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(1)
午前中、開店するとすぐ、先日いらっしゃったお客さまがまた顔を出された。おそらく80歳はすぎているおじいさんだ。
私は別のお客さまの応対をしていたのだが、そのおじいさんは私と話したがっていると、別の職員がそっと私に伝えてきた。
幸い私のお客さまはちょっとした支払いの手続き。すぐに私は手すきになり、おじいさんに「お待たせいたしました」と告げた。
悲しい予感がした。先日窓口にいらっしゃって私が応対したときのおじいさんのお話はこうだったのだ。
「奥さんが、もうすぐ死にそうなんだよ」
銀行業務という仕事がら、人の死を知らされることは多い。通帳をお持ちいただいて、預金残高を確かめ、相続の手続きに回す。
お客さんは泣いていることもあるし、事務的にふるまっていることもある。
こちらも辛くなるのは、このおじいさんのようなケースだ。
妻に先立たれようという老いた旦那さん。きっと、心の中は嵐が吹いて、何をどうしていいのか分からなくなっているに違いない。それで、とくに用事があるわけでもないのにふらりとここにきて、たまたま応対した私に、奥さんの病状のことなどを話したのだ。
聞くと、この近くの総合病院に入院され、お医者さまからもう長くないことを通告されたばかりのようだった。
私はほぼ黙ってお話を聞いた。こういう方は、誰かに聞いてほしいのだ。本来の業務ではないとはいえ、少しでもお客さまのお心が落ち着くように、真摯に聞いて差し上げたい。
そんな気持ちだった。
そのときは、一通り奥さまの病気のお話をされた後、「忙しいところ悪かったね」と言って何の手続きもせずに帰って行かれた。
今日また朝からいらっしゃった理由は予測がついた。何よりも、先日ともちがって何か諦めに近い雰囲気の表情がそれを物語っていた。
「奥さん、死んだよ」
私が手すきになるのを待って、私の前まで来られたおじいさんは一言おっしゃった。
私は言葉を発するよりも表情で返事をした。
「役所がひどいんだ」
おじいさんはとつぜん別の話をされる。
「まったく話が通じないんだ」
よく伺うと、役所で死亡届の手続きをされようとしたときの区役所の担当者の説明が分かりにくくて大変だったらしい。
困ったな、と私は思った。これから私たちがやらなければならない相続の手続きには書類が必要だ。謄本などまた区役所に行ってもらわなければならない。もうかなりお歳を召したお客さまをいろいろと奔走させること自体、申し訳なく思う。やむをえないことではあるが。
おじいさんはお通帳とキャッシュカードを持参されていた。窓口の端末機で奥さま名義の口座を確認する。
そして、ご相続のお手続きに必要な書類を案内する。
「死亡診断書はあるよ。今も持ってきている」
しかし、必要書類一覧表を見せて順番に説明していくと、案の定おじいさんは声を上げた。
「謄本か、また役所にいくのか」
いかにも嫌そうである。本当に役所の職員さんの態度に腹を立ててしまっているらしい。
「何とか行かないでやる方法はないんか」
こういっては何だが、ご老人はときに無茶なことを言う。
「いえ、これはどうしても」
しばらく押し問答を続けた。内心申し訳なく思いながら。
だんだんおじいさんの声が大きくなるので、周りの職員はクレーマーだと思ったらしい。様子をうかがっている気配がする。
私は意を決した。ふつうはやらないことだけれど、自分はそうしたかった。
「少々お待ちください」
おじいさんに断りを入れて、店長のところへ行く。
「あのお客さまと一緒に区役所に行ってもよろしいですか」
店長は目を丸くしたが、店内を見回し、
「そうだな、今そんなに混んでないし」
ほっとした。急いでおじいさんのところに戻って告げた。
「私、一緒に区役所に参ります」
そのままカウンターの外に出て、店の外に出た。
区役所は歩いて5分くらい。歩道をおじいさんの歩調に合わせながら歩く。今はおじいさんは黙っていた。さっきのやりとりで疲れたのかもしれない。本当にお気の毒だ。子どもさんはいらっしゃるようだが、ついていてあげられないのかな。
区役所で私が番号札を引く。おじいさんと私と並んで長いすに腰かけた。私は銀行の制服。
番号が呼ばれた。私はおじいさんを促して窓口に行く。
おじいさんが用件を話そうとするが、残念ながら、確かに区役所の窓口の方の口調はきつくて感じが悪かった。
私は横から、自分もやや強い口調で口を挟んだ。
「ご相続の手続きに必要な書類はこれです。どうやったらもらえるんですか」
持参した一覧表を見せると、職員はようやく動き出した。
案外すぐに手続きは済んだ。私は再びおじいさんと一緒に歩道に出て、途中で別れた。おじいさんはいったん家に戻るという。
おじいさんは何も言わなかったが、顔が「ありがとう」と言っていた。
店舗に帰ると他の職員に「大変だったね」と言われたが、私は自分なりの仕事をしたと思っている。
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