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「わあ……!」
可能な限り早く朝の支度を済ませて街中に繰り出すと、街の様子は日頃のものとは一変していた。
道の両脇には露店が所狭しと立ち並び、大規模なバザーが開かれていた。
露店は家庭から出品されたものだけではなく、商店が出しているものもあった。
特に、飲食物は専門の店で出しているものが多い。
行き交う人々の多くは笑顔で、道の片隅に寄せられた雪は陽の光を浴びてきらきらと輝き、さながら平和と幸福を絵に描いたような光景だ。
きょろきょろと辺りを見回していたら、急にヴァルに腕を掴まれた。
驚いてヴァルの方に振り向けば、彼は眉根を寄せていた。
「あんまり、うろちょろするな。転んだりしたら、どうするんだ」
呆れた声と共に、ヴァルの口から吐き出された白く見える息が、あっという間に空気の中に溶け込んでいく。
まるで幼子を相手にしているかのようなヴァルの物言いに、むっと唇を尖らせて彼の手を振り解き、解放された両手を腰に当てる。
「もう、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。私の運動能力と反射神経のよさは、ヴァルもよく知ってるでしょう」
「だが、その服が万が一にも汚れたりしたら、お前は間違いなく落ち込むだろうが。あれだけ、一生懸命選んでたんだからな」
ヴァルから指摘を受け、自分が身に着けている衣服に視線を落とす。
本日の装いは、ワインレッドの膝下丈のドレスを着て、その上にアイボリーのロングコートを着込んでいる。
だから、ヴァルの指摘は尤もだ。
もしこの淡い色のロングコートを汚したりしたら、ディアナの祭りの雰囲気で浮かれている気分は、瞬く間に急降下してしまうだろう。
ヴァルに視線を戻せば、ディアナとは対照的に黒や濃いグレーの防寒具に身を包んでいる彼と目が合う。
「……うん、分かった。もうちょっと気をつける」
ディアナが素直に頷くと、不意にヴァルに手を差し出された。
一瞬きょとんと目を瞬かせた後、はにかんでその手を取る。
「……そうだね。ヴァルと手を繋いでいれば、安心だね」
さくさくと積雪を踏みしめつつ、きゅっとヴァルの手を握り返す。
繋がれた手に向けていた視線を上げれば、穏やかな赤い瞳に心を絡め取られる。
「――そこのお二人さん、ホットワインはいかが?」
ヴァルと手を繋いだまま見つめ合っていたら、唐突に声をかけられた。
慌てて声がした方に目を向けると、人の好さそうな笑みを浮かべた、初老の女性がこちらに手招きしていた。
彼女は赤い屋根の屋台で、木製のマグカップにホットワインをせっせと注ぎ、通行客に配っていた。
暖を求めてか、その屋台の前を通りかかった人の多くは、ワインを受け取ると共に何枚かのコインを手渡している。
わざわざディアナたちに声をかけずとも、充分客は取れているように見えるのだが、商魂たくましくより多くの人に商品を売りさばこうとしているらしい。
でも、その姿勢を不快に思うほどディアナたちの懐は寂しくないし、この寒い中で温かい飲み物をちらつかせられたら、誰だって欲しくなるに決まっている。
ディアナとヴァルは顔を見合わせて頷き合い、ホットワインを買うことにした。
ヴァルがコインを数枚渡すと、初老の女性はにっこりと笑い、二人分のマグカップを渡してくれた。
「お買い上げ、ありがとうございます。よいお年を」
「ありがとうございます、いただきます」
一旦ヴァルから手を放し、二人分のカップを受け取る。
中にホットワインが入っているからか、それとも木製のマグカップだからか、手袋越しにでもその温かさがじんわりと伝わってくる。
「はい、ヴァルの分」
「ああ、ありがとう」
屋台から少し離れたところで、ヴァルの分のカップを差し出せば、彼は受け取ってすぐにカップの縁に口をつけた。
ディアナもヴァルに倣い、マグカップを口元に運ぶ。
カップからは湯気と一緒に、スパイスの香りがふわりと立ち上る。
香りから察するに、クローブとシナモン、それから生姜が温めた赤ワインに入っているのだろうか。
何だかんだで、これまで一度もホットワインを飲んだことがなかったから、どきどきと胸を高鳴らせながらワインを口に含む。
「おいしい……」
ホットワインをよく味わってから嚥下し、真っ先に出てきた言葉は、感嘆の吐息が混じっていた。
ワインといえば、酸味が強いイメージが先行していたし、スパイスも入っているからもっと刺激の強い味なのかと思ったのだが、ホットワインは舌触りがよく、まろやかな味わいだった。
もしかしたら、砂糖か蜂蜜でも入っているのかもしれない。
残りのワインも味わいつつゆっくりと飲んでいると、マグカップの縁から口を離したヴァルが声を発した。
「ああ、美味いな。うちで飲んでたやつと、味が似てる」
「ヴァルはホットワイン、飲んだことあるの?」
「……むしろ、ない方が珍しくないか? 年越しといえばホットワインだし、アルコール飛ばしてあるから、子供でも飲めるだろう」
確かに、ヴァルの言う通り、バスカヴィル国やノヴェロ国では年越しには祭りを開くだけではなく、定番の飲食物というものがある。
その一つが、このホットワインだ。
だが、ディアナはずっとそういうものとは縁遠い生活を送っていたから、知識としては知っていても実際に体験したことはない。
チューリップ祭り同様、こうして年越しの祭りに参加するのは初めてだ。
もしかすると、人間だった頃はこうやって年越しを祝っていたのかもしれないが、覚えていないから同じことだ。
怪訝そうな目を向けてくるヴァルに、軽く肩を竦めた。
「……私、前にも言ったけど、こういうお祭りに参加したことは、ヴァルと結婚するまでなかったし、お祝い事をすることもほとんどなかったから、ホットワイン飲んだことはなかったんだ」
年齢の問題はもちろんのこと、ディアナは暗殺を生業としてきたから、アルコール類はなるべく避けていた。
ホットワインは熱でアルコールを飛ばしているため、子供でも飲めるものだから、飲もうと思えば飲めたのだが、それでも万が一にも判断力や身体の動きが鈍ることを恐れ、アルコールを摂取しないように気をつけていたのだ。
だから、ヒースとひっそりと年越しの祝いはしていたものの、互いにホットワインは飲まなかったのだ。
十中八九、ヒースはディアナに遠慮していたのだろう。
できるだけさりげない口調を心がけたのだが、目の前のヴァルは複雑な表情を浮かべていた。
そんな彼の気持ちを楽にしようと、柔らかく微笑む。
「――だから、私の常識とヴァルの常識は違うよって話」
常識なんて、人それぞれだ。
たとえディアナがもう少し一般的に近い環境で育っていたとしても、ヴァルの常識とは多少なりとも異なっていたに違いない。
だから、そんなに深刻に受け止めなくていいのだと言外に伝えれば、微かにヴァルの張り詰めていた表情が和らいだ気がした。
「……そうだな」
「うん、そうだよ。――そんなことより、ワイン飲み終わったら、あっちの方に行ってみよう」
ディアナが笑顔でそう続ければ、ヴァルの面持ちがさらに穏やかなものになったように見えた。
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