【秋葉悟の怠惰な日常】

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【秋葉悟の怠惰な日常】

 オフィスの壁に設置されている時計の秒針が進んでいく。その様子を、秋葉悟(あきばさとる)はただ物憂げに眺めていた。  場所は彼の職場。現在の時刻は、十六時四十五分。  天井が低いオフィスに響いている音は、社員が時々体を動かすことによって軋む椅子の音と、不規則なリズムで奏でられる打鍵音(だけんおん)だけだ。  時間の経過というものは、ただ待っているだけの状況下では異常なほど長く感じられるもの。手持ち無沙汰な自分を認識すると、きまり悪そうに彼は手元にあるノートパソコンの画面をじっと見つめた。  何かをしなければならない、そんな感じの強迫観念だろうか。メールボックスを開いて適当なメッセージを打ち始める。 『今日の晩飯は、何にする?』  自らが打った馬鹿げたメッセージに、続けざまに返答を書き入れる。 『自炊をする気はあるのか?』  あるわけがない、と自問自答を完結させた自分に苦笑い。  目を閉じて何かを考えているフリをする。もちろん、実際には何も考えていない。体裁を繕っているだけだ。  ふ、と息をつき、メールの送信トレイを閉じる。次に受信トレイを開いてみたが、営業成績が微妙な秋葉のパソコンに届くメールの数など高が知れている。  十二月二十日。この日、得意先から届いたメールは二件。メールの確認と対応は、午前中の早い時間に終わっていた。いつもと同じ。業務が終わる十七時までの時間を、こんな風に浪費するだけの毎日。   悪夢のように長く感じられる十五分が過ぎると、終業を告げるチャイムがようやく鳴った。安堵から秋葉はひとつ息を吐くと、パソコンの電源を落としてもう一度目を閉じた。  今日の夜、何をしようかと思案してみる。  仕事から解放こそされたものの、自宅に戻ってからやりたいことも、やるべきことも特になかった。  もっとも、彼は独り暮らしなのだから当然家事はしなくちゃならない。炊事に洗濯、部屋の掃除。だが、そんな予定で、彼の荒んだ心が充足するはずもない、というだけの話だった。 「それじゃっ、お先に失礼しますねー」  隣のデスクに座っていた同僚の田宮真帆(たみやまほ)が、ベージュ色のコートを素早く羽織って立ち上がる。彼女は秋葉の二年後輩であり、今年の春に大卒入社した二十二歳。  艶やかな長い髪を背中で一本に結わえ、銀縁の丸い眼鏡をかけた女の子。大人しそうな見た目に反してお喋り好きで、大きな声で笑う子だった。 「お疲れ様。今日はなんだか急いでいるんだね? もしかして、彼氏とデートか何か?」  あまり見たことのない口紅の色だ、と感じてカマをかけた台詞だったが、「いいえー。そんなんじゃないですよ」と彼女は首をぶんぶん横に振って否定した。 「友達と食事をしてから、その後でちょっとだけお酒を飲む予定です。そもそも彼氏なんていませんし」  そう言って、花のように笑んだ彼女。笑うとできる片えくぼが、なんとも愛らしい。 「そうなんだ。じゃあ、楽しみだね」 「はいッ」  なかば社交辞令でかけた言葉だったが、彼氏の存在を否定されたことを、心のどこかで彼は喜んでいた。  オフィスの中にいる上司や同僚に頭を下げながら出て行く小さな背中。田宮を見送ったのち、秋葉も鞄を片手に立ち上がる。彼女に倣ってまわりに挨拶を届けると、オフィスの外に出た。  秋葉が勤務しているD商事は、ゴルフ用品やテニス用品を始めとして、スポーツ用品全般を取り扱う商社だ。  商社の仕事に憧れて秋葉がD商事に入社したのは、二年半ほど前になる。入社当初の彼はやる気が漲っていて、営業成績も人並みに残していた。  だが、要領が悪いのか、はたまた向上心が足りなかったのか。同期や後輩が営業成績を伸ばし、総合職として一本立ちしていく一方で、彼の成績は伸び悩んでいた。  今ではもう、メーカーへの発注と入金管理の一部を担当する、一般職の一社員になり下がっていた。  春に入社して来た後輩の田宮に、密かな恋心を抱いた。  彼女の世話役になったわけでもなかったが、社会人としての気持ちの持ち様。商社で働く心構えと気をつけるべき注意点。デスクが隣になったことをきっかけとして様々な教えを彼女に説いた。  田宮が会社に慣れるまでの期間は、サポートできることもそれなりにあった。パソコンの操作方法。契約書の書き方や発注管理に納入管理。月末の棚卸、在庫管理など、幾つもの業務を彼女に教えた。田宮は素直に彼の話に耳を傾け、丁寧にメモを取った。  そんな彼女の勤勉さに益々惹かれると同時に、彼の自尊心も満たされていった。けれど、充実した日々も長くは続かなかった。  田宮は仕事の覚えが早く、元来優秀な女の子だったのだ。あっと言う間に彼女は、秋葉の助言を必要としなくなった。彼女の営業成績はぐんぐんと伸び、今ではすっかり彼以上に優秀な社員だ。  ここ最近はというと、田宮と会話する話題も見つからず、隣から整った横顔を盗み見ているだけの毎日。  告白なんて、とんでもない。  彼は、良く言えば誠実そう。悪く言えば平凡ながらも比較的整った顔立ちである。にもかかわらず、社交的とは言いがたい性格が災いしたのか、二十五歳になったいまでさえ、初体験どころか女性と交際をした経験すらなかったのだ。  秋葉は会社の近くにあるコンビニに入ると、弁当とビールを購入した。仕事上がりの楽しみと言えば、精々食事と晩酌くらいしか無かった。  散らかったままのアパートの光景が脳裏に浮かぶ。掃除をしなくちゃならんな、としばし頭を痛めたが、週末で問題ないだろうといつものように先送りすることを決めた。  十分ほど歩いて八王子駅の南口より構内に入る。  今日も変わらぬ人の多さに、思わず閉口してしまう。駅内部は、仕事終わりのサラリーマンや学生でごった返していた。数分列に並んでようやく切符を購入すると、エスカレーターで一階にあるホームを目指した。  エスカレーターでの「片側開け」や「歩行禁止」というマナーを知ったのも、東京に出て来てからのこと。  かつて憧れていた東京での生活だったが、結果として住む場所が変わっただけでしかない、と彼は思う。これといった目標もなく、自堕落に過ごしているだけの毎日は、たとえ何処に住んでいようが無関係だ。  混雑したホームに佇み、鬱々とした気分で寒空を見上げた。  満員電車で毎日通勤するようになって二年以上が経つけれど、何度繰り返しても()()苦痛には慣れそうもない。  隣に立っている男子高校生のイヤホンから漏れる不快な音楽。背後に立つオーエルから漂ってくる、香水のきつい匂い。遠慮なく顔を吹き付けてくるエアコンの風。  俺がいるべき場所は、きっとここではない。そんな妄想に時々捉われていた。  彼が使っている沿線は、ここ数年で利用者数が増えている。  日本の人口は近年減り続けているらしいが、都市圏への人口流入で、東京の通勤電車の利用人数はむしろ増え続けているのだそうだ。  そんな沿線なので、駅のホームに電車が入ってきた時点で車内は満員の状態だ。電車に乗る前からすでに戦いは始まっているのだ。電車の扉が開くと同時に、降りる人たちが車内からわき出てくる。まるで砂浜に打ち付けられた波のように。降りきったら今度は、引き潮のようにサーっと車内に人が吸い込まれていく。その波に飲まれながら、彼も車内に突入していく。  すし詰めの車内では、耐え難い圧迫感が襲ってくる。発車時と停車時には、周囲の人から寄りかかられる。なるべく他人に体重を預けてしまわぬよう両足をぐっと踏みしめ、指先が痺れるほど強くつり革を握りしめる。  電車を降りてからも安息はない。階段の方に向かって無心に流れゆく人波に飲まれ、彼もまた改札口を目指す。  移動だけでストレスが溜まることに疑問を感じていたが、どうしようもないんだ、と自分に言い聞かせ続けていた。  彼が住んでいるのは、中央本線を下りに二駅進んだ先にある、高尾駅の近くにあるアパート。駅の改札口を出ると、自宅の方角に足を向けた。  冬らしく澄みきった空気の中、視界に入り込む光の数が、先日より多くなっていることにふと気が付く。雑居ビルのネオン・サインや街灯の明かりに加え、駅前通りの立木にも、色鮮やかな電飾が施されていた。  視線を巡らせると、飲食店の軒先に、大きなクリスマスツリーが置かれていた。そうか、クリスマス・イブが近いんだと彼は思う。  だが、俺には無縁なイベントだ。悴んだ指先にはあっと息を吐きかけ、再び歩き始める。  彼の自宅は、地方都市の近郊によくありそうな、二階建てのアパート。  比較的築年数の浅い物件であり、白い壁には雨染みの痕も見当たらず佇まいは立派だ。清潔そうな印象を与える外観通り、家賃も相応の値段だった。  今にして思えば、もっと安い部屋でも良かったな、と彼は考え始めていた。恋人もいない独り暮らしの男には、いささか不相応で勿体ない。  それでも、真剣に条件の合う賃貸を探してはいなかった。ただ単純に、引っ越しの手続きをするのが面倒だったからだ。  相も変わらず怠惰な自分に溜め息をひとつ吐き、アパートの外部階段を上り始めた。彼の部屋は、二階の突き当たりにある210号室だ。  足早に階段を上りきると、二階通路に足を踏み出した。その瞬間、彼は驚きで双眸を大きく見開くと、反射的に階段の方に頭を引っ込めた。  ――誰だ、あれは?  秋葉の部屋の前に、膝を抱えて座る少女がいた。  ブレザーの制服を着てマフラーを首に巻いている。容姿から見ると女子高生で間違いなさそうだが、自分を訪ねてくる女子高生になど心当たりがない。田舎に弟が一人いるだけで、女の兄弟・親戚もいないし。  迷子だろうか?  別の誰かの部屋と間違えているのだろうか?  もしかして、宅配業者のアルバイト? ……さすがにそれはないか。  見間違い、もしくは錯覚だったことを期待して、もう一度顔を覗かせてみたが──  ──やっぱり、いる。  とにもかくにも、彼女の前を通らないことには部屋に入ることすら叶わない。どうしたものかとあれこれ考えているうちに、階段を上ってくる別の足音が響いてきた。 「くそっ」  悪態が口をついて出る。少女に事情を訊くほかないと覚悟を決めると、部屋のほうに向かって歩き始めた。  不審者だと思われぬよう、柔和な笑みを浮かべて近づいていく。やがて足音に気が付いたのか、少女はゆっくりと顔を上げた。  僅かにウェーブの掛かった髪の毛は、肩にかかる程度の長さ。整った輪郭線に収まる瞳は、睫毛(まつげ)が長くて切れ長。なかなかどうして可愛らしい。見た目としては、中の上程度といったところか。 「随分と遅いのね。待ちくたびれて身体が冷えちゃったよ」  と少女は言った。トーンが高くて澄んだ声だ。  スカートに付いている埃を払いながら、少女はすっと立ち上がる。  秋葉は一度だけ後ろを振り返る。その言葉が、別の誰かに向けられたものではないかと確認するためだ。しかし、背後には誰の姿もなかった。顔をわずかに引きつらせ、再び正面に向き直る。 「今、『俺を待っていた』と聞こえたんだけど、何かの間違いじゃないのかな? そこは俺の部屋であり、俺は君のことを知らないんだけど」  すると少女は瞳を細め、唇の端を少しだけ吊り上げた。 「そりゃ、知らないだろうね。私だって、()()頃のあなたを見るのは初めてなんだもの」 「すまない。何を言っているのか、さっぱりわからないのだが……」  それもそうか、と唇に指をそえ少女は思案する。 「ではでは、もうちょっとわかり易く伝えましょう。私の名前は、葛見千花(くずみちか)。あなたの娘です」 「……?」 「説明なら後でちゃんとするから、取り合えず早く部屋に入れて欲しい。もう、寒くてしょうがないの。どのくらい寒いかと言うと、シベリアの海に水着姿で突き落とされた時くらいには寒いのです」 「それは寒そうだね……じゃなくて、さっきなんて言ったの?」  あなたの、むすめです?  聞き逃しそうになった言葉を頭の中で反芻してみる。日本語としての意味は理解できるが、女の子とキスすらしたことがない俺に娘だと!? 生まれるはずがないだろう。何を言ってるんだこの子は。 「ごめん、やっぱり意味がわからないんだけど」  率直に気持ちを吐露したその時、階段を上ってくる足音がさっきよりも大きく聞こえた。このままでは、アパートの住人に押し問答をしている様を目撃されてしまう。妙な噂を立てられてはかなわないと、一先ず少女を部屋の中に入れることにした。  忙しなく玄関の鍵を外すと、中に入れと少女を促す。「寒かった~」と安堵した背中を押し込んで、彼は思わず深い息をつく。  それと同時に気が付いた。部屋の掃除をしばらくサボっていたことに。  今度こそ彼は慌てふためき、少女のあとを追いかける羽目に陥った。
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