Chapter2. 『鉄槌』

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視察のために各地を回って王城に戻ってくるまでの間に、一カ月以上の時間が流れたが、まだまだ冬が去る気配は感じられない。 勢いこそ弱まってきたものの、今日も空は灰色の雲に覆われ、雪が降っている。 ディアナは革張りのソファに深々と腰かけ、温かな湯気が立ち上るジンジャーティーを吹き冷ましつつ、自室の窓から空模様を眺めていた。 暖かい部屋の中で温かい飲み物を手に、寒々しい外の景色を眺めているなんて、随分と贅沢なことだと思う。 程よく紅茶が冷めた頃を見計らい、陶器製のマグカップを口元まで運ぶ。 口の中にジンジャーティーを流し込めば、生姜の微かな刺激と砂糖の甘み、それから液体の温かさが舌の上にじんわりと広がっていく。 紅茶が喉を滑り落ちていくと、腹の底から熱が生まれ、全身に染み渡っていくような感覚に陥る。 カップの縁から口を離した途端、思わず安堵の吐息を零してしまった。 「おいしい……」 そう呟いた直後、ディアナがこうして暢気にお茶を楽しんでいる間にも、ヴァルは仕事に精を出しているのだろうという考えが、ふと脳裏に浮かんだ。 (……いやいやいや……私もたった今仕事を終わらせたばかりなんだから、そんなに罪悪感を覚えることじゃないって……) 自分の考えを否定するように緩く首を左右に振ってから、机に視線を投げる。 机の上は綺麗に片付いているが、先程まで机に向かって視察の報告書をしたためていたのだ。 そして、その作業が終わった後、侍女に報告書を国王たる夫に持っていくことと、頭を休ませるためのお茶の支度を頼んだのだ。 本当は、城に戻ってきたらすぐに報告書を仕上げようと思っていたのだが、周囲に心身共に休むように言い含められ、今日まで取りかかることができなかったのだ。 忘れないようにと、こまめに気がついたことをメモに取っておいたおかげで、時間が経ってから報告書を書くことになっても然程苦労はしなかった。 やはり、こういった地道な努力は大切なのだと、改めてしみじみと思った。 机から目を逸らし、両手で包み込むようにして持っているマグカップに視線を落とす。 再度カップの縁に唇を寄せ、温かなジンジャーティーをゆっくりと口に含む。 紅茶を嚥下したら、透かし彫りのローテーブルの上に一旦マグカップを戻し、その隣に置かれていた可愛らしい絵柄の小皿の上に盛られている、小粒のチョコレートを一つ摘まむ。 チョコレートを口の中に放り込んで噛み締めれば、砕かれたチョコレートの中からとろりとジャムが溢れ出す。 甘みの他に酸味も感じられたから、おそらくベリー系のジャムなのだろう。 多幸感に自然と頬が緩み、もう一度皿の上のチョコレートに手を伸ばす。 チョコレートを摘まみながら、ちらりと部屋の片隅に佇んでいる柱時計を見遣る。 ティータイムにはちょうどいい時間帯なのだが、ヴァルはまだ仕事が終わらないのだろうか。 そんなことを考えていたら、不意に聞き慣れた足音を耳が拾う。 足音がこちらに近づいていくにつれ、微かに感じ取れていた気配が強くなっていく。 ディアナは口元のチョコレートの汚れをハンカチで拭うや否や、ソファから立ち上がって扉へと小走りで駆け寄る。 ディアナが扉の前で足を止めた直後、目の前で自室の扉が開かれていく。 扉の向こう側から姿を現したヴァルが視界に入った瞬間、ディアナは彼に抱きついていた。 「おかえりなさい、ヴァル!」 「ただいま、ディアナ。……随分と熱烈な歓迎だな」 ヴァルの低くて心地のよい声には、若干の呆れが含まれていたものの、今はそんなことは気にならない。 彼の胸から顔を離すと、にっこりと笑いかける。 「だって、ヴァルに会いたかったんだもの」 「毎日顔を合わせてるのに、まだ飽きないのか?」 見上げた先では、声音同様、呆れの滲んだ苦笑いを浮かべているヴァルの顔があったが、そこには隠しきれていない喜びも見て取れた。 だから余計に嬉しくなり、ますます表情が緩んでしまう。 昔の自分ならば、絶対にできなかった感情表現に、我ながら変わったものだと実感する。 そっとヴァルの背に回していた腕を離すと、部屋に備え付けられている呼び鈴で侍女を呼び寄せる。 ものの数分で現れた侍女に、ヴァルの分のお茶の用意を頼めば、あっという間に準備が整った。 相変わらず、ディアナの身の回りの世話をしてくれる侍女は優秀だ。 ヴァルと並んで再びソファに腰を下ろすと、彼はさっそくチョコレートに手を伸ばし、口の中に一度に二粒も放り込んだ。 余程、甘いものを欲していたのか、しばらくチョコレートを黙々と食した後、ようやくジンジャーティーを飲んだ。 ずっとチョコレートを食べ続けていたせいで、口の中が甘ったるくなってしまったらしく、紅茶を一気に飲み干していく。 ちなみに、皿の上も空だ。 「……ヴァル、まだ疲れが残ってるの?」 ヴァルはディアナと同じくらい休息を取っていたはずなのだが、まだ休みが必要だったのだろうか。 胸を微かに不安が掠めていっておずおずと訊ねれば、ヴァルがちらりとこちらを流し見た。 「……かもしれない」 「何か、私にできること、ある?」 机仕事で肩が凝っているのであれば、揉み解すことくらいディアナにもできるし、話を聞くこともできる。 頭の疲労を回復させるためにもっと甘いものが食べたいなら、侍女に頼んで用意してもらえる。 じっとヴァルの横顔を見つめて返事を待っていると、彼は宙に視線を彷徨わせてきつく眉根を寄せた。 どうやら、考え事をしているらしい。 ヴァルが答えを出すまで大人しく待っていようと、一度彼から視線を外し、残りのチョコレートを摘まむ。 今度噛み砕いたチョコレートの上には大きなアーモンドが乗っており、甘みと調和を取っている香ばしさも、歯応えも絶妙だ。 少し冷め気味になっていたジンジャーティーを慌てて飲み干していたら、隣からディア ナの大好きな声が聞こえてきた。 「……お前の意見を聞いてみたいことがあるんだが、いいか?」 隣へと振り向けば、ヴァルが神妙な面持ちでこちらを見つめていた。 そんなヴァルに対し、ディアナは一も二もなく真顔で頷く。 「うん、いいよ。……何かあったの?」 ディアナがそう問いかけると、ヴァルは僅かに間を置いてから声を発した。
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