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失われた名前
私──こと、アオリ・ウィルソンは、ウィルソン男爵家の次女だ。
そう、私には立派な名前がある。
「様……、妹様」
俯いていた顔を上げると、侍女のダヴィが、困ったような顔をしていた。
「どうして、呼び掛けに答えてくださらないのです?」
「私は……」
妹様、なんて名前じゃないの。そういいかけた言葉を飲み込む。もう何度、そう伝えたかわからない。それでも、名を呼んでくれないのは──そういうことなのだ。
「ええ、ごめんなさい」
素直に謝ると、ダヴィも微笑んだ。
「しっかりなさって下さいね。もうすぐ、番のスカーレット様と、竜王陛下の結婚式──なのですから」
結婚式。華やかなその言葉とは裏腹に、私の気持ちは沈んでいく。
「ふふ、スカーレット様は、どんな花嫁衣装で竜王陛下の隣に並ばれるのでしょうか。みんなとても楽しみにしているのですよ。城内では、衣装の色の賭けが流行っています」
「……そう」
私が興味無さげなのが気に食わなかったのか、ダヴィは頬を膨らませて、私の瞳を覗き込んだ。
「……そういえば。妹様も瞳の色以外は、似ておられる部分もありますね。まあ、もうちろん、竜王陛下の番であらせられるスカーレット様には及びませんが。スカーレット様といえば、私たちにもお優しくて──」
ダヴィは、熱烈な『竜王陛下の番』のファンだった。私の瞳を覗き込んではいるものの、私のことはまるで見えていない。
貧乏男爵家出身の私がこんな王城で過ごせているのも、その番さまのお陰なのだから文句は言えないけれど。
◇ ◇ ◇
私が、名前を失くしてしまったのは、私が七歳、姉が九歳の時だった。
「迎えにきたよ。私の、番」
その日私は姉と雪遊びをしていて──あの頃はまだ姉と仲良しだった──寒いねっていいながら、笑いあっていた私たちの前に、そのひとは現れた。蕩けそうなほど甘い笑みを浮かべた美しい人。
それなのに、私は怖くて怖くて堪らなかったのを覚えている。
頭がガンガンと痛んで、立っていられない。
それに、何故か焦燥感があった。
はやく。はやく、逃げなければ。この人は──。
だと、いうのに。
「お兄さん、だぁれ?」
姉は無邪気に、その人に飛び付いた。
「君──だね、私の番」
その人は、飛び付いた姉の頭を撫でながら、恐怖で足がすくんで動けない私を一瞥した後、その視界に存在を一切映そうとはしなかった。
美しい人に無視されることよりも、安堵の方が勝った。
……良かった。私は今度こそ──……? 今度、こそ?
頭に浮かんだ考えが霧散するのは、お父様が屋敷から駆けてきたからだった。
「スカーレット、アオリそろそろ屋敷に──り、竜王陛下!?」
恐らくそれが、私がアオリと呼ばれた最後、だった。
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