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六階まであと少しのところで、足音がした。
急に胸がドクンと音を立て、足を止めた。音が近づいて来るにつれ、胸の音は高まり、早まっていく。
足音は、六階の長い通路を歩いてくる。
「こんばんは」
「あ、こんばんは──」
軽い会釈をしてすれ違って行ったのは、大学生くらいの男だった。
以前、ここで目を腫らした女性とすれ違ったことがある。まだここに配達して間もないころのことだった。
明美は、その女性の後ろ姿に、かつての自分の姿を重ねていた。
女性が零した涙が、ところどころ、つきあたりへ続く通路に染みを残していた。
しかし、目を腫らしていたのは、その女性だけではなかった。配達先の広江も、ドアを開けると、グズグズと鼻を啜りながらも、必死に顔を取り繕っていた。
思えば、初めて広江に腹を立てた瞬間だったかもしれない。「後を追いかけろよ」という言葉を飲み込んだのを、覚えている。
それ以来、女性の姿は見ていない。それでも最近は、ついさり気なく、玄関の靴を見てしまうことがある──。
ただの足音でそんなことを思い返してしまった自分に、恥ずかしさと同時に怒りが込み上げてきた。
情けない。
いつから自分はこんな風に──。
そんな心境に反して、再び階段を上りはじめた明美の表情には、安堵の笑みがこぼれていた。
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