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8.善人になるなんてムリな話です
ハローワークでは、すぐに新しい仕事を紹介してもらえた。内容は、コールセンター業務。勤務形態や条件がこちらの希望に近い、職場に女性が多い、また、センターまでアクセスしやすいという点が魅力だ。今日、これから面接がある。
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
母がまた、優那の面倒を見にきてくれていた。
もう実家に戻ってきたらどうなの、そうしたら優那の世話くらいいつだって見れるのに、今どき出戻りなんて近所の人も気にしないわよ――何百回となく聞かされた母の小言をイライラしながら聞き流すのは疲れるけど、この仕事につければ、来月からは優那を保育園にあずけられる。
コールセンターに勤める未来を思い描きながら、ワタシは、バス停に向かった。今からだと、三十分くらい前には着いちゃうな。
バス通りに出ると、お年寄りがワタシの前を歩いていた。薄茶色のハンチングからのぞく短い白髪。ときどき立ち止まり、まわりを見まわしながら、ノロノロと歩いているので、すぐに追いついてしまう。
追い越そうとしたタイミングで、その男性が振り返った。一瞬、目が合う。どことなく虚ろな印象の目。
あれ、この感じって……?
認知症の方かもしれない。数年前、母やワタシの名前まで忘れたり、「家に帰る」といって出ていったりしはじめたころの父の様子を思い出した。
信号の先にはバス停が見えている。もう五分でバスが来るはず……。
ワタシはお年寄りを追い抜いてからしばらくして、後ろを振り返った。男性はまた、なにかを探しているかのように、ぼんやりと周囲を見回している。どこかに行こうとしたけど、行き先を忘れている状態に見えた。
この通りは、片側一車線ながら、いつもかなりの交通量がある。だいじょうぶか? 次の瞬間、ワタシは引き返して、男性に近づいていった。
「こんにちは。お出かけですか?」
知人のように、できるだけにこやかに、問いかけてみる。
「ああ、メグミか?」
え?
「う、うん。メグミだよ。お父さん、どこか出かけるの?」
「母さんを迎えにいかないと」
「……ああ、そうだね。あのね、お母さん、公園に行くって言ってたから、一緒に探しにいこう」
「そうか、そうするか」
ワタシは男性を近くの公園まで誘導した。一緒に話していると、心配そうな表情がやわらいでいく。幸い、男性のもっていたキーホルダーには、連絡先が記されていた。
それから三十分ほどで、ご家族が到着する。面接には、もう間に合わない。そして男性は、ワタシが「メグミ」であることも、すっかり忘れていた。
◇
「そんな顔、せんといてや」
公園のベンチでぼうっとしていたワタシの前に、神さまが現れた。
「なにしに来たんですか」
「いちおう、ちゃんとお別れを言いにな」
「それはどうも、ご丁寧に。今日で十日目ですもんね」
「せやな」
ワタシは周囲を見回した。知らない人には、いたいけな少年をたぶらかすオバサンにしか見えないかもしれない。
「そういえば今日、メグミちゃん、ええことをしたな」
「ちっともよくないですよ」
「人助けは人助けや」
ほんとはちがうって、わかってるくせに。
「父親を見捨てたっちゅう負い目か」
「わざわざ言葉にしないで」
「せやけど、あのまま面接に行くこともできたはずや。いや、ほとんどそうしかけとった」
「……おかげで、仕事なくなりました」
「あっちを立てれば、こっちが立たず。世の中、思うように行かんもんやな」
「その世界、誰が作ったんでしたっけ」
「ルールを作るまでが、ワイの仕事や。どうプレイするかは、ジブンら次第。せやろ? ま、楽しみにしとるで」
「え、楽しみって――世界を滅ぼすんじゃ……?」
ワタシが尋ねる間もなく、ひらひらと手を振る神さまの姿は、幻のようにかすんでいき、ついには見えなくなった。
まさかほんとうに、幻? まあ、どっちでもたいした違いはないか。
家に帰ったら、母には適当な言い訳をしないといけない。そして、もし明日、世界がまだ滅びていなければ、ワタシは次の職を探しに出かけることになるのだろう。
〈終わり〉
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