Chapter2. 『鉄槌』

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ふと、何かの拍子に意識が覚醒し、緩やかに瞼を持ち上げる。 目を開けた先では、ヴァルが健やかな寝息を立てて深い眠りについていた。 ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返し、ぐるりと辺りに視線を巡らせれば、天蓋から垂れ下がったカーテンに覆われたベッドの中の闇は深く、カーテンの隙間からは一筋の光も射さないから、まだ深夜に当たる時間帯なのだろうと、起き抜けの頭で考える。 再び目を閉じて眠ろうとするが、妙に意識が冴えてしまい、一向に睡魔が忍び寄ってくる気配はない。 枕に頭を預け、柔らかで暖かな羽毛布団にくるまり、触り心地のよいシーツに指を這わせ、愛する夫の寝息に耳を傾けていても、少しも心が休まらない。 まだ、昼間に行った密談の内容が、脳裏にこびりついているからだろう。 だから、こんなにも眠りやすい条件が揃っているはずなのに、なかなか寝付けないに違いない。 (せっかく、寝る前に運動したのにな……) ギディオンたちとの交渉が終わった後、ずっとディアナの気が立っていることを察していたのだろう。 あるいは、ヴァル自身も胸にわだかまりがあったのかもしれない。 昼間の出来事を消し去ろうとするかのごとく、ベッドに入るや否や、彼に強く求められた。 ヴァルに抱かれれば、ぐっすりと深い眠りにつけるだろうと思ったし、求められること自体が嬉しかったから、ディアナも全力で応えた。 しかし、今も尚心地よさそうに眠り続けているヴァルとは違い、ディアナの眠りは浅かったらしい。 しかも、なかなか二度寝ができずにいる。 寝付けない現状に苛立ってこっそりと溜息を吐き、眠るヴァルを起こさないように細心 の注意を払いながら、ゆっくりと上体を起こしてベッドから抜け出す。 そして、素足をルームシューズに滑り込ませ、ネグリジェの上に厚手のカーディガンを羽織ると、窓辺へと近づいていく。 日中はうっすらと空を覆っていた雲はどこかへと行ってしまったみたいで、冴え冴えとした光を地上に投げかける月が夜空に君臨する様が、はっきりと視界に映った。 空気が澄んでいる真冬の夜空は、月も星も鮮やかな光を放ち、感嘆の吐息が零れそうなほど美しい。 でも、いつもならば心動かされそうな光景を目の当たりにしても、今のディアナには胸を震わせるような感動は湧き上がってこない。 ただひたすらに、昼間手に入れた情報が頭の中を埋め尽くし、視界を不鮮明にする霧みたいに、不安が胸中を漂う。 自分が何を為すべきなのかは、分かった。 その行動を遂げる決意も、固めたつもりだ。 あとは実行に移すのみだと充分理解しているのに、もし失敗してしまったらと思うと、悪寒が全身に纏わりつく。 咄嗟に、カーディガンの前をぎゅっと掻き合わせる。 (気持ちで負けちゃ駄目だって、分かってるのに……) だが、密談の中で知った真実を思い返せば思い返すほど、恐怖に呑まれそうになる。 ディアナが思っていたよりも事態は深刻で、現実は甘くなかった。 非情で不条理な真実を聞かされた時、どうしてという想いが拭えなかった。 しかし同時に、現実がディアナの味方をしてくれたことなんて、ほとんどなかったではないかと、どこか冷めた気持ちも胸の内に存在している。 失望と諦念に心を苛まれ、気がつけば、自嘲の笑みを漏らしていた。 (ヴァルに復讐するって決めた時には、もう希望なんて残されてないって思ってたのに……) でも、こうして落胆や諦めを覚えているということは、ヴァルと一緒に生きると考え直してから、無意識のうちにありもしない希望に縋っていたのだろう。 随分と虫の良い自身の思考回路に、最早笑うしかなかった。 ひとしきり、気が済むまで声を殺して笑ってしまえば、いくらか気持ちが軽くなった。 どこまでこちらの思惑通りに事が進むかどうか分からないが、やるしかないと改めて腹を括る。 踵を返してベッドに戻ろうとした寸前、微かな衣擦れの音を耳が拾う。 ゆっくりと後ろを振り返れば、ちょうどカーテンの向こう側からヴァルが姿を現すところだった。 ゆったりとした足取りでこちらに歩み寄ってくる彼に、苦笑いを浮かべる。 「……起こしちゃった? それとも、起きてた?」 ヴァルには、ディアナの目の前で実に堂々と狸寝入りしていた前科がある。 だから、もしかすると今回もそうだったのかもしれないと思い、からかうような口調で訊ねれば、ディア ナのすぐ目の前までやって来たヴァルは緩く首を横に振った。 「……いや、ついさっき目を覚ましたところだ。お前こそ、眠れないのか」 「うん。私、ヴァルみたいに神経が図太くないから、眠れなくなっちゃったみたい」 ヴァルに心配をかけたくなかったから、冗談めかして答えると、何を思ったのか、不意に彼の腕がこちらに伸びてきて、ふわりと抱き寄せられた。 眠りに落ちるまで交わっていたからか、ヴァルからディアナと同じ清潔な石鹸の香りが漂い、鼻先を掠めていく。 ディアナを抱き寄せた右手は腰に回り、左手は後頭部を優しく撫でてくる。 「不安か」 「……うん、少しだけ。でも、大分落ち着いてきたから、そんなに心配しないで」 低くて心地のよい声に本心を見抜いた言葉を紡がれると、何故か素直に本音を口に出してしまう。 取り繕うことができなくなる。 気持ちが弱っていることを正直に認め、ヴァルの胸に頬を寄せれば、ディアナの頭を撫でる手つきが一際繊細なものになっていく。 そっと瞼を下ろせば、ヴァルの胸で脈打つ鼓動が、直に耳に伝わってきた。 規則正しく響いてくる振動に耳を澄ませていると、さらに心に平静が戻ってくる気がした。 ゆっくりと目を開け、ヴァルの胸から頬を離して顔を上げると、深紅の眼差しに射抜かれた。 室内は闇に包まれ、窓から射し込む月光だけが唯一の光源だというのに、彼の深紅の瞳はやけにはっきりと見える。 こちらを見下ろしてくるヴァルをじっと見つめ返していたら、引き結ばれていた彼の唇が開いた。 「……大丈夫だって、口先だけでも気休めの言葉を言っておくべきなのかもしれないが」 そう前置きしてから、ディアナの大好きな声が続きの言葉を紡ぎ上げる。 「――何があろうとも、どんな結果になっても、俺はお前を手放したりしない。もしもの時も……傍にいる。約束だ」 ――大丈夫。絶対に成功する。何も心配することなんてない。 この状況で不安がるディアナを安心させるための言葉は、他にももっとあるのだろう。 だが、ディアナが思いつく慰めの言葉よりも、ヴァルがはっきりと告げてくれた約束の言葉の方が、ずっと心に響いた。 喉に熱いものまで込み上げ、気を抜いたら涙腺が緩んでしまいそうだ。 「……ヴァルって、私を安心させる天才だね」 ヴァルがディアナを手放したりしない、傍にいると宣言すると、本当にそうするのだろうと、何の疑いもなく信じることができる。 ディアナからあれほどの激情を向けられ 気持ちが揺らがなかったヴァルだからこそ、為せる業だ。 そんなヴァルを狂っていると、正気の沙汰ではないと白い目で見る人は、一定数存在するのだろう。 しかし、文字通り何があろうとも、どんな結果になっても、約束を守り通してくれるヴァルは、ディアナにとって、この上なく信頼できる相手だ。 緩慢とした動作でヴァルに向かって両手を伸ばし、その頬を包み込む。 それから、背伸びをしてヴァルに顔を近づければ、暗黙の了解だと言わんばかりに彼は目を閉じた。 ディアナも自分の唇をヴァルの唇に重ね合わせると、そっと瞼を下ろした。 (……ヴァル。どんなことがあっても一緒にいてくれるって約束してくれて、ありがとう) その言葉は、今のディアナにとって何よりも心強い。 感謝の気持ちが伝わりますようにと祈りつつ、深い口づけを交わす。 二人の影が一つに溶け合う様を、空高く昇った月だけが見下ろしていた。
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