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 睡眠時間、三時間。この短さをもって多忙さを主張するつもりはないが、今朝見た夢が三時間の睡眠に見合う夢の長さであったかどうかは疑問が残る。猫と公安と英雄に彩られた夢は体感時間としては随分と長い夢であったような気もするのだが、いざこうして内容を書き出してみると二時間分の映画にすらならないような気分もする。  実際の睡眠時間と夢中での体感時間に相関性を感じたことはあまりない。  昼食後、授業の合間の午睡など思わず寝過ごしたと勘違いするほど濃密な夢を見て、頭を凭せた腕が痺れはじめた頃合いに覚醒して顔を上げてみると板書がそれほど進んでいなかったなんていうこともざらにある。  一方で、寝覚めのぼやけた頭でどうも今日は物足りない夢見であったな等と思いながら枕元の時計を改めて見ると予想外に遅い時間で、自分はどれだけ眠りこけていたのかと驚く日だってまま存在する。  要するに眠っている間の夢の記憶から実際に眠っていた時間を推し量ろうとするのはあまりおすすめできない。相対性理論よろしく、夢の時間は伸び縮みして現実へ帰還する際には擬似的なウラシマ効果を引き起こす。  どんな夢を見るのか、いくつ夢を見るのか、どのくらいの体感時間の夢を見るのか。所詮、それらは全て記憶力の問題に過ぎない。夢は変わらず眠りの中にあり、夢に関する認識は私たちが目覚めた時にどれだけその夢を忘れてしまうかにかかっている。そういう妄想は、かなり楽しい。  夢見が短いのではなく、単に見た夢を忘れている。夢を見ない夜があるのではなく、単に夢を見たことを忘れている。  一番安い料金プランだったため、まだ俄かに起き出したばかりの朝焼けの街へと無情に追い出された私は、碌な充てもなく公園の近くを散策しながら、では、とぼんやり思う。  もしも夢の中身を完全に憶えておくことができるのならば、夢は一体、いくつ見ることになるのだろうか。  どうせ無益な問いである。完全に過去を憶えておけずに夢と混濁するような人間が、あるいは夢に堕ちる瞬間すら憶えておけずに意識を手放すような人間が、夢の中の出来事を完全に憶えておくなんて芸当できるはずがない。  そも、眠っている間は常に夢を見ているということ自体ただの仮説にすぎず、仮説の先へと論を進める前にその仮説を検証しなければ意味がない。意味がないが、どちらかといえば冗談に近い類の仮説を検証するのも難しいし馬鹿らしい。  しかして、夢に夢見ることくらいは許して欲しい。  そんな仮説を夢と喩えて、夢物語を書くことくらいは許して欲しい。  埋め草のためベンチに座って筆を走らせる私の視界の端に、落語家の姿が揺らめく。 「夢物語というやつは、文字通りの夢物語じゃいかんのですよ」
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