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とある病院に救急車で搬送された二十代前半の女がいた。
女は重度の心臓病だった。
病院に搬送されたが、止まった心臓は再び脈打つことなく死を迎えた。
救急車に付き添って乗っていた二十代前半の青年の久良木祐は、霊安室の女の遺体の前でうなだれていた。
女の名前は成瀬里乃といい、祐の彼女だった。
祐は普通の青年を装っているが、少し前までは殺し屋だった。
人の命なんて、何とも思っていなかった。
しかし、里乃に出会って変わった。
重度の心不全を抱えながらも健気に生きる里乃を見ていて、守りたいと思うようになった。
それから、里乃の傍にいるようになった。
そして、里乃が亡くなった今、初めて彼女と二度と会うことができない…。
本当の意味での死という現実を目の当たりにした。
そう、祐は初めて人の命の重さに気づいたのだ。
失った命は戻らない。
そんな深い哀しみに打ちひしがれていた。
「辛いか…?」
聞き慣れない誰かの声がした。
「誰だ!」
祐は立ち上がると周りを見回した。
すると、黒い翼と鋭い牙、鋭い爪、そして、血のような真っ赤なローブと仮面のような白い顔のKerが宙に浮いていた。
「化け物!」
祐は咄嗟に護身用に持ち歩いていた折りたたみナイフを出して、Kerに向かって構える。
「ワタシは死神Ker」
「死神…?おまえが…?」
「可哀相に…大切な人を失ったんだね」
「大切…そうだな」
祐はナイフを下すと、うつむいた。
「哀しいかい?辛いかい?そんな言葉では表せないだろう」
「ああ…。人の命って、こんなにも大切なものだったんだな…」
「そう。しかし、簡単に奪われる」
「そうだ。俺がそうしてきたように…」
「彼女の体はこれからどうなるか、知ってるかい?炎で焼かれて灰にされる」
「里乃の体が…」
祐は白い布がかけてある里乃の遺体を見た。
そして、かけてある白い布を取って、里乃の顔を見る。
死んでいるのが嘘のようだ。
まるで眠っているように見える。
「炎で焼かれるのか?灰にされるのか?死んでいるとは思えないのに…」
「そうだ。彼女を炎から守りたいかい?」
「守りたい…。里乃が焼かれる姿なんて見たくない」
そう言いながら、祐は里乃の頬に触れた。
ヒンヤリと冷たいが、しっかりと肌に触れる感触がある。
これが灰になり、二度と触れることさえできなくなる。
二度と、里乃に会うことはできなくなる。
祐の頬を伝って流れた涙が里乃の頬に落ちる。
「例え、自分自身が、どんな姿になっても守りたいかい?」
「ああ。里乃を守れるなら、姿なんて…」
その言葉を聞いたKerはニヤリと笑った。
「では、願いを叶えてやろう」
「うう…!」
Kerが、そう言うと祐はその場にうずくまった。
そして、みるみる祐の爪は伸び、口からは牙が伸び、肌は浅黒くなり背中に黒い翼が生えた。
「さあ、ワタシの眷属よ。目が覚めたら、好きなだけ彼女を守るために人間を殺すといい」
Kerは狂気に喜び打ち震えるように笑った。
神代家の屋敷に来てから、凛斗と楽空は早朝の祓子の鍛錬に参加していた。
祓子は朝食前にKerに立ち向かえるだけの体術の鍛錬を行っていた。
最初は早朝の鍛錬が終わると、一日何もできないほど疲れきっていた。
しかし、最近では慣れてきて、昼間に他のことができるようになっていた。
今日は午後になると花音と、花音のお気に入りの場所である林にいた。
花音もKerに対抗できるようになりたいというので、凛斗と楽空で組手の相手をしていた。
普通の生活をしてきた花音には祓子の鍛錬は難しいというのが凛斗と楽空の答えだった。
思った通り花音は体を作っていないのため力が弱く、簡単にねじ伏せられてしまう。
しかし、そこを除けば、花音の体術のキレは普通の人間のものではなかった。
ある程度の鍛錬をした者こそができる、正確で素早い動きに凛斗と楽空は時々冷っとさせられる。
気がつくと、三人は汗だくになっていた。
そして、木の根にもたれて横になっていた。
「花音って体術の鍛錬やったことあったんじゃないか?」
花音を見ながら、凛斗は言った。
「俺もそう思う」
「…覚えてない」
「…だよな」
凛斗は笑った。
「よし!凛斗。今度は俺と組手だ」
「え?なんで?朝やっただろ?」
「ついでだ!」
「マジか…」
そんな会話をしながら、凛斗は立ちあがり花音がいる所から、少し離れた場所で楽空と向かい合って立った。
「行くぞ!」
楽空の右の拳が凛斗の顔を狙う。
しかし、凛斗は楽空の拳を軽々と避けた。
「…凛斗。おまえ、本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だろ?今、簡単に避けられたし」
「俺が言ってんのはそれじゃねぇ!」
言いながら、楽空は回し蹴りをする。
それをまた軽々と凛斗は避けて後ろに下がる。
「…じゃ、なんだよ?紛らわしいな」
「おまえ、唯人さんの代わりに花音ちゃんを守るって約束したんだろ?」
「そうだけど」
言いながら、今度は凛斗が楽空の顔目掛けて右手の拳を繰り出す。
「唯人さんって、花音ちゃんの許婚だよな?」
楽空は凛斗の拳を避けながら言った。
「…だから?」
凛斗は不機嫌そうに言って、今度は左の拳で楽空の腹部を狙う。
「つまり、唯人さんの代わりに守るって、花音ちゃんと結婚して生涯守るってことだろ?」
「え…?」
その瞬間、凛斗の体から力が抜ける。
その隙をついて、楽空は凛斗の左拳を避けながら左手を掴み背負投げをする。
投げられた凛斗は背中を地面に打ち付ける。
そして、そのまま仰向けになったまま動かない。
楽空は仰向けに寝っ転がる凛斗の傍に立った。
「そういう意味で、本当に約束して大丈夫なのか…?って聞いてるんだよ」
「え…?あれ、そういう意味??」
凛斗は咄嗟に花音を見た。
花音は疲れが出たのか木にもたれ眠っていて、会話の内容を聞いていないようだった。
凛斗はホッと胸をなで下すと、楽空を見た。
「バカ!花音に聞こえるだろ」
花音に今の会話が聞こえたら、今は不安にかられ繊細になっている花音のことだ。
きっと関係がギクシャクするのは目に見えている。
「で?どうなんだ?」
楽空は楽しそうにしゃがみ込み、ニコニコ笑っている。
「…おまえ、面白がってるだろ?」
凛斗は冷めた表情で言った。
「まーね」
「楽空~!」
「でも、おまえなら花音ちゃんを生涯守れるかもな」
「なんだよ。それ?今、そんなこと言われても、そこまで考えてないよ。妹って感じだし…。だいたい、花音の意志もあるだろ」
凛斗は起き上がると、眠っている花音を見つめた。
「そりゃそうだ」
楽空はニッコリ笑って、凛斗の背中を叩いた。
「失恋した時は俺が話を聞いてやるからな」
「だから、違うって!」
凛斗は楽空を睨みつけながら、ふとこの屋敷に住み込みに来た初日のことを思い出す。
それは花音の警護のために神代の屋敷に住み込む初日だった。
凛斗は、神代の屋敷の庭園にある垣根に囲まれた古い石の東屋の前に唯人と一緒にいた。
唯人に大事な話があると連れ出され、来たのがこの東屋だった。
東屋の中には誰もいないが、唯人が東屋に向かって立っているので凛斗も同じく東屋に向かって立っていた。
「凛斗くんを連れてきました」
「凛斗でいいよ」
凛斗は誰に話しかけているのかと、唯人の視線の先を見るが誰もいない。
あるのは石でできた古い東屋だけだった。
「誰に話しかけてるんだ?誰もいないだろ?」
「静かに…」
唯人が、そう言った瞬間、東屋の中に暁月が現れた。
白銀の長い髪と白く透けるよな肌、そして碧眼を持った細身に江戸時代以前の礼服である直垂を着ている。
その服装と美しい容貌からか、暁月の姿は人間とは思えなかった。
凛斗は言葉もなく、ゴクリと唾を飲んだ。
「君が凛斗だね。私は暁月。神代家の初代当主だ」
「え??初代当主の霊体??って、まだ、若く見えるし…。若くして死んだのか…?」
「ふふっ…。若く見えるのは人間と神の子であることから姿だけは若いままだったんだよ」
「でも、変だな…?俺は霊感ないから霊が見えるはずが…」
「父から受け継いだ神の力で誰にでも見えるように姿を現せるんだよ。ただ、霊体は所詮、霊体に過ぎない」
そう言うと、暁月は歩き出し、凛斗の目前まで来ると手を差し伸べた。
「私の手に触れてごらん」
凛斗は、そっと暁月の手に触れようとするが、凛斗の手は暁月の手をすり抜ける。
「わっ…!!」
「実態がないだろう?この世界にあるものには触れられない。これが霊体というものだよ。この東屋が私を地上に繋ぎとめているから、神祓いで唯人に憑依する時以外は東屋から離れることはできないけどね」
そう言った暁月の表情は哀しそうに見えた。
「ところで凛斗。君は花音をとても大切に想っているね。君なら花音を守れるかもしれない。同じ痛みを持つ君なら…」
「同じ痛み…?両親が死んでるってことか?」
「そうでもあるが。花音の両親の死にはKerが関わってるのは唯人から聞いてるよね?」
「はい」
「Kerの眷属になった母親が父親を殺したんだよ。そして、母親は神祓いで人間に戻れたんだが…、自殺したんだよ。5年前に不慮の事故で兄を亡くしていた花音は、2年前の母親の死で自分の家族を全て失ったんだ」
「家族を全て失ったのか…。確かに俺と似てるかもしれない…」
「だろう?だから、私も唯人も君に花音を託したいんだ」
「でも本当にいいのか?唯人は本当に花音の許婚だったんだろ?おまえが、どれだけ花音を大切に想ってるのかはよくわかってるつもりだ」
凛斗は唯人に向かって言った。
「だからだよ。僕の気持ちをわかってくれる凛斗になら託せる。君なら間違いなく花音を守ってくれる。命だけでなく、花音の心も…そう信じているよ。僕が生きて、ずっと花音の傍にいることはできない。この辛い気持ちを君ならわかってくれると信じている」
唯人は涙ぐんで微笑んだ。
「…どうして?そんなに俺を信じられるんだ?」
凛斗はため息をついた。
「君は覚えていないだろうけど、僕は当主代理をする前は祓子の頭だった。普通の人間の格好で何度も皇家の警護をしたことがある。君の家族が殺されたあの事件にも駆けつけた。その時、君は意識を失っていたから、僕の姿は見ていないだろうけど。でも、僕は何度も君を見て知っている。君がどんな人間なのか…。君は信用に値する人間だと僕は思っている」
唯人は穏やかな笑顔で言った。
「唯人…」
凛斗は気まずそうに視線を逸らす。
「だから、凛斗に頼みたいんだ」
変わらず穏やかな笑顔で言った。
「はぁ…。まいるよな」
凛斗はため息をついて、髪をかきあげた。
「おまえってやつは…。なんで、そんなに穏やかでいられるんだ…?」
俺なら無理かもしれないな…。
「残り少ない命で僕にできることは限られてる。だから、最後の日が来るまでできることを全てやりたい。残された時間は少ないから、後悔しないように生きたいんだ」
「それが、花音を俺に託すこと…か」
「そうだよ」
唯人はニッコリ笑って言った。
「さあ、どうするね?凛斗」
暁月も穏やかな笑みを浮かべ言った。
もう、凛斗の答えはわかっている。
そんな確信に満ちた顔だった。
「どうするも何も、俺はは唯人に花音を守っていくって約束した。俺は一度した約束は守る。こんな念押しなんてしなくていい」
「ありがとう。凛斗」
唯人は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「悪かったね。凛斗。唯人から話は聞いていたんだが。唯人の話だと、凛斗は迷いがあるようだったからね。その迷いの理由が唯人の気持ちを考えてのことだったとは思わなかったけどね」
「普通、そうだろう?花音の許婚なら…」
「だとしても、大事なのは自分の気持ちだ。自分自身がどうしたいかだ。迷いがあるままKerに挑めば眷属にされてしまう。だから、花音を守るなら、どんな小さな迷いでも消しておきたかったんだ」
「Kerに…か」
「そうだよ。暁月のいうように…心を弱くすればKerに付け込まれ眷属にされてしまう。そして、誰かの命を奪うことになる。Kerは人間の記憶を探ることができる。死んだ人間の記憶を探って、殺されたかどうかを知る力を持っているんだけど。それは生きている人間の記憶から、その人間の心の傷跡も探り出すことができる。そして、傷跡から心の闇を引っ張り出し、闇堕ちした人間を支配し眷属化して人間を殺させる。その中でも強い想いを持っていない人間はKerの操り人形にされる。花音を襲った眷属のようにね…」
「つまり、心を弱くすれば、Kerに操られるのか…」
「そうだよ。凛斗。決して心の闇に飲まれるな。これらから、どんなことがあっても花音を守ることだけを考えるんだ」
真剣な眼差しで唯人が言った。
「もし、それができなければ、自分の手で誰かを殺すことになる。そのことを忘れるな」
冷静な眼差しで暁月は言った。
「…それが、ここに俺を呼んだ。理由か…」
「そうだ」
暁月は落ち着いた口調で言った。
「わかったよ。俺だって誰かを殺したくない。それに言われなくても、何よりも花音を守ることを最優先に考えるつもりでいる。だから、心配しなくていい」
「そうか。それなら良かった」
暁月は穏やかな笑顔を見せる。
「君には安心して花音を任せられそうだ。…それでは、また会おう。凛斗」
微笑む暁月の体が次第に透き通っていく。
「暁月…?」
そして、暁月の体は完全に消えた。
凛斗は暁月がいた場所を見つめていた。
「…本当に霊体なんだな」
「普通の人間は見慣れないからね。びっくりしただろう?」
「ああ、初めて見たよ」
凛斗は答えながら、暁月がいた場所を見つめていた。
「ここは当主、または暁月が許可した者しか立ち入ることができない神代家の聖域だ。できれば、今日、話したことは他の人間には黙っていてほしい」
「わかったよ」
凛斗は笑顔で答えた。
「それじゃあ、花音が待ってる場所に行こう」
「花音が待ってる場所って、林があるとこだったよな?」
「そうだよ。花音にとって大切な思い出のある場所なんだ」
「大切な思い出の…?」
「記憶のない今の花音は覚えてないけど、そこにいると心が安らぐようだから」
「そうか…。記憶はなくても大切なことは何となくわかるものなんだな…」
「そうみたいだね。不思議なことに」
そう言うと唯人は意味深に凛斗を見て歩き出した。
「え…?なんだよ?今の意味深な顔は…?」
凛斗は唯人の後を追う。
「凛斗は知らないほうがいい」
「え?じゃ、なんで言ったんだよ?気になるだろ」
「忘れろ」
唯人は楽しそうに笑顔で言うと、凛斗に構わず歩き出す。
凛斗は不満そうに唯人を睨みつけて、唯人の後を歩いていく。
この後、暁月の存在と暁月の憑依による唯人の神祓いを花音は知らされた。
そして、神祓いにより唯人の体が弱っていることも…。
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