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十一 白寿(四)
意味のわからないままになんらかの儀式を終えたらしい公祐は、与えられた部屋に戻り、皐月少年達の洗濯してくれた服に着替え、ふうっと息をついた。
ー俺、普通の人間なんだけどな......ー
シンプルな白いシャツにコットンのパンツとジャケットのいつものスタイルが、心底安心する。
と、公祐は妙なことに気づいた。
この屋敷......館には鏡が無いのだ。先ほどの部屋には神社の拝殿にあるような銅の丸い御神体のような鏡はあったが、他には一切鏡が無い。
それどころか食器以外にはガラスの一枚も見受けられないのだ。
ー変なの......ー
みんながどうやって髪や衣服を整えているのか、ふっと不思議に思った。が、皆はお互いにチェックし合っているのかもしれない。
廊下で皐月少年と文月少年らしきふたりが、互いに襟元を直し合っているのをちらりと見たりもした。
ーなんか変なの......ー
公祐はショルダーバッグの中から、自分の櫛と鏡を出して、髪を整え、襟元をチェックした。
まさか......と思って鏡越しに背後の景色をチェックしてみたが、特に変わったものも見えない。
ーまぁいいか......ー
多分、この屋敷は神社とかの社務所か客殿みたいなもので、昔ながらの様式を守っているだけに過ぎないのかもしれない。
ーまさか吸血鬼なわけないし.....ー
夜中のあれは激痛だったけれど、今朝起きてからは、妙に身体の内がすっきりして暖かい。
ー悪い奴じゃなかったんだろうな......ー
平たく言って公祐はオカルトやスピリチュアルというようなものに全く興味が無かった。正月や入学試験の時にはやはり神社に神頼みにも行ったが、生活の中のごくありふれた慣習としか思っていなかった。
ー訳わかんねぇよ......ー
ブツクサ呟いていると、背後でするりと戸の開く気配がした。
「誰?」
「私ですよ」
如月が開いた戸の隙間から顔を覗かせて微笑んだ。
「お腹空きませんか?庭でお昼にしましょう」
ーえっ......そんな時間?ー
覗き込んだスマホの画面の端にはバッテリー切れ間近を知らせる赤いラインが入っていた。公祐は、ショルダーバッグの中を探ったが、こんなに長居する予定ではなかったせいか、充電器を忘れてきていた。
「如月さん、携帯の充電器持ってませんか?バッテリー切れそうなんです」
見上げる公祐に、如月はおや......という顔で答えた。
「ありますよ。庭で充電しましょう」
「ありがとうございます」
公祐はほっと息をついて、如月の後をついていった。
飛び石の置かれた大きな池の脇を抜け、立派な松や臥龍梅の枝の下を潜っていくと、檜皮葺ーというのだろうか、木の皮で屋根を吹いた頑丈そうな造りの東屋があった。
その中央には磨き上げた木目も見事な卓があり、湯気をたてるシチューとホットサンド、サラダが置かれていた。
「わぁ......」
思わず声を上げる公祐に、如月は少しばかり苦笑して言った。
「公祐さんはお若いですからね。洋食の方がいいかと思いまして......」
「ありがとうございます!」
さっそくにホットサンドにかぶりつき、ホワイトシチューをしみじみ味わう。
「美味しい.....」
「良かったです。飲み物はコーヒーでよろしかったですか?」
「はい!」
視線の向こうに、睦月少年が、いつもの笑顔で、銀のポットとカップを乗せた盆を運んでくるのが見えた。
「驚かれたでしょう?お館の中は『主さま』のご意向で極力、古えの暮らしのままに保たれているんですよ」
如月の言葉に公祐は大きく頷いた。
「畳も無いし、びっくりしました。」
「畳が一般的になったのは、江戸時代からですからね。お館の中の暮らしは、それ以前のものを踏襲しています」
「江戸時代より前?......でも椅子はあるんですね?」
公祐の問いに如月はクスクスと笑いながら答えた。
「椅子は飛鳥時代からありましたよ。一時的に廃れましたが、古代の宮中の紫宸殿などでは天皇陛下は御帳台の中で椅子に座られて公家に接見なさったりしたんですよ」
「え?今の天皇陛下が現代人だからじゃないの?」
「違いますよ」
如月はおかしそうに目尻を緩めて答えた。
「あ、そうだ、充電......」
「そうですね、合えばいいんですが......」
如月は公祐からスマホを受け取り、ワイヤレスの充電器に繋いだ。
「そういえば、古え通りの暮らしって......電気は通っているんですよね?」
思い出すと、公祐の部屋にはコンセントらしきものは無かった。が、部屋の灯りは祭りなどで見る蝋燭の行灯よりは幾分明るいような気がした。
「必要最小限は、あります。.......山の奥に滝があって、そこから流れ落ちる瀬はそれなりに落差もあって大きいので、わずかばかりですが、電気が起こせるんです」
「自家発電.....ですか」
そういえば、川のせせらぎの音が建物の中からもよく聞こえていた。
「ええ、ですので蓄電して大事に使ってるんです」
「そうなんですね.....」
改めて感嘆の呟きを漏らす公祐に、先回りするように如月の薄い唇がニッと笑った。
「あ、でもガスは無いですから、料理はみんな薪をくべて竈やへっついで作ります。.....寒い時の暖房は火鉢ですよ」
「火鉢って......暖かいんですか?」
公祐は再び目を剥いた。火鉢なんて、時代劇のドラマでしか見たことがない。
「まぁそれなりに......。もっとも真冬はここは開けませんからね」
「そうなんだ......」
公祐はコーヒーのカップを両手で包みながら、如月の言葉に相槌を打った。
そして、如月の端正すぎる横顔を窺いながら、おもむろに尋ねた。
「あの......刀の主になるってどういうことなんですか?刀に守られるって.....」
如月は少し目を細めて、公祐の背後に目線を移して、言った。
「そのままですよ。刀精は大事にすれば、禍物ー事故や災いから守ってくれます。正しい望みであれば主である公祐さんの望みを叶えてくれます。勿論、それなりの努力は必要ですけど」
「俺の望み......」
公祐は少し考えて、口ごもりながら言葉を紡いだ。
「俺は.....普通に幸せな人生を送れればいいんだ。暖かい家庭があって、それなりに楽しければ」
「いいんじゃないですか?」
否定される......と思った公祐の意に反して如月はにっこりと笑った。
「公祐さんがそれを望めば、刀......白寿丸はそれが叶うように力を貸してくれますよ。......刀精にとっては一番難しい望みかもしれませんが」
「え?どうして?難しいの?」
公祐は極めて平凡なありきたりの事を口にしたつもりだった。
「刀は戦いに勝つために造られたものですからね。争いの無いように、というのは彼らには難しいかもしれません。でも......」
「でも?」
「公祐さんが夢に見たように、撫子の剣は、頼衡が父親の藤原国衡の腰刀を磨き直してもらったものです。父親の願いー息子が穏やかに幸せに暮らして欲しいーという願いもこもっていますから、そう困難では無いかもしれませんね」
「父親の願い......」
ふと公祐は父の顔を思い浮かべた。
『俺のせいで、お前を片親にして済まない。だが、真面目に生きていれば、きっと幸せになれるから...』
父親は、少しお酒が入ると、そう言って公祐の手を握りしめてポロポロ涙を溢していた。
ーそれなのに......ー
公祐が幸せになる姿を見届けずに、逝ってしまった。
「大丈夫、幸せになれますよ」
無意識に下をむいて唇を噛み締める公祐の肩を如月の手がそっと抱いた。
こみ上げる涙に気を取られていた公祐には、その口元の小さな呟きは聞こえなかった。
ー白寿丸がそれを望めば......ですがー
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