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黒を、白い絵の具で徐々にぼかしていったような灰色に染まった街に、透明な雨が降っている。
六月はいつだってこんな天気だ。雨がない時は湿り気を帯びた嫌な暑さが肌を濡らす。からりと晴れた真夏へ近づいていこうとしているのはわかってはいるのだが。いや、梅雨も真夏も、どちらも嫌いだ。暑さは私の思考を鈍らせる。五月や九月の穏やかな気候ならば、冷静に考えられる場面でも、冷静じゃいられなくなる。
顔を上げる。少しでも雲間から差し込む太陽の光を浴びたかった。向日葵(ひまわり)の花弁の色の光を。だがそこに広がっているのは、更紗のように折り重なった幾重もの雲ばかりである。
ざあざあとコンクリートの床に跳ね返り、オレンジのタイルの上に立った、私の革製の黒い靴を濡らしていた。
玄関先で私と向かい合っているのは、私の勤め先の高校の2年生の女子生徒・蓮村美雨(はすむらみさめ)の母親・蓮村美冬(みふゆ)である。
つむじから耳の裏を流れ、うなじで一つ結びにしている美冬の髪は、艶を失い、幾筋か白髪が混じっている。
彼女は眉を歪ませて私を見つめていたが、ふっと、俯き、苦悶の表情を浮かべると、涙を溜めた瞳を閉じ、右手で目頭を抑えた。眉間に寄った皺がその悲壮さを増している。
「榎本(えのもと)先生……。あの子、昨日の夕方から家に帰ってきてないんです。もう先生しか頼れる人がいなくて……どうかあの子を見つけてやってください。お願い致します」
弱弱しく体をくの字に曲げ、私に頭を下げると、彼女の耳にかけていた髪がゆっくりと解け、頬に流れた。
私は短く息を吐く。空気の冷たさと相まって、息は一瞬白く濁り、やがて溶けていった。
うなじに手を置いてしばらく考え込むような表情をした後、美冬に向かい、薄く微笑みを返す。
「わかりました。お母さん。どうか心配せずに。私が目ぼしいところを当たって、何とか捜し出してみせますので、必ず」
美冬はそれを聞くと、顔を上げ、雲が晴れたように笑む。眦から雨の色と同じ、涙の粒がぱらりと零れ落ち、彼女の顔の皺を伝っていく。
私は優しく微笑み、腰を屈めて美冬の顔を覗き込む。
――この偽りの笑顔が、自分の処世術なのだということを知ったのは、いつからであっただろうか。
口元だけをうっすら歪ませて、美冬が顔を上げる寸前に、その酷薄な笑みを消した。
「先生……。ありがとうございます」
美冬は眸を震わせ、微笑むと、仏に祈るようにまた深く頭を下げた。
私はその顔をしばらく見つめた後、腰を上げ、踵を返す。そして、意を決したように空を見た。
鈍い光を宿した今の眼ならば、この曇天の、空の奥までも射抜けるのではないか。そう感じながら、額の上を揺れる前髪をそっと押さえた。
初夏の午前のことであった。
私たちが暮らす、川崎市の生田緑地にある、東高根森林公園は、その名前の通り様々な種の木々が中を覆い、草いきれが濃く漂っていた。生命が爆ぜる匂い。人間しかいない都心では、感じることのない独特の匂い。私が好きな、匂い。雨に濡れて増したその生命力で、その匂いはより強くなっていた。
「都会のオアシス」としてテレビで取り上げられるほど、自然に溢れており、かつその自然は人の手が入った人工の物ではない。珍しく貴重な公園であった。縄文時代から続く白樺の林や蛍が生命を輝かせ、化学の発展に邪魔されることなく、静かに生息し続けている。
(人嫌いな蓮村が、姿を隠すとしたら、まずここだろう)
私は本能に導かれるように、まっすぐにこの公園に来ていた。
深緑の木々の葉を伝う、雨の雫の音がぽつ、ぽつ、と静かに地に響く。
私のスニーカーは、濡れた地の上を歩くたびに水音を立てる。藍色を一滴混ぜたような気に入りのグレイは、泥で汚されていった。
両拳を強く握りしめ、物怖じせずに険しい顔で森の中を歩く私の姿は、普段穏やかに森を散歩している近隣の人々が見かけたら、怒っている怖い大人の男として映っていただろう。
右手につけていたオメガの鋼の時計のケースが鈍く光る。黒い円盤の上で適切な速度で動く銀の分針(ふんしん)と時針(じしん)は、夏の流星群のようだ。頬を、頭上を覆う木々の葉から落ちてくる濁りない雨粒が時々濡らす。
私はそれを、ズボンのポケットに入れていた紺のハンカチで拭うこともせず、神経を昂らせて一人の少女の気配を探し続ける。
(まったく蓮村のやつ……。本当に勝手な奴だ。いつもそうだ。いつも。いつも物事から逃げ続ける。いつも、私から逃げるんだ)
ふと、葉が重なっているある木陰の前で足を止める。眉を寄せると、焦れたように足を少し左右に広げ、スニーカーの先で、どろどろになっている地を緩く掻いた。
「……見つけた」
私の低い声に呼応するように木陰は揺れる。
茂みの間から小さな背が見えたかと思うと、徐々に姿を現す小柄なその姿は、毎日教室で見慣れた少女のものであった。
「蓮村美雨」
朝のホームルームで一人一人の生徒の名前を点呼するときのようなテンションで、彼女の名前を呼んだ。だがその声には、静かな埋火のような怒りを込めていた。
美雨は額に張り付いた細い前髪を鬱陶しそうに右手で掻き分けると、私を認めて睨みつけた。
彼女のアーモンド型の眸は雨の雫を反射させ、きらきらと輝いている。目尻が吊り上がり、睫毛の長いその瞳は、敵に威嚇する野良猫のようだった。肩先で揃えた緩やかな波を描く髪が、一瞬毛羽立ったように見えた。漆黒のそれは、烏の濡れた羽のように、きらきらとした光を粒状に纏っている。
「何しに来やがった。なんであんたがここにいる」
(ああ、そうだった。この娘は、こういうものの言い方をする)
私は美雨と初めて会った日のことを思い出した。努めて丁寧な物言いをしようとする私に対して、まるで野良猫のように噛み付いた物言いしかできない。こんな口調の少女と出会ったのは初めてだったので、私は戸惑った。その姿は、他の女子生徒と比較して、とても浮いており、常に一匹狼のように一人でいた。だが勉強に対する熱意はあるようで、廊下で彼女がいつも図書館から借りた本を読んでいることを知っていた。そして、授業終わりに、私に恐る恐る、だが怒ったような顔と声で尋ねてくるのだ。そこには、学ぶ喜びに対する純粋な好奇心の色があった。
私は瞳だけ憂えたまま、黙って美雨を見つめた。眸の表面は凪いでいて、ただ目の前を流れ続ける雨の雫を映し続けている。その雨が一粒睫毛に当たったと同時に、私は凪の水面に漣が立ったような声を漏らした。
「こっちのセリフだ。何をしているんだ君は」
互いにきつい視線を送り合う。仁王立ちになり、一歩も譲らなかった。
「あんたには関係ねえだろ」
「関係あるだろうが。私は君の担任だ」
「学校は学校。プライベートはプライベート。プライベートまであんたに口出しされる筋合いはないね」
美雨はひねくれた笑顔を浮かべて私の胸を押し返すように声を出した。私はそれに動揺する様子もなく、ただ静かに低い声を返す。
「今日学校にも来ていなかったくせに。生意気な口を叩くな」
「あぁ?」
美雨は顔を歪ませ、あからさまに不機嫌な顔になった。
「君のお母さんが心配していたぞ。親を心配させて、君の社会生活の居場所である学校の者も心配させて、一丁前のセリフを吐くな。このクソガキが」
「……」
美雨は一瞬、私の勢いに押され、たじろいだ。だが、噛んだ唇の間から牙を出すと、呻くような声を出した。
「あんたに何がわかる……」
「……」
私と美雨の鼻の頭に雫が落ち、鼻孔にそって流れていく。私はポーカーフェイスのままで美雨を見ていた。その表情に苛立ったのか、美雨は右足を一歩踏み出し、吠える。
「あんたにあたしの何がわかるってんだよ! あぁ!?」
美雨の白い頬に雨の水滴が当たり、跳ね、私のブルーグレイのネクタイにかかる。
黙ったまま、彼女の怒りに反応を見せず、自分の頬を触った後に、唇を触った。確かな弾力を感じると、指を離し、手に付着した水滴を黙って見つめてた。
――やがてぽつりと呟いた。
「何もわからない。君のことは何一つわからないね」
「だったら教師面すんじゃねえって言ってんだよ!」
私の人差し指に付着した水滴が雲間から木漏れ日の陽に当たり、一瞬煌めいた。
「確かにわからない、今は。でもわかろうと努力することはできる。だからここに来た」
一つひとつの言葉を自分で発音するごとに、感情を確かめるように胸に浸透させていった。話している間は自分の指の水滴を静かに眺めていたが、終わる頃に顔を上げて美雨の方を見る。
「……」
美雨は私の言葉が終わると、あっけに取られたような表情で私を見た。
「わかっていないのは君の方だ。周囲の人間のことを何も考えていない。自分の中だけで完結している」
「……」
私の方を見つめていた後、そのままの表情で足元に視線を落とす。
私は手負の弱った猫に、追い討ちをかける。
「何から逃げているんだ。勉強か。家か。……それとも私からか」
「……」
俯いた顔に濡れた前髪がかかり、表情が見れなくなる。線の細い前髪から落ちた雫が鼻にかかり、唇にかかり、彼女の白い首を流れ、制服の襟を湿らせていく。雫が鎖骨に触れ、胸元に添って谷間に流れ落ちた瞬間、美雨は短く息を吸い、小声で呟いた。
「……あんただ。逃げているのはあんただ。あんたから逃げているんだ」
私は黙って、美雨の方を怜悧な眼差しでずっと見つめ続けていた。
美雨は私から目を逸らし、足元に顔を俯けたままである。
二人とも何も言葉を発しない時間が続く。私は美雨の前髪から透明な雫が落ち、彼女の整った富士額からくっきりとした二重の瞼の上を、そして長いまつ毛の上に震えて止まり、落ちて彼女の白い鎖骨に流れていくのを追っていた。永遠に続くような沈黙が雨と共に流れる。雨音と2人共溶けてしまったのではないか、というほど時が経った後、ふいにその静寂を破るように、私が低く小さな声を出した。
「私が好きなのか」
「……」
「それは男としてか」
「……」
「私が好きだから、私から逃げ続けるのか」
「……」
「そうなんだな」
「……自分から気障なこと言って恥ずかしくないのかよ」
美雨は顔を伏せたまま皮肉に口元を歪めた。そして乾いた笑い声のような声を漏らす。
「そうだよ」
薄暗い雨が、彼女の柔らかな輪郭をゆっくりと撫でていく。眸は虚ろで無表情のままであったが、私の瞳は一瞬濡れるように揺れた。
「そうだよ。あんたが好きなんだ。だからもう学校にはいられない。家にも。……消えるしかねえだろうが。この感情ごと」
雨音がより大きくなっていく。地を打ち、ぬかるんだ穴を抉るように鋭くなっていく。2人の間に起きた長い沈黙を埋めるBGMのようであった。
美雨は足元に顔を俯けたまま、上着の懐に手を入れた。
振り切るように懐から手を出すと、彼女の白く細い手に握られていたのはベージュの皮で包まれた細長く小さな物であった。
ナイフのカバーを外すと、剥けた刃をゆっくりと私に向けた。
「近づくな」
「……」
「それ以上近づいたら刺す」
私は無表情で美雨の向ける刃を見つめ、少しも表情を動かすことなく一歩足を前に踏み出した。
「…おい!」
はっと瞠目する美雨の怯えに目もくれず、徐々に速度を上げながら美雨に近づいていく。
「来るな……。来るんじゃねえ!」
「君はいつもそうだ。いつも私から、逃げ続けるんだ」
言葉と同時に足を彼女の革靴の先に当たるほどに近付けると、躊躇いを見せずに、美雨のナイフの刃を右手で握った。
「……!!」
私の右手から血が流れ落ちる。
「あんた……!」
目を極限まで見開くと、瞳を大きく震わせ、視線を下げると私の右手の流れる血をじっと見つめた。
「血が……」
美雨は震え声で呟いた。
その声を平手で叩くように私は怒鳴った。
「……ふざけんじゃねえってんだ、おい!」
「……!」
ぐっと前屈みに美雨に迫ると顔を鼻先が触れるほどに近付ける。美雨が怯えた表情を見せたが、それにも構わず牙を剥きだした。
「君は何もわかっていない! こんなナイフを私に向けて私がどうなるかとでも思ったのか? 凶器を自分の感情の発露として理解してもらおうと考えるなど、ただの逃げだ! こんな物で自分を守ろうとしなくても、誰かを傷つけようとしなくても、君は……君は……」
ナイフから右手を離すと、血が2つの光の橋を作り、青白く光る刃と私の掌の間を流れた。その血塗られた掌で、美雨を柔らかく抱きしめる。
美雨は一瞬何が起きたかわからずに茫然とし、濡れたシャツ越しに感じる私の厚い胸板を頬に感じていた。
美雨はしばらく茫とした眼差しで天を仰いでいたが、薄く開けた口を結ぶと、大粒の涙を流し始める。彼女の零した熱い涙が、私の肩を濡らしていくのを感じていた。
私の血塗られた手が、美雨の背に回され、制服が血塗られていく。それを気遣う余裕はなかった。
互いに何も言葉を発することは無かった。
雨音だけがぬかるんだ地面を濡らし続ける。
美雨の細い肩は、気づけば小刻みに震えていた。
私はそれに気づくと更にきつく美雨を抱きしめる。
雨音だけがただ流れ続け、私たちの頬を濡らし続けた。
淡いオレンジ色の明かりが灯る榎本の玄関に、暗い2人の影が立っていた。
黙ったまま俯いている美雨は、雨に濡れた前髪が幾筋が額に張り付き、そこから流れる雫で頬や瞼を濡らしていた。
榎本は背を向けたまま一度視線を美雨に向けたが、また前に戻し、静かに玄関の框を上がった。
彼女の着ている白藍(しらあい)の夏服が透けて、サックスブルーのブラジャーが透けていたからだ。
「今タオルを取ってくる、そこで待っていたまえ」
私が家の中へ消えていく足音だけが響く。
美雨はただ俯き、少し右下を見たまま黙ったままであったが、ゆっくりと顔を上げた。切なげな眼差しを震わせて、榎本が消えていった暗闇を見つめる。
「……」
(あの人、さっきは何だってあんなこと……)
背中に手をまわし、ゆっくりと擦る。
雨の雫とは違ったまだ温もりの微かに残るそれは、榎本の血液だ。手を前に戻し、じっと真っ赤に染まった掌を見つめる。ふいに瞳が揺れると、新しい涙の膜で濡れていき、瞳から零れる。その涙をぬぐおうともせず、はらはらと落とし続けた。
榎本が、玄関先に戻ってきた。右手には自分で手当てをしたのか、白い包帯が丁寧に巻かれている。凪の表情で少し俯いていたが、上がり框の際まで足先を進めると、肩を震わせ、嗚咽を漏らして泣いている美雨に気付き、はっと目を見開いた。
「蓮村……」
「あんた……何で」
最後の涙を流しきると、目線だけを上げ、榎本を見る。眸の膜は、玄関の曇りガラスに映る淡い光に照らされ、きらきらと煌めいている。
「あたしにこんなに優しくしてくれるの?」
「……教師だからだ」
「嘘」
「教師だという以外に君との関わりはない」
「……」
美雨は悲しげに目線を下に逸らす。
「あんたも……」
消え入るような声で呟く。
「あんたもあたしのこと想ってくれてるんじゃないの?」
榎本は美雨を見つめた後、視線を逸らす。窓から漏れる光が、彼の頬を淡いオレンジに撫で、染めている。
「……」
何かに戸惑い、唇を引き結び、一度目を閉じて下を向いた。やがてゆっくりと動き出すと、手に持っていたセルリアンブルーのタオルを美雨の頭にかけた。不意を突かれ、俯いたまま瞠目(どうもく)した美雨の眸にさっと白い光が差した。彼女のその光は、タオルに隠された青い影によって、榎本には見えなかった。
「拭(ふ)いてやる」
榎本は、節くれだった長い指を持つ手で、タオル越しに彼女の頭を擦るように拭った。
「……」
タオルで隠れる美雨の口元だけが、隙間から覗いている。
「拭き終わったら車で君の家まで送っていくよ。ご両親も心配している。明日は休んでもいいから、気持ちが落ち着いて整理できたら学校に来るように。いいな」
優しく労わるように、美雨の頭を拭っていく榎本の掌や指の感触を頭に感じながら、美雨は冷たかった頬に熱が戻っていくのを感じていた。
(この夜のことも、いつかは過ぎ去って思い出の一つになってしまうんだろうか。この人のことを好きだった気持ちも、卒業して働いていく中で、忘れていってしまうんだろうか。こうやってタオルで頭を拭いてくれたことも、雨の中でナイフを握ってくれたことも……)
柔らかなタオルの下で、美雨はきつく瞳を閉じる。自分の虚しさを包み込んでくれるようなその柔らかさは、今の彼女には残酷だった。ただ、今はこの人の固い手のぬくもりを感じていたかった。この拭(ぬぐ)いが終われば、もう二度と自分に触れることはないかもしれない、この大きな手を、今この刹那だけは、留めていたかった。
――榎本の手の動きが、止まった。とめどなく降り続いていた小雨が、いつの間にか止んでいたかのように。
美雨はそれを感じて、はっと目を見開いた。榎本と目が合う。
榎本は薄く張った氷が割れるような儚げな表情で、美雨をじっと見つめると、その渇いた薄い唇を開いた。
「好きだ」
榎本の吐息のような低い声が、つむじの上に零れ落ちる。
美雨は硬直した。
「私も好きだ……君のことが」
榎本の低く掠れた声に導かれるように、美雨はゆっくりと顔を上げた。タオルの隙間から彼女の白く滑(なめ)らかな頬と、汚れのない透き通った眸(ひとみ)が覗き、榎本を真っ直ぐに見つめた。夜の中で灯火に照らされた琥珀のように、震えていた。
榎本はタオルを勢いよく取り払うと、美雨の背中に腕を回した。固く逞しい腕が、細く柔らかな体を、強い力で抱きしめる。
冷たく湿った雨の空気に纏われていた2人の間が縮まり、美雨の顔の前に、榎本の顔が重なった。伏し目がちの榎本の瞳が、彼女の網膜に映される。熱い吐息を唇に感じ、次(つ)いで、薄いが弾力のある大人の男の唇が触れた。
桜色の潤った美雨の唇を包み込み、長い間口づけを交わした。だが、ふいに美雨を突き放すと、視線を逸らした。
「……先生!」
「すまない……どうかしていたようだ」
「やめないで……」
美雨は切なく微笑む。
「……蓮村……」
気付けば榎本は、無意識に彼女を抱き寄せていた。
そして美雨との体の空間を少し開けると、美雨の鼻先と自分の鼻先を極限まで近づける。
彼女の凛と光る眸は、榎本の心を温かく濡らした。その虹彩(こうさい)をいつまでも見つめていたいと思った。
ゆっくりと唇を開くと、艶めいた吐息が漏れる。
「愛している」
窓の外から雷光が爆ぜ、榎本の端正な顔を白く照らした。美雨の頭を乱暴に引き寄せると、噛むように口付けた。苦し気に眉をしかめながら目を閉じている顔が闇の中に浮かぶ。その表情を見つめた後、美雨は瞼を震わせ、ゆっくり目を閉じた。
外では雨音が激しくなっていく。雷光もまた落ちたのだろう。彼女の瞼の裏で赤く弾ける光が見えた。
榎本が一度唇を離すと、もう一度どこかで落ちた雷光が閃き、二人を照らした。目を開き、その光の中で白く浮き上がった互いの姿を見つめあった。
――もうこの愛の深みへと、落ちていく覚悟は決まっていた。
吐息が淡い白さを抱きながら光り、やがて黒い闇へ溶けていった。
鋼のような逞しい背中を、外から漏れる淡い月光が撫でる。浮き上がる汗が、艶めかしく彼を彩っていた。普段教壇で瞳を伏せながら、静かに教科書を開いて授業を進める紳士然とした男からは想像もできないほど、逞しい肉体だった。
制服姿のまま、榎本に組み敷かれた美雨は、火のように熱い彼の唇を、瞳を固く閉じて受け止め続けていた。
布団もかけずに絡み合う2人を、部屋の暗闇が包み込む。
榎本は言葉も発さず、美雨の唇を貪るように求め続けていた。口づけたあとに、糸を引くように粘着力を持ちながら、唇と唇が離れていく。互いに蒸れた熱い息を吐き合う。荒い呼吸のまま相手を見つめる。窓から溢れる月光の淡い白が、美雨の澄んだ瞳に鈍い光を宿す。
榎本は呼吸を落ち着かせると、美雨の額にかかった汗で濡れた前髪を、包帯を巻いた右手でかきあげる。
「……美雨」
掠れた声で、彼女の名前を呼んだ。普段苗字でしか自分を呼ばない男の声から、艶を含んで名前を呼ばれ、美雨は泣き笑いのような顔をする。
「……先生……やっと、あたしのこと名前で呼んでくれたね。ずっとそう呼んでほしかった。美雨って」
榎本は瞳を細め、緩く震わせる。
そして、右手を美雨の前髪に置いたまま、ゆっくりと鼻先と鼻先が触れ合う距離まで美雨に近づく。
2人は見つめ合う。湿った互いの吐息を肌に感じながら。
美雨の黒曜石のような瞳の膜が盛り上がり、涙がひとしずく、流星のように彼女の滑らかな頬を伝う。
糸を切ったように榎本が顔を近づけ、彼女の唇を食(は)んだ。口づけながら美雨の胸に右手を置く。初めはゆっくりと、やがて激しく揉みしだいていく。
「ん……く……」
目を閉じながら苦悶の表情を浮かべる美雨の表情を、榎本は静かに見つめていた。彼の額に浮かんだ汗が、彫りの深い彼の瞳の横を通り、高い鼻筋のてっぺんで止まると、雫となって彼女の瞼に落ちた。
美雨はそれを感じたのか、僅かに眉を寄せた。
榎本は薄く瞼を開き、その動きを見ると、己の体の温度が上がるのを感じた。そして暴力的な衝動に襲われる自分の理性を、遠いところから眺めていた。自然と右手が動き、美雨の制服の鮮やかなスカーレットのリボンに手をかける。
身を硬くする美雨を感じながら、彼女の性格と反して意外と丁寧に結われていた蝶結びの端を摘むと、息をつかせぬ速度で解いた。しゅるり、と音を立ててリボンが彼女の体を通り過ぎ、ベッドの上へと落ちていく。透けたシャツの色と同じ色をしたボタンを、両手で外していく。包帯を巻いた片手は、添えるように動かしていた。半分までボタンを外すと、右手で右半身のシャツをずらした。
滑らかな白い腹の上に、盛り上がる2つの双丘。そしてその上に被せられたブラジャーが現れた。アントワネットピンク色のそれは、彼女の肌の色にとても似合っており、教室で見せる凶暴性からは見えなかった彼女の神秘性を引き摺(ず)り出す。
「……」
美雨は片手を両の瞼の上に乗せて顔を隠す。彼女の頬は羞恥からであろう、夜目でもわかるほど薔薇色に染まっていた。
(かわいい)
榎本は美雨の体に覆い被さったまま、素直にそう思った。彼の湿った体と反して乾いている長くふしくれだった指先で、そっと彼女の柔らかな頬に触れると、彼女は片腕を瞼から額へ上げる。
濡れた瞳を揺らして榎本をまっすぐに見つめ、薄く唇を開いた。
「先生……あたし初めてなの」
榎本は美雨を見下ろす。彼の体は、湿っていることも手伝って、窓から差し込んでいる月光を受け、淡く光を放っていた。
(先生、蛍みたい)
美雨は、茫とした頭でそんなことを思った。
やがてどこかへ雷が落ちたのか、刹那に、白い光がカッと部屋全体を照らし、彼らの体が燃えて煤のように真っ黒な影となった。やがてまた、夜の青に溶けていく。
榎本は片手を美雨の体の横から離すと、ズボンのベルトを外した。
美雨はその夜、目の前に瑞雲(ずいうん)のような色鮮やかな花火が散るのを見た。
ベッドの上で、美雨は仰向けに横たわっていた。何かを悟った顔だった。人が去った、静かな夏の夕暮れの湖水のような表情。天を仰ぐその白い姿は、神々しさを纏(まと)っていた。朝の柔らかな青い光が、彼女の瞳の膜に、凛とした灯火(ともしび)を与えている。
夏の蝉が、窓の外から鳴いている声が聞こえる。蛹から羽化した最初の一匹だろう。この夏限りの命を懸命に揺らし、愛を交わす相手を探すのだ。彼にとって生涯たった一人の相手を。
蝉が蛹から羽化する時に見せる薄青い美しい羽の色が、私の脳裏に浮かんだ。
美雨は不意に上半身を起こすと、傍(かたわら)に落ちていた彼女のシャツを肩に羽織った。シャツは一晩で乾いたのか、彼女の裸体を不透明に隠した。昨日好きなように撫でていた陶器のように滑らかな白い太ももが、むきだしになってベッドに置かれている。その下を、適度な肉を持った細い脚と、内側に潜める骨を浮かせた足首が、百合の茎のようにすらりと伸びている。
瞼を伏せ、長いまつ毛の影を頬に宿している彼女は、抱いた前よりも艶を帯び、美しくなっていた。
(蛹(さなぎ)から羽化(うか)した蝉(せみ)だ)
私はくだらない考えを浮かべ、瞳を伏せ、皮肉な笑みを浮かべると彼女から目を逸らした。味わった彼女の体は桃のように瑞々しく甘かった。今まで抱いたどんな大人の女よりも。
私は彼女よりも幾分か先に起き、服を着ていた。だが、朝の爽やかな空気を感じたいと思い、上に着たシャツは、前だけはだけていた。割れた胸筋と腹筋が、窓から吹く夏の乾いたそよ風に揺れ、覗いている。美雨はそれを見ているのだろう。彼女の視線を気配で感じた。
「……晴れたな」
私は静かに声を漏らした。
昨夜の激しい雨は嘘のように天気は晴れ上がり、太陽の周りは日暈(ひがさ)が出来ている。暑い雲は薄れ、間から紺碧(こんぺき)の空が見える。今までに目にしたどんな空よりも美しいと感じた。
この空の景色を、私は生涯忘れないだろう。
「……やっぱ血って出るんだね」
美雨の気怠(けだる)げな声が背後に聞こえ、私は体を向ける。
彼女が見ている視線を追うと、ベッドのシーツの上に、乾いた血の跡が、てんてんと線香花火のように散っていた。
美雨は私が見ていることに気づき、顔を上げると、聖母のように微笑んだ。
「ありがとね」
私は朝の光に朧(おぼろ)に浮かび上がる彼女の晴れやかな顔を見つめていた。なぜか驚き、しばらく瞳を揺らして瞠目していたらしい。そして、糸が切れたように彼女に近寄ると、ベッドに上がり、抱き寄せてその細く白い首筋にくちづけを落とした。
もうすぐ雨の季節は終わり、蝉が愛の歌を絶唱する真夏がやってくる。
(了)
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