今日もまた、小さな箱を持って

7/10
前へ
/10ページ
次へ
 六階まであと少しのところで、足音がした。  急に胸がドクンと音を立て、足を止めた。音が近づいて来るにつれ、胸の音は高まり、早まっていく。  足音は、六階の長い通路を歩いてくる。 「こんばんは」 「あ、こんばんは──」  軽い会釈をしてすれ違って行ったのは、大学生くらいの男だった。  以前、ここで目を腫らした女性とすれ違ったことがある。まだここに配達して間もないころのことだった。  明美は、その女性の後ろ姿に、かつての自分の姿を重ねていた。  女性が零した涙が、ところどころ、つきあたりへ続く通路に染みを残していた。  しかし、目を腫らしていたのは、その女性だけではなかった。配達先の広江も、ドアを開けると、グズグズと鼻を啜りながらも、必死に顔を取り繕っていた。  思えば、初めて広江に腹を立てた瞬間だったかもしれない。「後を追いかけろよ」という言葉を飲み込んだのを、覚えている。  それ以来、女性の姿は見ていない。それでも最近は、ついさり気なく、玄関の靴を見てしまうことがある──。  ただの足音でそんなことを思い返してしまった自分に、恥ずかしさと同時に怒りが込み上げてきた。  情けない。  いつから自分はこんな風に──。  そんな心境に反して、再び階段を上りはじめた明美の表情には、安堵の笑みがこぼれていた。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

41人が本棚に入れています
本棚に追加