客席6番 〜マダム 愛生(あい) ②〜

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客席6番 〜マダム 愛生(あい) ②〜

客席6番は、この店では珍しく、客席5番と隣り合わせの席となっている。 なぜなら、客席5番がマダムの旦那様の席だったからだ。 マダムの前にミルクティーを置き、客席6番の席の前に自分のイスを置いた。 マダムは、紅茶の香りを嗅ぎ、ゆっくりミルクティーを飲んだ。 「お仕事ができたら、すぐに行ってね。」 そう言って微笑んだ。 マダムの来店時間は、他の客人より少し早い。 「多分、まだ皆さま来られないと思いますので、大丈夫だと思います。」 そう言って、ニッコリ笑った。 マダムもニッコリ笑って頷き、 「さぁ、どこから聞いて貰いましょうか。」 そう言って、目を閉じ、旦那様を想い、幸せそうに微笑んだ。 「私と先生、あ、夫の事をずっとそう呼んでいたの。出会ったのは高校の入学式の日。遅刻ギリギリに登校した私と体育館まで一緒に走ってくれてたの。"ほら、急いで急いで"って言って、私以上に必死な先生がなんだかおかしくてね。"笑ってる場合じゃないぞ。もう式が始まるんだから"って、更に必死になって走る先生が本当におかしくて声をあげて笑いながら、必死に先生の背中を追ったの。それが先生との出会いだったわ。もう40年以上も前の事なのに、不思議ね、この出逢った時の記憶は、色褪せず、いつも新鮮で、却って年々色濃くキラキラした思い出になっていくの。その時の事を思い出すと、私はいつもその時の私に戻る。もうこんなおばさんなのにね。」 クスクスと笑うマダムは、とても可愛らしく、女子高生のマダムが見える気がした。 「それから、毎日毎日、先生の姿を目で追ったわ。先生はね、みんなからとても愛されていたの。だって、本当に可愛らしい人だったから。穏やかで、いつも一生懸命で、その一生懸命さが空回りして大慌てしてる姿が本当に可愛くて、みんなにからかわれて照れ笑いしてる顔も大好きだった。いつもいつも、担任が先生だったらよかったのにって思ってた。だけど、2年の時も違う先生が担任で、そして、高3の時にやっと先生が担任になったの。嬉しかったわ。本当に嬉しかった。」 マダムは幸せそうに目を伏せた。 「先生は、絵描きになりたかった英語教師だったの。色々な所でよく絵を描いていて、先生の絵はとても人気があったのよ。始業式の日に、私は本当に珍しく早く学校に着いたの。まだ誰もいない教室に1人でいたの。そうしたら、先生が入って来たの。でね…。」 マダムが目を開けて、キラキラとした瞳で嬉しそうに、 「"おっ。一色、今日は早いじゃないか!"って、"えっ?"って私が言うと、"入学式の日に体育館まであんなにダッシュしたのは初めてだったよ"って言って、黒板に体育館まで走る私達の絵をサラサラって書いて、私の隣に来て、笑って私の頭をポンポンと叩いたの。入学式以来、先生との接点はなくて、私が一方的に遠くから見てるだけだったんだけど、先生は覚えていてくれたの。気絶しそうなほど嬉しかったわ。」 そう言って、頬が紅潮し、マダムは本当に女子高生のようだった。 マダムは、ハッとして、 「ごめんなさいね。その時の喜びが甦っちゃって。」 と言って、照れ笑いした。 「3年生の1年間は本当に幸せだったわ。」 そう言って、マダムは、ミルクティーを一口飲み、ひと息ついた。 「先生はその時43歳。私とは25歳差。まさか、そんなおじさんに恋するなんて想像もしていなかったわ…。大好きだった…。本当に大好きだったの。でも、それを口にする事はできなかった…。先生には、奥様と10歳の息子さんがいたから。時々、先生は授業の合間に奥様と息子さんの話をしたわ。それは幸せそうに。苦しかったわ…。」 マダムの笑顔が少し曇った。 「でもね。」 気持ちを切り替えるように、敢えて明るい声で続けた。 「幸せそうな先生を見るのも嫌いじゃなかったの。本当よ。先生は幸せなんだと思うと嬉しかった。学校がある日は、先生に毎日会えて、話しが出来て、先生と時々目が合う、それだけで幸せだった。先生に会えない夏休みは、退屈で、早く学校が始まって欲しいって願ったわ。そんな事を願ったのは後にも先にも、あの時だけね。」 イタズラっぽく笑う。私もつられて笑う。 「私は一度もないです。」 「それは残念。いい男がいなかったのね。」 マダムがウィンクする。 「毎日会いたくなる男はいませんでしたね。」 ふふふとマダムが笑う。 「卒業が近くなったある日ね、放課後に教室で友達を待っていたら、視線を感じて、廊下の方を見たの。そうしたら、先生が入口のドアにもたれて、何かを描いていたわ。じっと先生を見ていたら、顔を上げた先生と目が合ったの。私は、何も言わなかったけど、先生は顔を赤くしてあたふたしていた。だから、私、先生に近づいて"何を描いていたの?"と聞いたの。そうしたら、先生は、さらにあたふたして、"いや、これは違うんだ"とかなんとか言って、描いていた絵を隠そうとしたから、"いいから見せて"と言って、先生から取り上げたの。そしたら、そこには私がいた。優しく温かなタッチで私が描かれていたの。」 マダムの目から一粒の涙が落ちた。 「先生を見ると、"一色がさ、あまりにもいい顔してたから、今、描かなきゃって思ったんだ"って言って、照れ臭そうに笑ったの。心臓が飛び出てくるんじゃないかっていうくらいドキドキして、"先生、私…"って言ったら、先生が私の唇の前に人差し指を立てて、微笑んで首を振ったの。その時わかったわ。先生は、私の気持ちを知っていたんだって。もしかして、先生もって思ったけど、先生は"その絵、一色にあげるよ"とだけ言って行ってしまったの。それから後は、いつもと同じ毎日が卒業式の日まで続いたわ。卒業式の日、泣いている私の所へ先生が来て、"一色、3年間有難う。あの入学式に一緒に走った瞬間からの3年間は僕の忘れられない大切な思い出だよ。本当に有難う"そう言って、頭をポンポンと叩いたの。やっぱり先生もって思ったけれど、先生の目は、私の告白を拒んでいたし、一線を越えるつもりがない事を語っていたの。だから、"先生、私もあの日から3年間、本当に幸せだったよ"とだけ伝えるのが精一杯だった。その日の帰り道もずっと泣いて帰ったわ。小説なら、ドラマなら、きっと恋が始まっていただろう。でも、これが現実だって。先生は妻帯者で、私は生徒。近くて遠い存在なんだと思い知らされたわ。ふふふ。初恋は切ないものね。」 マダムは懐かしそうな目で遠くを見ていた。 「まだまだ話は続くのだけど、大丈夫かしら?明日にしましょうか。」 と笑った。
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