Chapter2. 『鉄槌』

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数日後。 サイラスの手腕により、ギディオンとレイフ、それからジゼルとは話がついており、早くも交渉の場が整えられた。 ディアナは交渉が始まるまでの間、逸りそうになる心を鎮めるため、一人自室で待機していた。 「……駄目、全然気が紛れない」 少しでも別のことに意識を向けようと、読書をしたり、凝った模様の刺繍に挑戦してみたり、蓄音機で音楽を聴いたりしたのだが、ちっとも集中できないし、気分も落ち着かない。 苛立たしい気持ちで溜息を零し、流していた穏やかな楽の音を止め、腰かけていたソファから立ち上がる。 腕を組んで窓辺へと歩み寄り、窓の外を覗き込む。 ここ数日降り続いていた雪は止み、空は雲には覆われているものの、薄日が射している。 淡い日差しに照らされた積雪は微かなきらめきを放ち、さながら純白の海みたいだ。 (……気持ちで負けるな、私) 今日に至るまであまり時間がなかったとはいえ、何もしてこなかったわけではない。 ディアナなりに下調べをしてきたのだから、今の自分に必要なのは度胸と話術だけだと、必死に己に言い聞かせる。 指先で自身の腕を叩きつつ、柱時計に目を向けて時刻を確認する。 (約束の時間まで、あと十五分……) 密談は、城の中の一室で行われることになった。 当初、ヴァルはディアナとは時間差で移動し、王城から離れた場所で話し合いを行うべき ではないかと提案してきた。 でも、こそこそと動き回っていると、かえって嗅ぎつけられやすいと考えたディアナが異を唱え、二人で話し合いを重ねた結果、あえて堂々と王城内で交渉を行うことにしたのだ。 仮に、その場をウォーレスたち戦争推進派に取り押さえられたとしても、城内にいたのであれば、いくらでも誤魔化しようがある。 むしろ、城から離れた人目のつかない場所で、国王夫妻に神殿の最高責任者、王立騎士団長、魔女の末裔という顔ぶれが揃っているところに踏み込まれたら、弁解の余地がない。 (そろそろ移動しよう……) 気を引き締め直して窓辺から離れた直後、ディアナの私室の扉をノックする音が聞こえてきた。 そのよく馴染んだ気配に安堵の吐息を漏らし、早足に扉へと近づいていく。 静かに扉を開けて顔を覗かせた先では、案の定、ヴァルがこちらを見下ろしていた。 どうやら、わざわざ迎えに来てくれたみたいだ。 ヴァルもディアナと同じように緊張しているらしく、常より顔が強張っていた。 だが、深紅の眼差しとエメラルドグリーンの眼差しが絡み合うと、ほんの少し表情が和らいだ気がした。 「……行くか」 「うん」 ディアナはヴァルと頷き合い、自室を後にする。 部屋を出た先に広がっている廊下は、まるでディアナたちの張り詰めた気持ちを反映したかのごとく、しんと静まり返っていた。 綺麗に磨き上げられた床の上には、毛足の長い絨毯が敷かれているため、足音が吸い込まれる。 だから、余計に静けさが強調されているように感じられた。 時折、耳朶を掠める自分の呼吸音が、いつもよりやけに大きく聞こえる気がする。 ヴァルと並んで歩いているうちに、やがてサイラスが用意してくれた部屋の前に辿り着いた。 その部屋の扉の脇には、ディアナにとって最も信頼できる侍女であるベニタが、ひっそりと控えていた。 ディアナたちと目が合うなり、ベニタは折り目正しく腰を折った。 深々と頭を下げたベニタが緩やかに顔を上げると、規則正しいリズムで目前の扉を叩いた。 「――失礼致します。両陛下がお越しになられました」 ベニタは返事を受け取る前にゆっくりと扉を開け、ディアナたちに入室を促す。 ヴァルは一つ頷いて室内へと足を踏み入れ、ディアナもその後に続く。 サイラスが用意してくれた部屋の中には、既にギディオン、レイフ、ジゼルの姿があり、それぞれ一人掛け用のソファに腰を下ろしていた。 ディアナたちの登場に、彼らは席を立って挨拶をしようとしてきたが、ヴァルが手で制した。 「挨拶はいい。そのまま座っていてくれ」 「……それでは、お言葉に甘えて」 「陛下が、そうおっしゃるのであれば」 ヴァルの言葉に真っ先に従ったのは、静謐な眼差しをこちらに向けてくるギディオンだ。 続いて、レイフが恭順の意を示す。 ジゼルは極度の緊張状態に陥っているのか、声を発することさえままならない様子で、びくびくと身を縮み込ませ、所在なさげに視線を彷徨わせている。 しかし、ディアナと視線が交錯すると、怯えがありありと浮かんでいる薄いブルーの瞳に、微かに安堵の色が滲んだ。 今の自分に、ジゼルから信頼の眼差しを向けられる資格はないのに、まるで救いを見出したかのような彼女の目を見た途端、確かな喜びが胸を過っていく。 そんな自分の気持ちの変化に、苦い罪悪感が込み上げてくる。 すっとジゼルから目を逸らし、ヴァルと並んで革張りのソファに腰かける。 ヴァルはこの場にいる全員の顔を見渡すと、おもむろに口を開いた。 「――皆、今日はよく集まってくれた。今日は、共にこのルミエール国の展望を存分に語り合えたらと思う」 ヴァルは綺麗な言葉を選んで使ったものの、この場にいる人は皆、彼が何を望んでいるのか、薄々と察しているみたいだ。 ギディオンとレイフは一層表情を引き締め、ジゼルは不安そうな面持ちで周囲の様子を窺っている。 ディアナも密かに深呼吸をして、膝の上で組んだ指先にきゅっと力を込める。 「それでは、有意義な時間を過ごせることを願って、私から話をさせてもらおう」 ヴァルがそこまで話したところで、ギディオンたちにとっては二度目の扉をノックする音が室内の空気を震わせた。 ヴァルが一旦口を噤んでから入室の許可を出すと、扉の向こう側からベニタが姿を現し、素早くお茶の支度を済ませ、瞬く間に部屋から出ていった。 でも、ベニタが淹れた紅茶に、誰も手をつけない。 万が一を考慮し、口に含むことを躊躇っているのだろう。 だから、ディアナは誰も手をつけようとしない紅茶が注がれたティーカップを持ち、わざとらしいほど緩慢とした所作でカップの縁に口をつける。 ジゼルが小さな声を漏らしたが、 気にせず紅茶を一口飲む。 ベニタが淹れてくれたのは、ディアナの大好きなアールグレイだった。 そこにミルクと砂糖が足され、ベルガモットの芳醇な香りとミルクの甘くて優しい香りが混ざり合い、張り詰めた心を解きほぐしていくかのようだ。 ティーカップの縁から唇を離してカップをソーサーの上に置き、ギディオンたちに挑発的な微笑みを向ける。 「……毒は入ってないよ?」 獣人は血液中に毒素が含まれているため、体質的に毒への耐性は非常に高い。 この世に存在する毒の中で獣人に効果を発揮するものは、現在に至るまでまだ発見されていないほどだ。 だから、ディアナの過去を知らない人間がこの発言を聞いたところで、安心なんてできやしないだろう。 だが、ここに集まっている人間たちは皆、ディアナがどういう境遇で育ったのか知っている。 ウォーレスに命令された人間を始末する際、毒を使ったことはほとんどないが、それでも暗殺の訓練の一環として毒薬の知識は叩き込まれている。 そのため、匂いや色、 物の中に毒が混入されているかどうかくらいは、分かる。 だからだろう。 おそるおそるではあったものの、ギディオンたちも紅茶に手を伸ばす。 そして、その場に集まった全員が唇を湿らせたのを確かめた後、ディアナは微笑みを浮かべて声を発した。 「――それじゃあ、改めまして。この国の未来について、みんなで一緒に考えましょう?」
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