怒(いか)れる罪人

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「怒り」が罪となる国がある。 そんな国にも、一人だけ怒りを(たた)える男がいた。 その男は、鬼のような形相でこう言う。 「感情の中で唯一、怒りだけ許されている。怒りが大罪となる国で、怒りしか表に出せない。それほどに重く取り返しのつかない罪を犯したんだよ、僕は」 落ち着いた声。憤怒の表情。そのアンバランスな姿が、まさしく「大罪人」という不気味さを(まと)っていた。 ある日、一人の青年が訊いた。 「どんな怒り方をしたのですか」 男は、眉を吊り上げてぎろりと青年を睨んで言った。 「僕はもともと笑うのがへたくそだったんだ。笑えなかった。心では笑っているのに、顔の筋肉が引き攣ってうまくいかない。『あいつは無愛想だ』、『一緒にいると楽しい気分が台無しだ』、『心がないんじゃないか』……周りは好き勝手言ってくる。心をもたない人間がいると思うかい?」 「いいや」 「そうだろう。僕からすると、彼らの方がよっぽど心ない人間に思えたよ。腹立たしいだろう。苛立ちを覚えるだろう? だって僕は笑いたいんだ。心では笑っているんだ。それをうまく表わせないだけさ。ちゃんと僕を見てくれていれば声が笑っていることくらいわかるはずなんだ。この国には自分の目に見えるものが全てだと無自覚に判断する人間が多い。多すぎる。だから僕は怒った。怒るだろうそりゃ。だって心があるんだ。内側にとどめておけないほどの怒りだったんだよ。嫉妬もした。嫉妬も積もれば怒りに変わる。僕はそれだ。それも含めて怒り狂ったんだ」 川の奔流のように次々と言葉を放つ男に、青年は口を挟めず顔色を変える。怯えを滲ませる青年に気付かない男は、なお話し続けた。 「怒りは伝染するだろう? 伝染するということは『怒っている』状態を他人に悟られているということだよ。怒りほど得をしない感情はない。損をすることの方が圧倒的に多いはずだ。表に出さず自分一人で完結できる怒りなら問題はないさ。罪と言えど飼い慣らしていればいい。感情を抱くこと自体を禁止するのは、心をもつ人間にとって不可能なのだからね」 瞳孔の開いた血走った目が、ぎょろりと宙を走る。 「ではなぜ、『怒り』を罪とするのか。罪とすることで、何を求めているのか。……それは、強く優秀な国民の育成だよ。怒りをあらわにして不快感をまき散らさず、場の空気と他人の心に悪影響を与えない人。怒りを覚えたとしても、自らの内側で原動力に変えることのできる強い心をもった人間。人材。優秀な民を生み出す、その一点のために決まった罪状なのさ。――つまり、」 青年は、質問の答えなんていらないから、早くこの場から立ち去りたかった。怒りが芽生える気配はないが、体の奥、内臓が震えるほどの緊張が青年を襲っていた。 男は憤激の様相で、その声も低く地を這うようだった。明らかに怒りを(まと)っている。しかし青年には、男がどこか高揚しているように見えていた。 「つまり、怒りをあらわにして、無様な姿を見せ、周囲へ負をまき散らす人間は優秀ではなく……不要である、ということだよ」 声の出ない青年へ煮えたぎる目を向けた男は、ああ話が逸れてしまったね、と穏やかな口調で歯ぎしりした。ぎりぎり、ぎりぎりと歯の表面をこすり合わせる音が響く。何かをすり潰しているのかというほどに、強く何度も繰り返している。 異様である。青年のこめかみから汗が一つ流れ落ちる。その時、青年は唐突に思い出した。 ひと昔前、大罪を犯した一人の男の「怒り」は、人間の域を越え、もはや「鬼」そのものだったと――。   男の声が、だんだんとがなり声へ変わっていく。 「よく笑うあいつらが憎くて羨ましくてねぇ。勝手に僕に苛立って笑顔を怒りに変えようとした彼らを見た時、笑顔を作れるその体を僕と混ぜればいいんだと気付いたんだ。思い立ったが吉日、怒りのままにその場で実行したらあっという間に大罪人となってしまったけれど、どうやら僕の思い付きはお偉方のお眼鏡にかなったらしくてね。それからずっと、上手に笑えるのに怒りに侵食されてしまいそうな、『罪人の芽』を摘んでいるんだ。そうすれば国は理想の形へ近付くし、いずれ僕は、彼や彼女たちのようにうまく笑えるようになる」 青年の体は、おぞましさと恐怖からぶるぶると震えていた。 男は目をかっぴらき、鼻孔を膨らませ、怒りを抑えるように歯をむき出しにした。荒く鋭い呼気が歯の隙間から漏れ出ている。 「――しびれる甘さ、とろみのある濃厚な甘み! やみつきになる味さ! 他の味は知らないけれど、笑う人間があんなにおいしいなんて知らなかったよ!」 青年は地面へへたり込み、怒り狂い心で笑う男を呆然と見上げるほかなかった。 そこにいるのは、鬼だった。 怒りしか許されないまま、「怒り」を喰らい続ける鬼が、そこにいた。
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