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砂漠に立つ少女の頭上を、天の川の奔流が貫いている。
いつもなら簡単に分かる夏の大三角が、よく目を凝らさないと見つけられない。
その理由は、眼前に広がる星の数――周りの等級の低い星々が、普段より格段に良く見えるためだ。
初めて見る景色に、少女が「おおー」と、言葉にならない声を上げる。
地面を両足で踏みしめ、倒れないギリギリまで身体を反らせて、文字通り満天の星空を見上げる。
風が吹く。その冷たさを、頬で感じる。
少女は、空に向けて手を伸ばす。
「ママ! お星様に手が届きそう!」
興奮した叫び。
小さな足で地面を力いっぱい蹴って、風を切って跳ねるように走る。
そこで、リンは気付いた。
――嗚呼、これは夢だ。
遠い、子ども時代の記憶だ。
走りながら見上げた、輝く夜空。弾けるような笑いが、自ずと口から出てくる。
夜空が揺らいだ――夢の終わりだ。
――まだ醒めないで。
夢でも良い、まだ感じていたい。頬が受ける風の冷たさ、重力に逆らって自分の力で立つということ。
それは、今のリンの身体が、最早忘れかけた感覚。
どこかで音がする。
フーヨ、フーヨと、間の抜けた、でも規則正しい笛の音。
視界を埋め尽くす、無数の星々。
お星様に手が届きそう――屈託のない子どもの考え。
すべての原動力。
――その手は一度、確かに星を掴んだはずなのだ。
フーヨ、フーヨ、
間の抜けた笛のようなアラーム音で、リンは目を醒ました。寝袋の専用穴から出した右腕が、そこだけまだ夢の続きを見ているように、上に向かって軽く伸ばされている。
フーヨ、フーヨ、
規則正しいアラーム音が鳴り続ける。
何で、目覚しをこんな変な音に設定したのか。寝る前の自分を若干恨む。
上がっていた右腕を動かし、横の壁面の、ちょうど手の届く位置に固定された個人パネルを見ることなく操作し、音を止める。
アラーム停止をトリガーに、室内の照明が自動点灯した。リンの活動による二酸化炭素濃度上昇を見越して、エアコンの風量が調整され始める。
リンの目覚めは、システムの目覚めと同義だ。
ところが、シーケンスに従順なシステムとは違い、リンはまだ寝袋から出ていない。
できれば、もう少し寝起きの怠惰な時間に、夢の余韻に浸っていたかった。
ここは、火星から地球圏までの孤独な道行きの途中。リンの生存だけを目的とした、緊急帰還ポッド与圧部の中。
今が地球と火星の大接近時期として、その間、直線距離で約五八〇〇万キロメートル。今はまだその半ば、慣性で飛び続けるフェーズだ。多少活動予定時刻を過ぎても、困るものは誰も――
ビーッ、ビーッ!
パネルが黄色に点滅し、システムエラーの警報が鳴った。
リンの寝坊は困る物がいるらしい。そしてそれは、一周回ってリンが困る事を意味する。
リンは一度大きく嘆息すると、慣れた手つきで寝袋のジッパーを下ろし、壁面に固定された夢の国から出た。少しだけ勢いをつけて、環境制御システム横のバーに向かって空間を泳ぐように進む。
バーを掴もうと、右腕を伸ばす。
その時、一段と筋肉が削げ、皺が増え乾燥した自分の前腕が目に入った。
あの子どもの腕が、五〇歳前でこうなるなんて、一体誰が予想しただろうか。
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