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夢には二つの意味がある。眠っている間に定義される夢と、起きている間に定義される夢。
前者は主に無意識の領分で、後者は意識的に自覚される。望外の事象に「夢みたいだ」という恍惚があり、悲願の果てに「夢が叶った」という達成がある。
夢が現実へと至り、現実が夢へと溶け出す。どちらも現実で起きたことでありながら矢印の向きは逆転しており、夢と現の狭間で私たちは振れている。
夢。それらを夢と呼ぶならば、中臣氏と会うことは確かに夢であった。夢に見たことではあった。
この文章における夢はどちらの意味も含有している。
先述の通り、彼とは眠りの中で既に邂逅を果たしている。もちろんまだ顔も声も知らない相手との逢瀬を本人とのそれとカウントしていいのか疑問は残るが、それでも中臣氏を名乗る人物と会ったことには違いない。
一方で現実においても彼と会うことを私は長く望んでいて、いざ実際の逢瀬を誘われたときは僅かに逡巡こそしたものの、こうして好奇心に負けて街へ繰り出す程度には心惹かれる存在ではあった。
これらをまとめて、「中臣氏と会うことは夢であった」の文意となる。
正しく夢であることを、疑ったことはない。
「夢について自分と話がしたい、と」
ええまあ、と思わず口籠る。日常生活における他愛もないコミュニケーションの場で、禅問答よろしく漠然とした問いを投げることはあまり好みではない。というよりかはそんな問いを投げかけてくる人間が苦手なので、普段はこちらのほうでもそんな態度を取らないように気を付けているのだが、自分が今しがた取っている態度は忌避しているそれに違いなかった。
中臣氏さんは、と言いかけ、どうも呼称が間違っているような気配を感じ、呼び方は中臣氏さんでいいですかと確認を取る。
「如何様に呼んでいただいても大丈夫ですよ」
そういう返答が一番困るのだが、まぁ中臣氏というペンネームなのだし、まだペンネームを呼び捨てにするのも憚られるような関係ではあるので、とりあえず日本語的な不自然さは無視して中臣氏さんと呼ぶことにする。
「中臣氏さんはよく奇妙な夢を見るそうで」
「そうですね。まぁ自慢にもなりませんが、我が夢ながら結構面白い夢が多くて、何かのアイデアに使えないかとストックしています」
「私の場合、少し夢の毛色が違っていまして、」
「ほう、というと」
言語化は難しいんですが、と断っておく。
「もちろん、そういう楽しい夢も見るには見ます。でも稀に、夢と過去の記憶の混同が起こりまして、それは割と切実な問題として立ち現れてくるわけです。それだけでなく、夢を見るということ自体があまりにも現実と断絶していて、言い換えれば睡眠とは死にも等しいような気持ちが……」
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