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(もうこんな時間)
微睡みから、思考がゆっくりと現実に戻ってくる。
体は重たさを感じるのに、同時にまろやかな心地よさも残っていた。
カーテンを取り外した窓からは夕焼けのあたたかな光がたっぷりと差し込んできていて、この部屋はこんなに西日がきつかったのかと最後にして気づかされる。
この1DKには5年ほど住んでいた。
染みついていた生活感は今や段ボール箱にすべて閉じ込められ、食器だの衣類だの、太字の黒マジックでラベリングされている。
スマートフォンのロック画面にメッセージアプリの通知が表示されているのを確認して、わたしはのろのろと立ち上がった。
通話ボタンをタップして、耳元へ当てる。
「あ、ごめん。寝てた」
『そんな気はしてた。荷造りで疲れちゃった?』
「そうだね」
答えながらもあくびをすると、電話の向こうから笑い声が聞こえてきた。
耳馴染みのいい音程、スピード。吐息ですら耳の奥に残しておきたい甘さ。
『で、どうする? 食べに行く?』
「うん。お言葉に甘えて」
『いいのいいの。旦那も出張中でいないし、引っ越し祝いだよ』
集合場所だけ決めて通話を終える。
【Ayaka Sato】
スマートフォンに表示された文字列を、そっと指でなぞった。
部屋の外はいつの間にか薄暗くなっている。
キャリーケースの上に引っかけていたカーディガンを羽織ると、そのままスマートフォンを鞄に突っ込んだ。
極小の玄関から見渡す部屋はがらんどう。
――人となりを知るために手っ取り早い方法は、どんな音楽を聴いているかを尋ねることだよ。
からからと笑う声が響くようだった。
――それから、どんな部屋に住んでいるかを知ること。まぁ、その頃には、だいぶそのひとがどんな人間か知っていると思うから。こっちは、答え合わせみたいなもんかな。
わたしの部屋は彼女から見て、どんな風に映っていただろうか?
彼女の好きなロックバンドのCD。ライブのグッズ。カメラマンの作品展で購入したモノクロームの写真。子どもの頃にハマったゲームのぬいぐるみ。本棚には日常エッセイ集が並んでいた。食器は、北欧の人気シリーズを揃えていた。
よく考えれば解ってしまうことばかり。
洞察力の鋭い彼女はきっと気づいていたに違いない。それでも、何も言わなかった。
だけど、空っぽになったこの部屋に、彼女の……わたしのものは何ひとつ、ない。
楽しかった想い出も、悲しかった記憶も。
もはや、天井や壁や床、部屋を構成するすべてがわたしを赤の他人と認識していた。
……ぽた。
玄関に水滴が落ちた。泣いていた、わたしが。
好きだった。どうしようもなく。
叶わないなら、せめて許してもらいたかった。
純白に身を包んだ彼女を祝福したとき思い知らされた。
ここから、わたしたちの道は完全に分かつのだと。彼女は子どもを産み、育て、伴侶とともに年老いていくのだろう。
そんな彼女を見たくないという感情が湧いたとき、もう駄目だと思った。
それらはわたしの自分勝手な感情で、それを抱いて呼吸することが苦しくなってしまった。全部が全部、わたしのエゴだけで構成されていた、みっともないだけの恋。みすぼらしい想い。
歪んだまま生きていくには、わたしの心は脆すぎた。
それなのに。
引っ越し前夜。思いを断ち切るための、最後の夜。
彼女に誘われて、簡単に了承してしまう自分がいる。
(情けない)
なけなしのプライドを絞り出して、振り絞って。
せめて彼女の前では笑っていよう。
そして明日になったら、すべてを、棄てて。
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