寝てる?寝ない人なのに? 「大翔さん?寝てますか?」 そっと聞いてみる。 すると、 「寝てない。」 と、小さな声が聞こえた。 えっ?寝てないなら、何?調子が悪いの?? 「大翔さん。大丈夫?」 少し声が上ずる。 「お腹すいた。」 蚊の鳴くような声で、大翔さんが言った。 お腹がすいた? 「ずっと食べてないんですか?」 「ずっと描いてた」 「ご飯くらい食べればいいのに」 「今日の夜、樹が来るまでに仕上げたくて。」 明日は、私がお休みの日なので、今日の開店前に、業務連絡のために少しだけ樹さんが顔を出す。業務連絡と言っても、いつも特に何もないのだけど、"念のためにね"と言って、自分のお店を閉めた後にここに寄る。 「私が食べてた残りのパンですけど、食べますか?」 そう聞くと、 「食べる。」 と、さらに小さな声で言った。 私は、5個入りのクリームパンの残りの3個を大翔さんの前に置いた。 大翔さんは、私が置いたクリームパンを横になったまま、もそもそと食べ始めた。 私は飲み物を取りにカウンターに向かった。コーヒーより、今は牛乳の方がいいように思い、牛乳を持って大翔さんの所に戻ると、起き上がってパンを食べていた。 「どうぞ」 と、牛乳が入ったコップを差し出すと、 「ありがとう。」 と言って受け取り、ゴクゴクと飲んだ。 「水分も摂ってなかったとか?」 と聞くと、牛乳を飲みながら頷いた。 パンと牛乳で一息つくと、 「愛美夜。有難う。助かった〜。もうお腹は空くし、喉は乾くし、愛美夜が早く来ないかなってずっと待ってたんだ。」 と言って ニコニコ笑いながら言った。 「どうしてそこまでするんですか?別に今日じゃなくても。」 「だって、樹に最初に見てほしくてさ。」 トイレの方を見ながら言った。 「樹さんって、どんな子供だったんですか?」 「樹と僕が友達になったのは小2の時でさ。」 大翔さんは、樹さんと友達になった頃を思い出すように話し始めた。 「愛美夜も、ここにいる人達も、知ってると思うけど、僕は少し変わってるんだ。小さい頃からね。」 私が納得したかのように、うんうんと頷くと 「そんな事ないですよ。とか、言う所なんだけど。」 と、笑って言う。 あっと思って、口に手を当てて、 「ごめんなさい。」 と慌てて言う。 大翔さんは、笑いながら 「愛美夜は嘘がなくていいね。樹もね、絶対に嘘をつかないんだよね。昔から。だから、安心していられるんだ。」 そう言って、柔らかな表情で続けた。 「僕の家は、お堅い家柄で、両親ともに医者なんだ。僕は長男で、次期院長候補だから、周りの大人は、ものすごく僕に気を使うんだ。居心地が悪くてさ。」 大翔さんは、苦笑いをしながら続ける。 「僕は、代々続く病院を継ぐために、幼い頃からずっと勉強させられててさ。両親の期待は大きかったんだけど、当の僕は医者になるつもりなんてなくて、絵を描く事が大好きで、ずっと絵を描いていたかったんだ。」 大翔さん、小さい頃から絵が好きなんだ。 「家では、絵を描かせてもらえないから、学校の休み時間はずっと絵を描いてたんだ。クラスメイトとも一切話さず、ずっと。だから、友達もいなくて。そんな時、樹がね、"大翔くん、絵うまいね。"って話し掛けてくれたんだ。もの凄くビックリしたけど、話し掛けてくれた事、絵がうまいって褒めてくれた事が本当に嬉しくてさ。僕の家は、この辺ではちょっと有名な家だから、いじめられる事はなかったけど、絵ばっかり描いて、誰とも話さない、風変わりな僕と友達になろうと思う子はいなかったから、樹が僕に声を掛けてくれた唯一のクラスメイトだった。」 懐かしそうに、そして、嬉しそうに話す大翔さん。 「その日から、樹は僕の友達になって、そして、僕の絵のファンになってくれたんだ。樹はさ、両親が風変わりだから、まだ小2なのに、僕が少しくらい変わってても、全然動じなくて、僕を受け入れて、どんな時も味方になってくれたんだ。面と向かって僕をいじめる子はいなかったけど、樹に"なんであんなオタク野郎と友達なんだ"って言ってるのを偶然聞いたことがあって、樹は、''僕は大翔くんの絵のファンなんだ。すごい才能なんだから"って、言ってくれたんだ。言われた子は、ふ〜んって興味なさそうに言ってたけど、次の日に僕の絵を見に来て、“絵、上手いんだな''って褒めてくれたんだ。嬉しかったなぁ。それから、僕は絵を通して、クラスに馴染むことが出来たんだ。」 どんな時でも絵を褒められると嬉しいっていうのは、きっとこの頃の出来事があるからなのかなと思った。 「中学になって、僕は樹と同じ高校に行きたくて、本当は絵だけを描いていたかったけど、勉強も頑張って同じ高校に行ったんだ。樹はとても優秀で有名な進学校を受験予定だったから、僕も必死だったよ。僕の両親は、大学の医学部に行くために、その高校を選んだと思って喜んでたけど。違うんだよね。だから、大学受験の時にまずい事になっちゃってさ。」 大翔さんが苦笑いする。 「まずい事?」 思わず聞き返してしまった。 あっと思って、口に手を当てる。 話したくなかったかも。 「ごめんなさい。今の無しで。」 慌てて言うと、 「大丈夫。話すつもりだったから。」 そう言って、静かに話を続けた。 「樹と同じ高校に行きたくて、その高校に行っただけだから、当たり前だけど、医学部なんかに行くつもりなくて、芸術大学で進路希望を出したんだ。担任も、僕の家の事を知ってるから、僕が医学部で希望を出すとばかり思ってて、僕との希望が芸術大学だった事に驚いて、即、親が呼び出されて、そこで、僕の両親は、僕が医者になるつもりがない事を知るんだ。父親は激怒するし、母親は泣くし、わかってたけど、大変な事になっちゃって、僕、その場から逃げたんだ。怖いし、悲しいし、申し訳ないし、色んな思いがごちゃごちゃになっちゃって。」 その頃のことを思い出して、しんどくなってしまったのか、大翔さんが大きく息を吐いた。 「コーヒー淹れましょうか。」 大翔さんは、うん。と言って頷いた。 私は、大翔さんと私、2人分のコーヒーを淹れて、トイレの前に戻る。ソファに移動することも考えたけど、今日はトイレの前がいいと思った。 トイレの前に、コーヒーのいい香りが満ちる。 大翔さんは、コーヒーを受け取り、一口飲んで、話を続けた。 「そうなることは分かってたんだけど、いざ現実になるとやっぱりパニクっちゃって。その場を逃げ出して屋上に行ったんだ。そうしたら、そこに樹がいて、やっぱりダメ?って笑うんだ。ものすごくホッとして、もう最悪って言いながら、涙が止まらなくなっちゃってさ。樹は、僕を樹の家に連れて行ってくれたんだ。樹の家には、僕を心配して待っていた樹の両親がいて、美味しいコーヒーとケーキを出してくれて、僕の家には連絡をしたから、今日は泊まって行くように言われたんだ。僕たちは、小2からの友達だから、両親同士の付き合いもあって、お互いに冷静になる時間があった方がいいって、樹の父さんが僕の親を説得してくれたんだ。次の日、僕が帰るときに、樹の母さんは、自分の道を切り拓いておいで!って、バンって僕の背中を叩いたんだ。ダメなら、うちの子になればいい。生活も学費も何も心配はいらないから。って。僕は、樹の家族に救われたんだ。」 樹さんの瞳から、つーっと一筋の涙が流れた。それをサッと拭って、 「僕は家に帰って、両親と対峙したんだ。両親は、お前が長男なんだから、お前が病院を継がないと困るの一点張りで、僕たちの話は平行線だったんだけど、業を煮やした2歳下の弟が、僕が病院を継ぐから、お兄ちゃんを自由にしてあげて欲しいって言ってくれたんだ。弟は、僕とずっと同じ学校で、その時も同じ高校の1年生で、僕が絵を描いてる事も知ってたから、僕を応援してくれてたんだ。弟が病院を継ぐって言ってくれたけど、両親は、それまで期待して育てて来たのに裏切られたというショックは大きく、芸術大学に行く事を許してくれて学費も出してはくれたけど、家は居心地が悪くてさ。それを察した樹がこの店の鍵をくれて、客席3番が空いてるから自由に使っていいって。樹の母さんも、お店に来ると、まかないと言って、ご飯を食べさせてくれて、僕はだんだんこの店で過ごすことが多くなっていったんだ。 樹はね、こんな風にいつも僕を助けてくれたんだ。僕はね、樹の事が大好きなんだよ。とてもね。だから、驚かせたいし、笑わせたいし、楽しませたいし、喜ばせたいんだ。」 大翔さんの瞳はキラキラしていた。本当に樹さんの事が好きなんだ。 少し間を置いて、大翔さんは、目を閉じて、少し低いトーンで、 「大学在学中に何度か女の子に告白されたんだ。だけど、樹を超える好きな子には出会えなかった。僕が樹を好きなことは間違いない。でも、友情か恋かわからないんだ。でも、僕はゲイではなさそうで、心も女の子ではないみたいで、ただただ樹が好きなんだ。それに気づいた時に、僕はおかしいんじゃないかって、ここに来るのもやめようと思って、少し距離を置こうとした時があったんだけど、樹が心配して大学にまで迎えに来てくれたんだ。大翔がいないとつまらないって言って。その頃、樹の母さんが長い眠りに入った頃だったし、辛い素振りは見せなかったけど、樹も辛かったんだと思う。そんな時に僕は何をしてるんだって、今こそ樹の側にいなきゃいけなかったのにって、僕はすごく後悔して、それから、樹が笑顔になるならなんでもしようと思ったんだ。」 思い返してみると、私が1人でお店を任されるようになってから、大翔さんは、樹さんが来る日に、何か楽しげなことをやっていた。アクアリウムの時も、女装の時も、そこには樹さんがいた。 「今でも僕はおかしいんじゃないかって思う時もあるんだけど、きっと樹の母さんなら、それはそれでいいんじゃないって言ってくれる気がして、樹も、僕の気持ちを知ってか知らずかはわかんないけど、いつも優しいし、樹の笑顔があれば、それだけで、僕は幸せだなって思うんだ。だからね、今は成り行き任せでいいかなって思ってる。これがね、僕が少し無理してでも樹に1番に見せたい理由。」 大翔さんは、明るく話してるけど、きっと、そのどの場面でも、大翔さんは途方もなく苦しみ、どれだけ沢山の涙を流したのか、想像すらできない話だった。 私が言葉も出せないでいると、 「ごめん。ちょっと重かったよね。しんどくなっちゃった?」 そう言って、大翔さんは苦笑いをした。 私は慌てて、 「違うんです。経験不足の私には、何を言えばいいかわからないけど、大翔さん、すごい。すごいなんて一言でいいたくないんだけど、語彙力が足りなくて。樹さんは、幸せな人ですね。」 そう言うと、 「樹が?僕じゃなくて?」 怪訝そうに言った。 「大翔さんも幸せだとは思いますけど、大翔さんにそんなに大切に思われて、愛されている樹さんも、とてつもなく幸せだと思います。」 私は素直な気持ちで大翔さんに言った。 大翔さんは、とても嬉しそうに笑った。 「有難う。愛美夜に話してよかった。」 大翔さんの柔らかな笑顔にホッとする。 「今日は、特別に、樹より前に愛美夜に僕の落書きを見せてあげるよ。」 と言って、立ち上がって、トイレのドアに手をかけ、私に手招きした。 私が大翔さんの横に行くと 「どうぞ」 と言って、ドアを開けた。 そこには、夜明け前の空。朝と夜が混ざる時があった。ここにいる誰もが様々な想いを抱き、見上げる空だ。地平線からまだ登っていない太陽の光が射し、空には星が瞬く。 「わぁ。」 と思わず声が出た。 「中に入ってドア閉めてみて。」 大翔さんに言われて、中に入ってドアを閉める。 吸った息が止まった。思わず、両手で口を押える。 そこに、少年が跪き、両手を胸の前で組み、登るであろう朝日を待って、祈っていた。その少年の表情は、とても幸せそうだった。 少年は、太陽をいつも待っている。太陽は希望だ。その光は少年を暖かく包み、守っている。太陽は近くて遠い。遠くて近い。側にいるけど、触れられない。でも、太陽は姿が見えない時もいつも少年を見守っている。少年も、いつも太陽の方を向いて待っている。 この少年は、大翔さんだ。登る朝日は樹さんだ。 大翔さんは、樹さんに何も求めていないし、これからも求めないだろう。 でも、大翔さんは、いつも樹さんの側にいるだろうし、樹さんも大翔さんから離れないだろう。それは、例え、樹さんが家庭を持ったとしても、大翔さんと樹さんの関係は変わらないと思う。 彼らの関係は特別で、夫婦ではないけど、きっとこの先の人生も''添い遂げる"んだと思う。 幸せには色々な形があって、これは大翔さんの幸せの形だと思う。 気がつけば、私は泣いていた。 それは、切ないとか、やるせないというような感情ではなく、大翔さんは幸せなんだとホッとした感情なんだと思う。 でも、やっぱり、少し切ないのかもしれない。 切ないなんて思うのは、私の浅い勝手な思い込みかもしれない。 でも、どんな時でも、片想いは切ないものだと思う。 今晩、やって来た樹さんの顔を想像する。 トイレのドアを開けて、一瞬、目を丸くして、それからすぐに優しい笑顔になって、ドアの少年を愛おしそうに見つめるだろう。 それを見て、嬉しそうに目を輝かせる大翔さん。 きっと、この想像は100%に違い確率で当たるはず。 2人は幸せだ。 私は、泣いた目をこすり、トイレを出た。 「大翔さん。絵、上手いですね。」 と言って、また泣いてしまった。 大翔さんは、 「だから、プロなんだって」 と言って、嬉しそうに笑った。 その笑顔を見て、私も一緒に笑った。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加