【序章】(一)麝香の誘い

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 一、麝香(じゃこう)(いざな)い  ——慶応三年四月、江戸。  その日、朝早くに日本橋を発った小春が神楽坂に着いたのは、日も高く登った頃だった。  神楽坂。上州道であるその道は、江戸城防衛のため、車馬が通れぬように整備された段坂であり、牛込の見附から真っ直ぐと伸びている。  坂下から道を見上げれば、右手には幕臣である旗本や御家人の住む武家屋敷。対する左手には町家が軒を連ねており、小春はいつもと違う江戸の光景を前に心許さを感じていた。  日本橋通油町(とおりあぶらまち)にある貸本屋・有明(ありあけ)屋のひとり娘である小春は、生まれてすぐに母・ハツを病で亡くし、共に暮らしていた父・儒楽(じゅらく)は一年ほど前から行方知れずというややこしい事情を抱えた娘であった。  ——儒楽の書物を預かっている。  そう書かれた文が届いたのは、先日のことであった。  差出処は牛込神楽坂界隈に店を構える書肆(しょし)書肆屋の千鳥(ちどり)屋。面識のない店であったが、どうやらそこに父の書物があるらしい。  小春は今、ひとりで有明屋を営んでいる。儒楽の行方が分からなくなって以降、手がかりひとつとなかった小春にとって、それは闇間に差した光のような知らせ。小春は迷わず返事を綴り、今日、引き取りにやってきた。  春霞の空を仰ぎながら歩みを進めていた小春は、坂の勾配にきつさを感じ始めたあたりで、毘沙門天 を祀る善國寺にたどり着いた。北に向かえば行元(ぎょうげん)寺。続く通寺町(かよいてらまち)を越えると、酒井若狭守(わかさのかみ)の上屋敷があるという。  小春はいったん足を止め、千鳥屋への手土産が入った風呂敷包みを担ぎ直すと、着なれた矢継柄の小袖から覚書を取り出した。 (善國寺を過ぎることなく向かいの横丁へ入れ、か)  
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