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「……トバイア=ランチェスターのことなんだが、トバイアがお前の主治医だというのは、 間違いないな?」
「うん、そうだよ」
トバイアの名が出てきたということは、彼が城の周りを徘徊していた原因が判明したのだろうか。
そうだとしても、どうして今さらディアナとトバイアの関係性を確認してくるのだろう。
そう疑問には思ったものの、素直に首肯すると、ヴァルは問いを重ねてきた。
「主治医と患者という枠組みを超えての付き合いはあったか?」
その質問を耳にした刹那、もしかしてディアナが過去に関係を持った男性を洗い出そうとしているのかという、疑惑が生まれる。
仮にそうだとしたら、かなり不快なのだが、とにかく話を最後まで聞いてみないことには分からない。
「ううん、なかった。いつも健康診断をして、それで終わり」
一度だけ、ヴァルの色彩が原初の獣と同じだから興味深く、解剖してみたいとほざいたトバイアの眉間に銃口を押し当てたことがあるが、わざわざ報告するまでもないだろう。
「じゃあ、トバイアの趣味とかは知らないのか?」
「……趣味?」
何故、ここでトバイアの趣味に触れてくるのか。ディアナは微かに眉間に皺を寄せ、首を傾げる。
「……別に仲がよかったわけじゃないから、よく知らない。強いて言うなら、仕事が趣味みたいな人だと思う」
トバイアは医者であると同時に、害獣の研究を行う研究者でもある。
あれだけ害獣や獣人に興味関心を抱き、忙しい職種に兼務しているのだから、余程仕事に生きがいを見出しているのだろう。
怪訝に思いながらもそう答えれば、ヴァルは僅かな躊躇いを見せた後、非常に言いにくそうに質問を続けた。
「……単刀直入に訊く。トバイアが黒魔術に傾倒してたかどうかは、知らないか」
突然、黒魔術という単語が耳に飛び込んできて、ぱちぱちと目を瞬く。
(黒……魔術?)
その質問は、一体どういう意味を帯びているのか。
傾けていた首を元の位置に戻し、じっとヴァルの深紅の瞳を覗き込む。
ディアナにまじまじと見つめられ、若干居心地が悪そうに瞳の奥が揺らめいたように見えたものの、ヴァルもまたこちらを見つめ返してくる。
「……それで、どうなんだ」
どのくらいの間、そうやって見つめ合っていたのだろう。
やがて、ヴァルはやや不機嫌そうな声を出した。
ディアナがあまりにも凝視していたものだから、正気を疑われているのかもしれないと、誤解を招いてしまっただろうか。
ディアナは少しだけヴァルから距離を取って居住まいを正し、正直な意見を述べた。
「……ランチェスター先生は、どちらかというと現実的な人だから、そういうのにはあんまり興味を持たない気がする」。
獣人を解剖してみたいという、常人には理解し難い願望の持ち主ではあるものの、医術や化学の域を出るような、非現実的な発想は持っていなかったはずだ。
「……そうか。いきなり変なことを訊いて、悪かった」
淡々とした声音で紡がれたディアナの返答を受けたヴァルは、疲れたような顔をして溜息を零した。
「頼まれごとを引き受けるって決めたのは私だから、ヴァルが謝ることないよ。……その質問って、前にランチェスター先生のことを調べてみるって言ってたことと、何か関係があるの?」
「ああ。お前が気づいたことだから、お前とも調査結果を共有しておこうと思ってな」
「ありがとう。それで……その質問と黒魔術の間に、どんな関係があるの?」
改めて問いを重ねれば、ヴァルは渋面を作って答えた。
「……トバイアが城の周りを徘徊してた理由が、どうも家畜の血で魔法陣を描くためだったらしい、という報告が上がったんだ」
「……は?」
ヴァルの返事を耳にした途端、ディアナの唇から素で冷めた声が零れ落ちていく。
(家畜の血で……魔法陣? ランチェスター先生が?)
似合わない。
あまりにもトバイアという男の人物像とかけ離れた行為に、呆気に取られるしかない。
彼が家畜の解剖をしていたというのなら、充分納得がいくが、それで黒魔術の真似事をしていたなんて、どうかしたのかと思わずにはいられない。
それはそれでどうなのかと、傍から見たら言われそうなことを考えつつ、指先でこめかみを解して頭を働かせる。
「……ごめんなさい。予想の斜め上をいく結果を聞かされたから、すごく反応に困った」
「安心しろ、俺もだ」
そう言いながら、ヴァルは懐から数枚の写真を取り出し、ディアナに見せてきた。
そこには、雪と共に魔法陣がしっかりと写り込んでいた。
物的証拠を眼前に突き出され、事実だと認めざるを得なくなったディアナは、より一層困惑を深める。
何とも形容し難い気持ちで写真を眺めていたディアナの目の前から、写真が引っ込められる。
写真の行方を目で追うと、ヴァルが自身の懐に証拠写真を仕舞う。
「ちゃんと証拠もあるから、事実なのは間違いないってよく分かったけど……何だか、納得いかない」
ヴァルから視線を外し、窓の外に目を向ける。
すると、彼がこの部屋に来るまでの間眺めていた雪が、再度視界に映る。
雪が降り止む気配は一向になく、今日一日は降り続けるのだろうと察せられる空模様だ。
寒々しい外の様子を見据えつつ、ヴァルの口からトバイアの不審な行動の答えを聞かされてから、ずっと胸に居座っている違和感の正体を探ろうと試みる。
(何だろう……この、嫌な感じ)
ついこの間も、この感覚を味わう羽目になった気がする。
一体何だったかと、内心首を捻りながらヴァルに視線を戻した直後、怒涛の勢いで脳裏に色鮮やかな記憶の奔流が押し寄せてきた。
同時に、当時の感情まで心に蘇ってきてしまいそうになり、慌てて胸の奥底に蓋をする。
それでも溢れ出してきた感情からは目を逸らし、波立つ心が落ち着くまで目を閉じる。
(ああ……そっか)
どうして、すぐには思い出せなかったのだろう。
ディアナならば、即座に思い至っていたとしても不思議ではないのに、何故かそこに意識が向いていなかった。
でも、そう疑問に思ったのも束の間で、できれば忘れてしまいたい出来事だったから、無意識のうちにそこに気が回らないよう、思考回路が歪められていたのだと考えれば、腑に落ちた。
ディアナは自分の心を守ることに関しては、誰よりも長けているのではないかと思う節があるから、知らず知らずのうちにそういった働きがあったとしても、おかしいとは感じない。
感情の荒波が去った頃を見計らい、緩やかに瞼を持ち上げれば、ヴァルが怪訝そうにこちらを見つめていた。
自分の方に視線が戻ってくるなり、ディアナが瞼を閉ざしたものだから、 何事かと思っているのだろう。
眉間に皺を刻んだヴァルに向かって、ディアナは抑揚の少ない乾いた声で告げた。
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