失った傷跡

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 それは深夜0時を過ぎた頃だった。 街の閑静な住宅街の一角にあるマンションの正面玄関に一台の自動車が停まった。 後部座席のドアが開くと、スーツ姿の男が出てきた。 強くとも優しい印象の琥珀色の瞳を持つ凛斗だ。 家族を化け物に殺された事件から5年経ち、凛斗も立派な社会人になっていた。 資産家である祖父が社長を務める会社で、副社長として様々な事業に関わる仕事をしている。 やっと仕事が終わり、専属ボディーガードの香月(かづき)楽空(がく)の運転する車で現在の自宅であるマンションに送ってもらったところだった。 あの事件以来、屋敷から出てマンション暮らしをしていた。 祖父はそのまま屋敷に住んでいるが、屋敷にいると、どうしてもあの事件の光景を思い出してしまう。 あの事件は屋敷に侵入した異常犯罪者によるものとして片づけられた。 事件後入院していたので、凛斗は詳しくは知らないが、どんなに説明しても、誰も化け物の存在を信じてはくれなかったらしい。 父親の死も異常犯罪者によるものとして片づけられたということだった。 父親を殺したことも辛かったが、事件後、美琴が自殺したことがもっと辛かった。 父親を殺してしまった事実をかき消す程に…。 美琴は、あの異様な事件に耐えられなかったのだろう。 自分の父親を殺してまで守った妹が自殺してしまったのだ。 当然のように凛斗の心には深い傷が残った。 笑うことさえ忘れてしまう程の…。 しかし、凛斗自身にはその自覚がなかった。 もう、昔のことだと記憶に蓋をしてしまっていた。 「凛斗。車を駐車場に停めてくる。部屋までなら一人で大丈夫だよな?」 車の運転席から、楽空が笑顔で言った。 楽空は日に焼けた浅黒い肌と茶色の髪に人なつっこい笑顔が特徴的だった。 楽空は凛斗のボディーガードではあるが、事故で家族を亡くし13歳で天蓋孤独になったところをたまたま凛斗の祖父に引き取られ、ボディーガードになるように教育されてきた。 引き取られて3年間、学校へは行かずボディーガードとしての教育と訓練を受け、三歳下の美琴と同学年に入れるようになってから美琴と同じ中学に通うことになった。 そして、美琴のボディーガードとして美琴を守っていた。 しかし…美琴はあの事件後自殺し、今は凛斗のボディーガードとして、こうして毎日、凛斗に張り付いている。 ただ、ボディーガードということを除けば家族同然に育ったので、楽空が凛斗に敬語を使うことはなかった。 「ああ。このマンションはセキュリティが万全だからな」 凛斗が住んでいる、このマンションはオートロック付のエントランスのあるマンションで、鍵を持っているマンションの住人しか中に入ることができなくなっていた。 毎日、正面玄関で凛斗を降ろし、凛斗がエントランスに入って行くのを見届けると車を駐車場に移動させていた。 そして、今日も凛斗がエントランス前で鍵と暗証番号を使い、オートロックを解除してエントランスに入り、エントランスの自動ドアが閉まるのを確認してから車を動かそうと思っていた。 しかし、今日は違った。 このマンションのエントランス前には正面から右側の方に各部屋のメールボックスが並んでいる場所がある。 そこは薄い壁に仕切られていてオートロックを解除する際に死角になっていて見えないが、監視カメラで撮影しているので何かあっても警備会社が動いてくれるようになっていた。 その死角になっている場所に微かに人影のようなものが見えた。 楽空は咄嗟に警棒を持ち、車から降りると、死角になっているメールボックスのスペースに向かった。 「楽空?」 楽空は凛斗の声には答えず警棒を伸ばすと構えながら、メールボックスに向かう。 それが何を意味するか凛斗は知っていた。 危険である…と。 こんな時は身を守るための最善の方法を取ることになっていた。 咄嗟に凛斗はエントランスの中に入る。 そして、メールボックスに向かって数分、格闘するような声や音は一切しなかった。 まさか…、楽空がやられたのか…? それも音をたてる隙も与えずに一撃で…! 焦りからエントランスから飛び出した凛斗の目の前に、女を抱えた楽空が立っていた。 「え…⁉」 「……」 驚いた顔の凛斗と、危険な状態にも関わらず飛び出してきた凛斗への怒りを露わにして睨みつける楽空が向かい合っていた。 「何で出てきたんだよ?」 「いや…。楽空がやられたのか…と思って」 「んなことあるか!」 楽空はムッとして目を逸らす。 「悪かったって。ただ、心配で。つい…」 凛斗は苦笑いをしながら、ため息をついた。 「それで…?それ、誰?」 「さあ?メールボックスの前にうずくまったまま眠ってた」 「寝てた?」 凛斗は呆れて、楽空の抱きかかえた女を見た。 胸の辺りまで伸びたセミロングの黒髪と、Tシャツにホットパンツとスニーカーというラフな服装の、それは花音だった。 いくら建物の中とはいえ、オーロックのかかっているエントランスとは違い、外から簡単に人が出入りできるメールボックスの前は夜ともなれば物騒だ。 「誰が入ってくるかわからない場所なのに…。眠てられるなんて、ある意味大物なのか、世間知らずか…」 凛斗は眠っている花音の顔を見ながら、呆れかえった声で言った。 「凛斗。左手首、見てみろ」 楽空に言われ、花音の左手首を見るとリストカットの傷跡があった。 「この子…」 凛斗と楽空は真剣な眼差しで、顔を見合わせる。 「とりあえず、部屋に連れて帰ろう。このまま、置き去りにはできない」 「そうだな」 二人は哀しみに満ちた眼差しで花音の左手首の傷を見ていた。 そう、この傷跡は二人の共通の知人を思い出させる。 だから、放っておくことができなかった。 二人は、そのまま住居であるマンションの部屋へ花音を連れて行った。  目が覚めると、そこは知らない部屋だった。 ベッドの上で体を起こした花音は部屋の中を見回す。 家具は一通り揃っているが、生活感はない。 きっと、来客用の寝室なのだろう。 何で、ここにいるんだろう? 眠る前の記憶を手繰り寄せる。  昨日の夜、屋敷から逃げ出して街へ出た後、お金もなく行くあてもなく街を彷徨った。 せめて、お財布ぐらいは持ってくればよかった。 そんな後悔の念の中で、たどり着いたのが住宅街だった。 夜遅くということもあって、人通りは少ない。 だんだん、怖くなってきた。 微かな物音にさえ、過敏に反応してしまう。 そんな中、気がつくとエントランスに灯りがついている建物の前に立っていた。 あの中に入れればと思ってエントランス前まで来たが、オートロックになっていてエントランスには入れない。 エントランスの中にはソファーもあって、あそこで眠らせてくれたら…と思うも、できるはずもなく、少し暗がりにはなるがメールボックスのあるスペースなら外から見えないので、少しは安心して眠ることができるだろう。 何の根拠もなくそう思って、花音はメールボックスのあるスペースで眠っていたのだった。 なぜか不思議と熟睡できて、誰かに運ばれたことさえ覚えていない程熟睡していたのだ。 そして、目を覚ましたのはこの部屋のベッドの上だった。 「わからない…。なんで、ここに?」 花音はため息をつくと、立ち上がった。 とりあえず、どこにいるのか知るために窓のカーテンを開ける。 その窓から見えたのは一面青い空と、二十畳ほどの広いテラスだった。 「え…?ここ、どこ…?」 戸惑いながらもテラスを見回すと、二人の男が実践さながらに格闘技の組手をやっているのが見える。 それは凛斗と楽空だった。 最初に花音に気づいたのは凛斗だった。 凛斗と楽空は組手を止め、楽空はテラスから別の部屋に入っていったのが見えた。 凛斗は真っすぐ花音のところへ向かって歩いてきた。 そして、花音の目の前まで来ると、窓越しに花音の瞳を思わず、じっと見つめた。 昨夜見た花音の手首の傷を思い出す。 この瞳の奥にどんな哀しみを隠しているんだろう? そう思うと、つい、その瞳にから目を逸らすことができなかった。 弱くて脆くて、誰かが守らなければ壊れてしまうかもしれない…。 美琴のように…。 凛斗の頭の中に笑顔の美琴の顔が浮かぶ。 胸に微かに締め付けられるような痛みを感じる。 「あの…??」 花音の戸惑った声に凛斗は現実に引き戻される。 窓越しに見る花音は戸惑いながらも、心配そうに見ていた。 「ごめん。…ちょっと、疲れてるのかも。ボーとして。俺は皇凛斗。君は?」 そう言うと凛斗は笑顔を見せた。 花音は心なしかホッとしたようで、窓を開けた。 「あたしは神代花音です」 「花音か…。よろしく、花音」 凛斗は笑顔で言った。 「あの…、あたしはどうしてここにいるんですか?昨日の夜、何があったのか覚えてなくて…」 「君、メールボックスの前で寝てたんだ。覚えてない?あんな所で寝てたら物騒だよ。誰が外から入って来るかわからないからね。だから、俺の家に連れてきたんだ」 「え…。そうなんですか?助けてくれて、ありがとうございます!」 「お礼なんか、いいよ。それより、お腹空いてない?楽空…さっき一緒に組手やってたヤツなんだけど、その楽空が朝食作ってくれてるから一緒に食べよう」 凛斗は笑顔で言う。 花音には笑顔しか見せたくない。 昨夜見た花音の手首の傷と、思い出した美琴の笑顔が、そうさせていた。 花音には笑顔でいてほしい…と。 そして、花音は凛斗に連れられてダイニングルームに向かった。 ダイニングルームに着くと、楽空がテキパキと朝食を並べている。 トロトロオムレツに付け合わせの野菜の皿と、ロールパンが二つのった皿、デザートのフルーツヨーグルトの入ったガラス容器が置かれていた。 朝食ということもあってか、かなり軽めのメニューだ。 「いい匂い…」 花音は思わず、笑顔になる。 その笑顔を見た凛斗もつい笑顔になる。 そして、座れるように椅子を引いた。 「さあ、座って」 「ありがとう」 嬉しそうに言うと、花音は椅子に座った。 「俺と楽空は朝食の時はコーヒーにしてるけど。花音は何がいい?コーヒーの他に紅茶やミルク、野菜ジュースもあるよ」 「え…と。コーヒーでいいです」 「本当にコーヒーでいいの?遠慮しなくていいんだよ。コーヒーは飲みなれてないときついよ」 凛斗は笑顔で言った。 「え…。その…」 本心を見透かされたようで、恥ずかしくて花音は顔を赤くしてうつむいた。 「ミルク…」 そう言った花音を凛斗と楽空は笑顔で見ていた。 楽空がミルクを用意した後に凛斗と楽空はそれぞれの席に座った。 「それじゃあ、食事を目の前にして…だけど。先に楽空の自己紹介をさせてくれ。花音も目の前にいる人間が誰かわからないままっていうのも困るだろ?」 「はい」 「こいつがさっき言ってた楽空。香月楽空だ。俺のボディーガード」 「よろしく」 楽空は人懐っこい笑顔で言った。 「それで、この子は神代花音」 「花音です。よろしく、お願いします」 「花音ちゃんか。礼儀正しいのはいいことだ。でも、俺や凛斗には敬語なんて使わなくていい。そうだろ?凛斗」 「ああ。敬語は使わなくていいよ」 「はい…」 「それと、自分のことで話したくないことは話さなくていいよ。なんとなくだけど…色々あったんだろうと思うから。でも、これだけは覚えておいて。俺達は君の力になりたいんだ。急にこんなこと言われても信じられないだろうけど」 凛斗は真っすぐな眼差しで言った。 その眼差しが力強く思えて、安心して寄りかかれるような気がした。 それまで緊張していた花音の肩の力が抜けていく。 「花音ちゃん。こいつは信用できるよ…って、そういう俺が信用されるかどうかだな」 楽空は笑いながら言った。 そして、朝食は始まり、花音を除いたそれぞれの素性を話した。 凛斗と楽空はその会話の中で、花音の素性についての話を避けていた。 花音の手首の傷に関わってくろだろうという気遣いからだ。 それは今は花音をそっとしておきたい…という二人の優しさからくるものだった。
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