Chapter2. 『鉄槌』

10/11
前へ
/90ページ
次へ
数日後の昼下がり。 万全の準備を整えたディアナは、ウォーレスの執務室に向かっていた。 約束通り、ウォーレスと話す機会を作ってもらったのだ。 ヴァルと共に、ギディオンとレイフ、そしてジゼルを交えた密談を行った直後はあんなに胸を騒がせていた不安も、今では鳴りを潜めていた。 自分でも驚くほど、ディアナの心は静けさを湛えていた。 ヴァルに抱きしめられ、心強い言葉をもらっただけで、こんなにも気の持ちようが変わってしまうのだから、本当にディアナは単純だ。 ちらりと廊下から外の様子を窺えば、久しぶりの清々しい晴天が広がっていた。 柔らかで 穏やかな陽光が少し薄くなった積雪に降り注ぎ、地上から燦然とした輝きを放っている。その光景を眺めているだけで、自然と気持ちが上向いていくかのようだ。 そうこうしているうちに、ウォーレスの執務室の前に辿り着き、眼前の扉を控えめにノックする。 「――ディアナです。約束のお時間となりましたので、ここを通していただけないでしょうか」 ディアナが名乗った直後、こちらに足音が向かってきたかと思えば、即座に目の前の扉が開かれた。 開かれた扉の先で立っていたのは、悠然とした笑みを湛えたウォーレスだった。 わざわざ人払いをしておいてくれたらしく、彼自ら出迎えてくれた。 (ああ……でも、前からウォーレスは、自分の仕事部屋にもプライベートな部屋にも、あんまり人を入れようとしなかったな……) 警戒心が強いのか、孤独を好んでいるのか。 これまで考えもしなかったことが脳裏を過ったが、別にどちらでも構わないという結論に至る。 ディアナがじっと見つめていると、ウォーレスの薄くて形のよい唇がうっすらと開かれた。 「これはこれは、妃殿下。ようこそ、おいでなさいました。なにぶん、忙しい身でありますので、妃殿下に満足していただけるもてなしはできそうにもございませんが、どうぞごゆっくりなさっていってくださいませ」 「……お気遣い、感謝致します」 そんな社交辞令はいらないと切り捨ててしまおうかと思ったが、面倒臭いので適当に受け流し、ウォーレスに促されるまま彼の執務室に足を踏み入れる。 忙しい身だと言っていた割には、室内は小奇麗に片付いていた。 「妃殿下、どうぞソファにおかけになってください。妃殿下が愛飲なさっているアールグレイも用意させていただきましたし、ジャムやチョコレートが詰まったタルトクッキーも――」 「――立ったままで、結構。わざわざお茶の準備をしておいてくれたのも、ありがたいとは思うけど、私は世間話をしに来たわけじゃないから、いらない」 ウォーレスの言葉を、剣の切っ先のごとく鋭い声で遮る。 すると、革張りのソファや、純白のクロスが広げられているローテーブルに注がれていた彼の視線が、緩やかにこちらへと向けられる。 ウォーレスが口を開くよりも先に、言葉を継ぐ。 「ウォーレス。貴方はエル様……いいえ、エルバート殿下と手を組んで、領土拡大のために ディンズデールに戦争を仕掛ける気なんでしょう? そして、陛下に何を言われようとも、やめるつもりもない、と」 ディアナが確かめるようにそう問いかければ、ウォーレスは何を今さらと言わんばかりの失笑を漏らした。 「何をおっしゃるかと思えば……」 「それから、そのやたらと丁寧な喋り方もやめて。薄気味悪いから」 腕を組んでウォーレスを半眼で見遣り、呆れの混じった笑みを一刀両断する。 「できるだけ貴方と同じ空気を吸いたくないから、単刀直入に言わせてもらうね。――ウォーレス。戦争犯罪人として、貴方の身柄を拘束します。それから、数年に渡り、王妃を洗脳してきた罪も、国のためだと主張して、国の要人の暗殺を強いてきた罪も……身柄を拘束した後、法に則って裁いてもらいましょう」 ディアナがそう告げた瞬間、ウォーレスの動きがぴたりと止まった。 ずっと顔に張りついていた余裕の笑みも消え去り、何の感情も窺えない面持ちでこちらを凝視してくる。 「……何だと?」 「……何を驚くことがあるの? 貴方は今までずっと、たくさんの罪を犯してきたじゃない。今までは、国の都合で見逃されてきただけ。貴方を見逃すことが国益に繋がらないと判断されたら、切り捨てられることくらい、貴方なら予測済みでしょう?」 ウォーレスのあまりにもありふれた物言いに、せせら笑う。 まるで小物みたいな反応が滑稽で、笑いが止まらない。 こんな男に自分は今まで精神的に束縛されていたのかと思うと、 本当に何を恐れていたのかと不思議でたまらない。 「人間と獣人が分け隔てなく生きられる国に変えられたことに、満足しておけばよかったのに。そうすれば、貴方は後世まで賢人として称えられたのに。犯罪行為もなかったことにしてもらえたのに。いや、国のために罪に手を染めたとか、美談として語り継がれたのかな?」 でも、ウォーレスの野望は留まるところを知らなかった。 もっと国力を上げるため、領土拡大へと乗り出した。 そして、そのために祖国への復讐を誓うエルバートと協力関係を結び、戦争を起こす準備を始めてしまった。 だから、ディアナが仮定の話として挙げた未来は、完全に断たれてしまったのだ。 「本当に、ばっかみたい。自分の欲に自分の首を絞められるなんて」 侮蔑を込めて歪んだ微笑みを浮かべれば、ウォーレスが驚きに軽く目を見張る。 だが、それもほんの僅かな間だけで、すぐに忌々しげに表情が歪められた。 「……何故だ」 「何故って、どのことを疑問に思ってるの? 自分が犯罪者として捕まること? 新しい王様に見放されたこと?」 「違う。……ディアナ、お前は自分の意志で何かを成し遂げることなんて、できなかったはずだ。私の命令通りにしか動けない、化け物だったはずだ。それなのに、何故私を断罪しようとする? 良心は痛まないのか」 「良心は痛まないのかって……そんなはずないでしょう」 彼の問いに、嘲笑を漏らす。 何を訊かれるのかと思えば、そんなことだったなんて、呆れを通り越していっそ感動すら覚えそうだ。 「貴方、自分がしてきたことを忘れたの? 私が貴方のことを好意的に思えるはずがないじゃない。それに、個人的にも客観的にも、貴方の罪は庇いきれるものじゃないし。そうするメリットも特に見つからないし」 「だが、お前は――」 「――自分の意志で何かを成し遂げることなんて、できないって? ウォーレスの命令通りにしか動けない化け物だって?」 おそらくウォーレスが続けようとしていたのであろう言葉を奪い、代わりに口にする。 そうしたら、嘲りの笑みが引っ込み、すとんと顔から表情が抜け落ちていった。 「それ、いつの話をしてるの?」
/90ページ

最初のコメントを投稿しよう!

29人が本棚に入れています
本棚に追加