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幼馴染のミヨコは、とても地味な子だった。流行りの服も靴も、一つも持っていない。いつも擦り切れそうな白いシャツに、黒かデニムのパンツ姿だった。化粧っ気はなく、髪も染めず、いつも、長い髪を一本に束ねていた。特徴と言えば、すぐにずれてしまう眼鏡をかけていたことくらいだ。そして、いっそみすぼらしいともいえるその格好を、人に揶揄われたところで、何も言い返しはしない子だった。
多分、同級生に彼女のことを聞いても、覚えているのは数人もいないだろう。
幼馴染と言えど、私は、彼女が声を荒げ、顔を歪めて怒っているところを一度も見たことがなかった。いつも静かに、まるで宗教画の女の人のように微笑んでいて、大きな声を出すことすらなかったように思う。
そういうミヨコの穏やかなところが、私が彼女と仲良く喋る理由だった。
大人しいのか、大人なのか。それとも、心の奥底に怒りや悲しみといった、負の感情を押し込めて、蓋をしていたのか。
微笑むミヨコの目の奥が、妙に仄暗いことに気が付いたのは、小学生の時だった。
彼女がそうなった原因が、彼女の家にあることを私は知っていた。
話に聞く彼女の家は、お世辞にも「良い家庭」とは言い難かった。
煙草もお酒もやらないけれど、ギャンブルが大好きなお父さん。休日となると、いつも車でさっさとどこかへ――おそらく、パチンコや遠くの競馬場に――行ってしまうらしく、ガソリン代が馬鹿にならないと、いつだったかミヨコが零していた。
ブランド好きでヒステリックなお母さん。ミヨコはいつも、ブランド物の自慢話か、人の悪口ばかり聞かされてうんざりしていると愚痴を言っていた。きちんと聞かないと激昂して手が付けられないらしい。きっと私は家事を手伝うマネキンか何かだと思われているのだろうと、冗談めかして言っていた彼女の空虚な微笑みが忘れられない。
いつもニコニコとして「こんにちは」と挨拶をしてくれるけれど、すれ違いざまに耳を疑うような悪口と皮肉を言ってくるお祖母さん。とても耳が遠いらしく、こちらには聞こえていないと思っているようだ。表面上は優しい人に見えるのがなんとも質が悪い。ミヨコはいつも、ブスだの骸骨だのとまるで挨拶のように言われていたらしい。
そして、何をしているのかわからないお兄さん。少し小太りで少し薄毛だけど、一見、いたって普通の人にみえる。けれど、彼はいつも、通りがかる小学生や中学生の女の子をじっと舐めるように見ては、陰でにやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべているのを、知っている人は知っている。
ミヨコは、この「家族」にいろいろな理不尽を受けていた。
誰かに対する悪口のはけ口。彼女自身への罵詈雑言。いわゆる言葉の暴力というものだ。こんなものは序の口だ。
直接の暴力もあった。口答えをするなと首を掴まれ、黙れと髪を掴まれ、階段を昇ろうとしている時に下から足首を掴まれ。
生意気を言うなと顎が外れるほど頬を強かに張られ、邪魔だふざけるなとわざと突き飛ばされ。
けれど、外に見えるのは、ギリギリ「ミヨコのうっかりのせい」と誤魔化せてしまう程度の暴力の痕だけだった。だから、周りの人は誰も気が付かなかった。彼女自身も、それらを巧妙に隠していた。
昔の彼女はいつも、どこかしらに小さな傷がついていた。「ミヨコさんは意外とそそっかしいのね」と、痣を目ざとく見つけた先生に言われては「そうなんです」と申し訳なさそうに笑っていた。
幼馴染の私でさえ、傷痕の真相を知ったのは地元を出た後だったほどだ。
お兄さんからは、小学生と中学生、そして高校生になってからも、口に出すのもおぞましいような「暴力」を受けていた。
ミヨコが大人になってからは、セクハラ程度でそれもなくなったと言っていたが、彼女の心は限界だった。
かつての「それ」を家族に訴えても、家族は皆、「俺は何もしていない、あのキチガイが言ったことを信じるのか」と言うお兄さんを信じ、そちらを庇ったそうだ。
挙句、お兄さんに「お前、土下座をして俺に謝れ!」と殴り掛かられ、母親にも殴られそうになり。
とうとう、心が壊れてしまったミヨコは、家から出られなくなった。
あの家の中には、彼女が安心できる居場所なんて、どこにもなかったというのに。
幸い、ミヨコの家族はミヨコからスマホを取り上げなかった。それは、彼女の唯一の命綱だった。
私はスマホを通じてミヨコにしょっちゅう連絡をした。だけど彼女は、こちらが不安になるくらい、外の世界と人間に怯えていた。もしかしたら、私にすら心を開いていなかったのかもしれない。
ミヨコが家に引きこもるに至るまでに、ミヨコの銀行口座にはそれなりの額の金が貯まっていたらしい。だからこそ、目をつけられた。
ミヨコが家族に貸していたお金は、ゆうに六桁を超え、もうじき桁が一つ増えそうになっていた。
彼女は頑なに「貸した」と表現していたけれど、それはただ「貸して」と言われたからに過ぎない。そもそも返す当ても、返す気もないのに「貸して」だなんて。あの人たちは良く言えたものだと、私は勝手に悔しくなった。
私はミヨコに「逃げて」と何度も訴えた。
外に怯え、人に怯え、ぼろぼろの精神状態だった彼女には、一人で逃げろというのは酷なことだった。でもこのままあの家にいたら、自殺にしろ他殺にしろ、いつかミヨコが死んでしまうのではないかと、それが恐ろしかった。
彼女のような女性を保護してくれる団体に連絡を取ることも考えた。けれど、それをするには、私たちの地元はあまりにも田舎すぎた。女性を保護してくれるシェルターなんて、車で何時間もかかる山の向こうか、同じだけ時間のかかる隣の県にしかなかった。ミヨコは、車の運転免許を持っていなかった。
タクシーは電話で呼べば来てくれるけれど、ミヨコのスマホは外との通話ができない。Wi-Fiのある場所でしか使えないのだ。私が代わりに電話しても良いけど、人に怯えるミヨコが運転手と二人きりになるその空間に耐えられるとは、私もミヨコ自身も到底思えなかった。
後からバスに乗ることも考えたけれど、そもそもバスなんて通っているのかいないのかわからないほど影が薄く、馴染みのないものだった。だって、自家用車に乗るのが当たり前の田舎なのだから。話題にすら上がらなかった。
地元の警察に通報するにしても、表面上は家族同士の些細な諍いに見える暴力しか受けていないから、多分どうもしてくれないだろう。それよりも、その後にミヨコが受ける仕打ちを考えると、あまり良い手には思えなかった。お兄さんにされていた「暴力」は深刻だったけれど、もう十年以上前のことだ。彼女の心の傷は深かったが、今現在はなにもされていない上に、家族すらミヨコの虚言だと思っている以上、警察が親身になって扱ってくれるかどうかわからなかった。
そもそも、ミヨコは家から出られなかった。心の調子が悪かったことだけではなく、物理的に離れることもできなかった。
彼らはミヨコを都合のいいATMだと思い始めていた。あの家族は、彼女を逃がすわけにはいかなかったのだ。
ある日、勇気を出して家を出た彼女は、二十分ほど歩いたところで、父親にあえなく捕まって連れ戻された。
まるで、彼女が癇癪で家出をしたかのように、近所によく聞こえるように怒鳴られ、母親には頬を強かに平手で打たれたという。
以来、彼女の靴は隠され、尚更外出できなくなってしまった。
私が直接助けに行くには、私が今住んでいるところは、あまりにも遠すぎた。私はそれでもかまわなかったけれど、ミヨコは私に迷惑になるからと、頑なにそれを拒んだ。
「……どうして、それだけのことをされているのに、ミヨコは怒らないの?」
私がおそるおそる尋ねると、スマホ越しの彼女は、私が冗談を言った時と同じように、ふっと小さく声を出して微笑んだ。
「怒ってるよ。ちゃんと」
彼女の怒りを私が確かに感じたのは、季節が夏から秋に変わる頃だった。
今日はミヨコと何を話そうかな。私はそんなことを考えながら、休日の朝の仕度をしていた。あくびをしながら、いつもの習慣でつけたテレビではニュースが流れていた。
綺麗に毛先が内向きにカールした髪に、ふわっとした生地の白いブラウス。若い女性アナウンサーの整った声が告げた事件に、私は愕然としたのだ。
「○○県○○市の」
――地元の市だ。あんな田舎で何があったのだろう。交通事故かな。誰も死んでないと良いけど。
私はぼーっとしながら、マグカップに熱いコーヒーを半分だけ淹れた。夫が福引で当てた最新式のコーヒーメーカー。始めは「こんなものいらない」と思ったけれど、これのお陰で毎朝美味しいカフェオレにありつけるようになった。
「――○月○日、××××さん宅にて」
――ミヨコのお父さんと同じ名前のような。まさかね。だって、苗字も名前も、ありふれたものだし。
私は牛乳を取り出すために、冷蔵庫を開けた。
「――××××さんを含む一家五人が死亡しているのが見つかりました。呼んでも応答がないことを不審に思った近所の住民の通報により、発見されたとのことです。××さん一家のうち四人は、手足を縄で拘束された状態で発見されており、首をひものような物で絞められた痕や、頭部への激しい打撲痕が確認されています。娘の××ミヨコさんは、手足の拘束はされていないものの、右脇腹を包丁で数度――」
――みよこ? ミヨコ、ミヨコ? 今、あの人、ミヨコと言わなかった?
私は反射的にテレビに視線を向けた。マグカップの縁からコーヒーがこぼれて、冷蔵庫の中とパジャマを汚したけれど、胸が激しく脈打って、それどころではなかった。
白い壁に、茶色い屋根の、少しレトロな洋風の家。
いつかきっと、彼女を連れて逃げるのだと。そう何度も考えて、頭の中で計画を立てて、夢にすら見たあの家が、無機質な画面の向こうに映っていた。門のところが黄色いテープで塞がれていて、何が起きているのかを理解することを拒んだ脳みそが「わあ、ドラマみたい」だなんて間抜けなことを考えた。
「地元警察によると、ミヨコさんが四人を殺害し、その後自殺した無理心中として捜査を進めているとのことです」
今日は暖かい方だと言うのに手が指先まで冷たくなった。足の感覚が遠くてまるで分厚い布団の上を歩いているみたいだ。頭に靄がかかっていて、目に映る全ての景色に現実味がないように見えた。
私はマグカップを適当なところに置くと、ふらふらとしながら無意識に玄関に向かって歩いて行った。起きてきた夫の寝ぼけ声に生返事で応え、茶色のつっかけのサンダルを履く。
外は、いっそ、うんざりするほどに晴れ渡っていた。
ふと郵便受けを見ると、そこには新聞と一緒に封筒が収まっていた。
宛名には、一つ一つの文字は几帳面なのに、どこかぐらぐらとして不安定に見える文字で、私の家の住所だけが書かれていた。
――ミヨコの字だ。
私はそれを胸に抱え、その場に座り込んだ。震える手で、封を切る。
『ごめんね』
その一言で始まる手紙は、一度読んだだけでは全てを諦めたミヨコの遺書のように受け取れた。
口で無理やり息をしながら、しつこく二度読み直して、私は確信した。
――違う。遺書などではない。これは彼女の怒りだ。
彼女をまともに愛さなかった家族に。
その家族によって振りかけられた、あらゆる理不尽に。
誰も彼女を助けられないことに。否、助けようとしないことに。
心が邪魔をして思う通りに動かない自分の身体に。
何が起きているのかを知っていたくせに、助けに来ない私に。
そして、ミヨコ自身が生きているということにさえも。
私は手紙を抱えるようにして、そこに蹲った。
「ぅぁ……あぁぁ……」
呻くような声は干からびた喉の奥から出て来るのに、どういうわけか涙は一滴も出てこなかった。
私は、どうすればよかったのか。
シェルターに連絡すればよかったのか。彼女を迎えに行ってくださいと、伝えたらよかったのか。それとも、何度でも警察に通報したらよかったのか。あの人たちに何をされていたのかを聞かれる度に、ミヨコの心は酷く抉られたのだろうけど。
そんなことなど気にせず、助けてあげてと訴えたらよかったのか。
私が。私が、無理やりにでも、助けに行けばよかったのか。
どうしたら、彼女を救えたのだろうか。
誰かに助けを求めても良いのだと、彼女に思わせることができたのだろうか。
――ああ、でも、でも、でも。
大人しくて、地味で目立たなかったミヨコは。
最期まで誰にも助けを求められなかったミヨコは。
確かに、怒っていた。
奇妙なことに、私はそれにひどく安堵していた。
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