窓の外へ広がる海

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 コロナで外出自粛が政府から要請されている中、オレは部屋で本を読んでいた。  子供の頃から好きで、何年も部屋の本棚の中に置いていた児童文学。  旅行にも行けない、こんな息詰まった生活。  ファンタジー要素の強い児童文学の世界なら、空想の旅ができると考えたからだ。  休日の朝から読み始めて、本の世界に没頭していた。  ふと顔を上げ、気付いたら時間は昼になっていた。  そろそろ昼飯の準備でもするか……。そう考えたオレは、本を閉じ、立ち上がった。  あ、そうだ。ずっと窓を閉め切ってしまっていたから、外の空気を浴びたいな……。そう思って、部屋のガラス窓にそっと指を添わせる。  すると、硬いガラスの感触は消え、そこには、にゅるり、と水の感触が……。  オレは瞳を見開き、パッと手を離した。  オレと窓の間には水の飛沫が散っていた。  手のひらを見ると、明らかに水で濡れている。  なんだよ、これ……。  高鳴る鼓動を落ち着かせると、意を決してもう一度、手を窓ガラスに入れる。  やはり、水に沈んでいく感触がした。次いで、その中で、ひらりひらりと手を動かしてみる。冷たくて、気持ちいい……。ああ、こいつは癖になりそうだ。  笑顔になったオレは、不思議な自信が湧いてきて、頭を突っ込んでみた。うわあ、これ水ん中じゃん!  口の中に空気を溜め、瞳を薄く開く。オレの唇の端から漏れる、ぷくぷくとした気泡が上がっていくのを、ただ見つめていた。そして、両手、両足を窓ガラスに突っ込み、ついに全身を窓の水の中に入れた。 部屋にはオレの他に、飼い猫のナツがいたのだが、あいつは窓の中に消えたオレを不思議そうに見ていただろうな。  窓の中は、手足を動かせば、自在に泳げるし、少しコツを掴めば重力を操作できて、歩くこともできた。  すげえ、楽しい!  薄い青が重なったような、その色は綺麗で、まるで空の中にいるみたいだ。  時間も忘れて窓の水の中にいた。本を読んでいるときもそうだけれど、オレは不思議空間に入ると、没頭するたちなんだ。  銀色のヒレをした小魚の群れや、薄桃色の貝殻が貼り付いた岩。コロナになってから、外出もほぼできなくなったオレにとって、この窓の海の中は、本当に心地が良かった。部屋の中にいるよりも、息が自然とできている気がした。 「にゃー」  不意に、どこからかナツの鳴き声が聞こえてくる。いつもの甘え声と違い、どこか切羽詰まったような声だ。 「にゃー」  切ない響き。もしかして、オレを探しているのか?  オレは無重力空間で体を泳がせながら、逡巡していた。  コロナがいつ終わるかもしれない、窮屈な現実世界に戻っても、つまらない、辛い毎日かもしれない。けれど、ずっとこの、窓の海の中にいたら、オレは……。ナツと会えなくなる。捨て猫だったナツを、遊びに行った鎌倉の浜辺で見つけてから、大事に大事に育てて、自粛生活の中で、親しい人と気軽に会えなくなってしまった時も、あいつだけはずっと傍にいてくれた。オレがいなくなったら、誰があいつの面倒を見るんだ?   オレは、ナツの鳴き声のする方へ手を伸ばした。すると……。  ぐわっという背後からの圧迫感が押してきて、気づけばオレは元いた部屋の中で、仰向けになって倒れていた。上半身を起こすと、全身びしょ濡れ。オレの周囲も水浸しだった。  戻ってきたんだ。  呼吸を整えてあたりを確認すると、ナツが甘え声を出して、嬉しそうにオレのところへやってきた。  ナツ!  オレは嬉しくなってナツを抱きしめた。気づけば、瞳から熱い涙が次々と溢れて、体についた窓の水と溶けていった。  あれからというもの、何度か窓ガラスに手を添えてみるものの、窓の海へ行けることはなかった。楽しく不思議な経験だったので、寂しさもあったが、冷たい海の温度よりも、オレにはナツの生きた暖かさの方が大事だったってことがわかって、良かったと思う。  
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