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「夢物語というやつは、文字通りの夢物語じゃいかんのですよ」  これは私の敬愛する噺家である秀松亭(しゅうまつてい) 霧幻(むげん)という人間が彼のエッセイ内で語った文章で、会話のネタに自分が見た夢の話題は向かないということを主張している。なんとなく自分にとって重大なことを言っていそうな気配があったため、何度も口の中で唱えて記憶している。  しかし私は、自分の見た夢ですら実際にあった過去と区別がつかなくなる程度におつむが弱い。そんな人間である以上、他者が記した読み物の内容を一言一句違えることなく想い起して書き写すなど不可能で、この手の抜粋は自然と曖昧なものになる。確か以下のように続く。 「夢に見たものは面白く感じてしまいがちでね。人間って生き物は、ついつい今朝見た夢の話をしたくなるものなんです」  この気持ちは少し理解できる。まぁ面白い話題ならば提供したいと感じるのは、コミュニケーションを重んじる人間という種ならば自然な流れだろう。 「しかしそんなものは聞いている側にとっちゃ話題として大層つまらんものでして。なぜかといえば夢は見るものだからで、聞くものじゃないからです。夢というのは非常に映像的な魅力を持つのであって、映像的という言い方がまずければ、体験的と言い換えてもいいでしょう。荒唐無稽で不可思議な世界を実際の世界のように感じさせてくれるから面白いのです。その世界観を言葉に開いて話して聞かせるというのは、たとえ私のような喋りのプロであっても難しい」  体験を言葉に換える場合、大概においては情報の劣化が生じる。いわば圧縮ファイルのようなもので、圧縮方法は各々の人間によって個別にチューニングされている。  そんな独自規格なファイルを、受信側のほうで勝手に解凍して各々読み込み可能な拡張子に変換してくれというのはあまりに自分本位かつ他力本願な頼みに過ぎ、無理矢理開いたデータから誤った情報が読み出されたとて特段の不思議もない。  物理法則や社会システムという最低限の基盤を同じくしている現実世界の体験の伝達でさえそうなのだから、拘束条件がない夢ならば尚更だ。夢を他人と共有するのは難しく、本質的に、夢と共感というやつは相性が悪い。  夢。夢を書く。夢と認識している記憶を書く。そう決めたはいいものの、ではいざ言葉にしようとするとどうしようもなく不安になる。  夢を言葉にしようとして、夢の細部の接続が不連続であることに気づく。私が忘れてしまったのか、もとから夢として不連続であったのか、言葉に変換する段になると連続であることを拒むのか、はたまたその全てなのか、私は徐々に自信をなくしていく。
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