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深夜一時。
定時より六時間以上経ってからの帰宅。
狙った通り、妻は寝ている。最近の妻とは顔を合わせれば諍いしかないので、残業だと嘘をつき、適当に時間を潰して帰ることにしていた。ただでさえ気疲れする職に就いているのに、帰ってきてわざわざ気力をすり減らすような行為などしたくもない。
いつものように固く閉ざされた寝室を一瞥し、ジャケットと鞄をソファに放ると、その隣に深く座った。冷蔵庫の音が無機質に小さく響いている。視線の先のテーブルには相変わらず、妊娠希望者向けの雑誌がこれみよがしに置いてあって忌々しい。薄闇の中、幸せそうなモデルの笑顔を覆うように、そばにあった新聞を乱暴に重ねた。
舌打ち、溜息を伴って天井を仰ぐ。
どこかからの灯りが白く、薄く伸びていた。
妻との間に意図的に溝を作った理由は単純だ。
価値観の違い。たった一言に尽きる。あれだけ恋愛中に嫌という程擦り合わせてきたはずなのに、いざ家庭を持つと清々しいくらいぽろぽろと崩れていき、今ではもう、修復の見込みさえない。諍いの端々から察するに、どうやら結婚を焦るあまり妻が話を合わせていただけだったらしい。
その地点で大分気持ちはさめたが、それでも好きだという気持ちは残っていたので、多少理不尽を感じながらも折衷できるよう尽力してきたつもりだ。尤も、こちらもこちらで長く付き合ってきたプライドがあったので、簡単に見切りをつけられなかったというのもある。
しかし、家族計画の段になって、なんとかしようという気はなくなった。
子供を欲しがる妻と、いらない自分。話し合いの末、授かりものだから待つ、という話だったのに、早くしろとごねるようになったのだ。理由は訊ねるたびに違うので、結局何が本心なのかは未だに分からない。ただ、一貫して口にする、
──私達の為よ。
という文句からは、何となく見栄というか利己的なものの気配を感じた。
──そんなものの為に尚更理不尽を譲歩し、これを維持しなければならないのか。
そう思うと、馬鹿馬鹿しく、むなしくなった。この結婚生活における己の価値は、一体何なのだと。
それから、一切の努力と気遣いを放棄した。
どうなろうと知ったことではない。
思い通りにいかなくなった妻は当然すぐ怒り狂うが、こちらもその分やりかえす。それを顔を合わせるごとに繰り返す。まるで地獄だ。こんな家庭を築きたかったわけではないのに、一体どこで間違えてしまったのだろう。
自ずと溜め息が漏れた。天井は相変わらず白くて嫌になる。カーテンをしていても入り込む光は落ち着かない。
視線を下ろせば、棚の上に飾った写真立てがある。結婚式の時の写真だ。その存在すらも許せない。
立ち上がって伏せる。本当は捨ててしまいたいのに捨てることのできない自分はまだ、どこかで平和を取り戻せると幻想を抱いているのだろうか。
ややあって、机が短く鈍い音を立てた。
はたと気付いて目を向けると、スマホが光っていた。メッセージの通知。開くと、送り主は後輩の女の子だった。
『先輩、今日もずっと一緒にいてくれて嬉しかったです。ひとりになっちゃって寂しいので、電話してもいいですか?』
見慣れた文面。蘇る余韻。
わかった、といつものように簡素な返事をすると、ベランダに出た。
湿った夜風に星が遠い。
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