coton

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「ねえ、ところで君はどうして俺の名前を知ってるの? 俺に会いに来たって言ったよね? 誰かに俺のところに行けって言われたの?」  尋ねるとコトンは可愛らしく小首を傾げた。 「……そんなこと言いましたっけ?」 「言ったよ! どうして君、何でもすぐに忘れちゃうの!? 記憶喪失気味の猫なの?」  コトンは照れ臭そうに白い頭をかいた。違う。褒めてないけど、まぁいいか。  アパルトマンの狭苦しい屋根裏部屋をぐるりと見渡す。簡素なテーブルと椅子。シングルベッド。衣装箪笥。傾斜した天井にくっついた四角の窓。この窓を開けて身を乗り出せば、遠くにエッフェル塔が見える。それだけがお気に入りの部屋。  古い机の上には書きかけの原稿。一応物書き。まだ売れてないけど、一応。  猫ならまだしも、少年の姿の猫を住まわせるには少々狭苦しい感じがする。狭苦しいけど広い部屋に引っ越すような余裕もないので仕方ない。  このモンマルトルの安アパルトマンには、俺と同じような独り身の若い男がわんさか住んでいる。売れない画家とか、売れない劇団俳優とか、売れないジャーナリスト、売れない作家。たまに好みのタイプとすれ違ったりするけど、まさか声をかけたりはしない。  この街で同性愛者なんて別にいまさら珍しいわけじゃない。でも恋人を作るのはもういいやって思ってる。女はむかしから苦手だし、だから結婚もしたくない。このまま一生独り身で構わない。気楽だし。  だから猫を飼うくらいが俺にはちょうどいいかもしれない。猫っていうか、俺の目にはどう見たって人間の男の子なんだけど。  可愛い顔してるし、いい子そうだし、なぜか俺にベッタリだし、下心がまったくないと言えば嘘になるけど、俺からは絶対手を出さないつもり。まぁそっちがその気ならまんざらじゃないけど、っていやいや、ダメ、絶対。俺はねぇ、もう嫌なの、いろいろ。男同士でそういうことになって、誰かを傷つけるのも傷つくのも。  だから節度をもって、猫としてコトンを可愛がってやろう。
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