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夕日で真っ赤に染まるその山には山を司る女神様が棲んでおり、数年に一度近くの村から若い男を生贄として差し出す風習がありました。
***
山を司る女神様の棲む屋敷の一角には朝早くから若者の姿がありました。
その若者こそ、生贄として差し出された太郎です。
太郎がかき混ぜる鍋からはおいしそうなにおいが漂っています。
この屋敷にやってきてから一か月、なんとか把握できたのはまだこの一角だけです。
「これでよし……っと」
鍋を見て満足そうな様子の太郎の元に女神様がやってきました。
つややかな長い髪に白い肌、そして花が咲き誇った山を思わせる緑色の着物。
いつ見ても女神様の姿は神々しく、光り輝いて見えます。
「おはようございます。今朝もお祈りご苦労様です。おかげで今日も皆、健やかに過ごすことができます」
「うむ……」
「座って待っててください。食事を持ってきますから」
女神様は毎日朝早くから皆が健やかに過ごすことができるように祈りを捧げているのです。
そんな女神様の助けになればと、せめてもと太郎は毎日こうして食事を作っているのでした。
早くに両親を亡くし、ひとりで身の回りのことをこなしてきた太郎にとって食事を作ることは朝飯前です。
「さあ、どうぞ。口に合えばいいのですが」
「いただこう。お前も共にだ」
「はい、俺もいただきますね」
最初、女神様は太郎と同じ食事はできないのだと思っていましたが、同じ食事をとることができるとわかってからは、こうやって太郎と一緒に食事をするようになったのです。
「女神様、おいしいですか?」
「まずい」
先程までの和やかな空気は一転し、女神様は顔を真っ赤にして怒った顔をして太郎を見ていました。
「生贄のお前と食べる食事がうまいと、お前はそう思うのか!?」
女神様の髪は怒りで逆立ち、いつもは自愛に満ちた瞳も今は怒りで満ちています。
「も、申し訳ございません。どうか、どうかお許しを……」
太郎はその場に土下座をして謝りました。
額を擦りつけている畳は青々とした香りがし、今太郎が着ている服もここに来るまで袖を通したこともないような上等なものです。
やはりこの生活は己の身には合わないものだったで、もしかしなくともずっと夢を見ていたのかもしれない。
太郎は、そう思いました。
「頭を上げよ」
「…………はい……」
このような美しく気高い女神様と過ごせたことは奇跡だったのかもしれません。冥土への土産としては太郎にとってはあまりにも贅沢であたたかなものです。
(ああ、でも、せめて今日の食事は食べ終えたかったな……)
両親を亡くしてから誰かとあたたかな食事を囲むことのなかった太郎にとって、共に食事をする時間はこれ以上ない幸せな時でした。
生贄としてやってきた太郎は食われてしまうのでしょうか。
しかし、それも悪くないと思いながら頭を上げた太郎が見たのはうっすらと涙を浮かべてこちらを見る女神様でした。
「あの、泣くほど今日の食事はまずかったですか?」
「ちがう」
「じゃあ、俺などと一緒に食事をするのが」
「ちがう!」
顔を赤くして怒る女神様は神様というよりも、まるで駄々っ子のようです。
「女神様、どうか俺のなにが至らなかったのか教えて下さいませんか」
「それじゃ」
「それとは?」
「その呼び方じゃ!」
女神さまはキッと太郎をにらみつけます。
「お前は生贄ではなく、われの家族ではないのか!? あの言葉は嘘だったのか!?」
「いえ、生贄として屋敷にやってきたあの日、家族としてそばにいろと言われたこと、本当に嬉しかったです。あの言葉に嘘はありません」
「ならば、われのことは名前で呼べ。夫婦とは名前で呼び合うものなのだろう」
「ふ、夫婦……」
「夫婦も家族なのであろう。われとそのような家族になるのは嫌か?」
「い、いえ……あまりに幸せすぎる話で天にのぼるかと思いました……」
両親を早くに亡くした太郎にとって家族を持つなど夢のまた夢の話で、太郎が生贄に選ばれた理由も家族がいないからでした。
「天にのぼってもらっては困る。我をひとりにする気ならば天にのぼらぬよう、この山に縛り付けておかねばならない。初めて山の女神でよかったとそう思った」
「俺も生贄に選ばれて初めてよかったと、そう思いました」
女神様から太郎はあの日、初めて屋敷に来た時のように手を差し出されました。
「ならば、これからは家族としてわれと共にあれ、太郎」
「わかりました、――――」
差し出された手を取り、口にした女神様の名前はとても幸せな響きとして太郎に届きました。
「い、いきなり名前を呼ぶでない!」
顔を真っ赤にして怒る女神様に太郎は思わず笑ってしまい、そのことをまた女神様に怒られてしまっても太郎はたまらなく幸せで、つい笑ってしまうのでした。
*****
あの山には女神様と女神様の旦那様が棲んでいて、毎日真っ赤な夕日が見れるのは女神様が照れ隠しに旦那様に怒ってしまうからだといわれているのです。
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