雨垂れ

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 雨粒が伝い落ちて行く。  昨日から続く雨は昼を過ぎても止む様子は無く、眼前、フロントガラスを打ち付けては伝い落ちワイパーに弾かれていく雨粒を織田は見るとも無く眺めていた。 「良い陽気だな」  ぽつり、と。空間を埋める様に口にした言葉は触れられる事も無く落ちて行く。傍ら、助手席へと視線をやれば無情な同乗者は此方へ視線もくれず手元にばかり眼を落として。織田は居心地の悪さを誤魔化す様に身動いだ。どうにも面白味も無い時間ばかりが過ぎて行く。傍らに座る中山という男とは会話にもならず窓の外は酷い雨に曇天の空。そうでなくとも見るべき物も見付からない片田舎の裏道であるけども。  世知辛いもんだよな。  喉の奥で呟いた織田に答える様に、中山の手の内で銃のマガジンが装填された。  面倒な事になった。  蜂の巣を突いた様な騒ぎとなっている事務所。その戸口に突っ立ちながら、織田は煙草と整髪剤の混ざった匂いを吸い込んだ。無意味な怒号と無意味に引っ繰り返される紙の束。壁際に直立の姿勢で並ばされた若い衆を横目に奥へと進めばその間に嫌でも騒ぎの訳が耳へと入る。月末、債務者から取り立てた一月分の金がそっくりと消えてしまった。  一体、何故、誰が、どうやって。  否、それよりも。機嫌の迫る上納金をどうするか。  焦りと苛立ちが渦巻く喧騒が耳に響く。ああ、嫌だ嫌だ。喧騒の輪の内に入るふりをして煙草に火を点ける。面倒事はたくさんだ。  稼業を間違えたな、と。織田は常々と思う。  面子だとか、上下関係だとか。そんな物はとうに形骸的になっていると理解しながら棄てる事の出来ない業界。先細るばかりの稼業。そんな物は自分には向かないと理解していながら、どうにかして足を洗おうと思う程の気概も無い。恐らく、自分達の待ち人もそうだったのだろう。足抜けのリスクを犯す覚悟も無く、この道をこのまま進み続ける度胸も無い。  薄く開いた窓から紫煙が逃げだし、雨音が入って来る。ダッシュボードの灰皿へ落とすと同時に、中山の唇から細く息の漏れる音がした。青痣の目立つ若い横顔。幾重にも包帯が巻かれた左手の小指と薬指に難儀しながら銃を握る両の手は、お世辞にも慣れたものとは言い難い。トリガーにかけられた指を指摘すると、血走った目が漸く此方を見やる。隈が酷い。 「あの……兄貴……」 「なんだよ」 「…………いえ」  どことなく焦点の合わない眼が下方へと逃げる。困惑と恐怖と達観と怒り。全てが入り交じった目。かさついた唇が何か問いを吐き出しかけては飲み込んで、みっともない有様だった。ふと沸き上がる苛立ちに任せ頭を張ってやれば、小突かれた人形の様にぐわん、と揺れる。 「テメェがやるって言ったんだろうが」 「……はい」 「上納金くすねてとんずらした兄弟の尻、お前が拭くっつったよな」 「……はい」  彼の首がまだ繋がっているのはその提案に頷いたからに他ならない。  中山の喉が細い風の音を立て、唇が戦慄く。 「兄貴、は」  と、織田の懐から電子音が聞こえ、息を飲む気配が車内に二つ響いた。取り上げたスマートフォンからは苛立ちを隠そうともしない怒声。適当な返事を返し通話を切った。 「来るってよ」  中山の手が慌ただしく銃のグリップを握り直す。  ワイパーが上下するフロントガラス。雨粒に煙るその向こうに此方へ向かって来る車の影が見えた。助手席で中山の肩が跳ねる。真正面から向かってくるセダンは道を譲れと言いたいのかライトを点滅させクラクションを鳴らすが、織田の車が陣取っているのは狭い裏道だ。避ける幅など無く織田に車体を後退させるという考えは無い。焦れた様なクラクションがもう一度。その頃には織田の目にも、セダンの尻に張り付くようにぴたりと付けたバンの姿を捉える事が出来た。あれではセダンは後退出来ない。織田の車と挟み撃ちにされる他には無いのだ。  雨空に響くクラクション。  セダンは織田の車の鼻先数メートルまで迫り漸く停止した。途端、セダンの運転席から飛び出した人影。雨に濡れた道を這々の体で逃げて行く姿。それを見止め中山の身体も社外へと転がり出した。開かれたドアから雨音が雪崩れ込む。  雨粒が染み込みジャケットが色を変える。  中山の怒声、それに気が付いた男の悲鳴。  雨音に紛れくぐもったそれを聞きながら、織田はシートへと背を預けた。上下するワイパーに遮られるフロントガラスは眼前の光景を一つ一つ切り取って。酷く現実味を薄くする。  遮二無二逃げだそうとする背に食い付いた中山が男を殴り倒す。無様に転がる男へ馬乗りになった中山の銃口が男の眉間へ突き付けられた。引け。知らず拳を握る織田の思いと裏腹に、中山は口を開いたらしい。雨音に紛れ聞き取る事の出来ない怒声。男の悲痛な返答に中山は顔を歪めた様に見えた。  もんどり打ち男は場から逃れようと這い進む。その背へ、二発、中山の手から放たれた銃弾が撃ち込まれた。  雨音に混じる銃声。断末魔。  男の身体が崩れ落ちる間際、その目が車内の織田を捉え大きく見開かれた。指を指し、何かを叫ぼうと口を大きく開き。そしてもう一発、弾丸を頭部へ受け絶命した。  肩で息をする中山と、水溜まりへ突っ伏す様に事切れた男。男の死を認めたのかバンからぞろぞろと若い衆が降り、突っ立ったままの中山を押し退ける様にして男の身体を持ち上げバンへと押し込んで行く。  男の死体が視界から消える間際、見開かれたまま硬直して行くその怒りに濡れた双眸が己を見据えている様に思え織田は肩を竦めた。  そんな目で見られても困る。  取り出したスマートフォン。とっくに削除してしまったメッセージアプリには織田と男との内密のやりとりが延々と連ねられていたとしても。首尾良く彼が着服した上納金を織田が全て自分のポケットに仕舞い込んだとしても。その持ち逃げの責任を全て彼に覆い被せたとしても。組に追われ電話口で泣き付いてきた彼へ逃走経路としてこの逃げ場の無い狭い道を指示しようとも。だからどうしたというのか。世知辛いもんだ。世の中なんて。知恵も力も地位も金も無い人間には、なおさら。  死体を放り込んだバンが重たげに後退して行く。  それを見送った中山がのろりと此方へ歩を進める様を眼に留め、織田は舌を鳴らした。シートが濡れてしまう。
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