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4
自分が誘ったんだから、と長谷さんはお金を受け取らなかった。恐縮しつつ、やはりご夫婦だったらしいオーナーに美味しい料理のお礼を言って、店を出た。
来た時と同じ道を反対にたどって駅に向かう。さっきよりも肩と肩が近い気がする。長谷さんと二人でいても、もう緊張することはない。自然に会話をしながら、ゆっくりと歩いて行く。
そこで、大事なことを伝えていなかったことに気がついた。
「小川さんから、今日の夕方、連絡をいただきました」
「小川君から?」
長谷さんが片方の眉を上げた。
一番に報告すべきだったのに、すっかり忘れていた。電話でのやり取りの内容を話し、つないでくれたことに丁寧にお礼を述べる。
「ちょっとでも役に立てたならよかった」長谷さんも嬉しそうだ。「定期的に来てくれたらいいですね。それにしても、お母さんが先生だったなんて知らなかったな。どこでどんな縁がつながるか分からないですね」
長谷さんの言葉にうなずき、互いに歩調を合わせて無言で歩き続けた。
気詰まりじゃない、穏やかで心地のいい沈黙。ずっとこの道が続けばいいのに、と思う。今日会ったのは偶然だった。また会うことがあるのかな。そう思うと寂しいけれど、どうせ同じ路線なのだから、あと少しだけは一緒にいられる。
前方に明るい駅前広場が見えてきたところで、長谷さんが足を止めた。理香も同じように立ち止まる。
「そのうち、また、ご一緒しませんか」
予想外の、けれどとても嬉しい問いかけに、理香は素直に「はい」と答えた。長谷さんが、ジャケットのポケットからスマホを取り出した。
「プライベートの連絡先を聞いてもいい?」
「──はい」
バッグの中からスマホを取り出そうとした理香に、後ろから近付いてきた車のヘッドライトが当たった。長谷さんが、理香の肩を抱き寄せるようにして道の端によけた。思ったよりも大きな手。その手は、すぐに理香の肩から離れた。少しだけ鼓動が速くなる。
長谷さんは、何事もなかったかのように続けた。
「勤務先の携帯に私的な連絡をする勇気なんて、とてもありませんから。話している間に大事な電話がかかってくるんじゃないかと思うと、気が気じゃなくて」沙彩ちゃんのお父さんが倒れた時のことだ。「メール、僕から送る方がいい? 逆でも大丈夫ですよ」
「じゃあ、わたしから送ります」
長谷さんが口にしたアドレスは、シンプルに自分の名前と数字を組み合わせたものだった。家族の存在を連想させるものが入っていないことにほっとする自分がさもしいと思うけれど、今は考えない。
──男女の関係なんて望まない。この人と、一人の人間として付き合っていけたら十分だ。
メール作成の画面にアドレスを入力しながら心の中で唱え、「よろしくお願いします」とだけ書いたメールを送信した。直後に長谷さんの手の中でスマホが振動する。続けて、理香が口にした番号に長谷さんが電話をかけ、互いの携帯番号を交換した。
肩を並べて狭い通りを歩き、駅前広場に足を踏み入れた。広々とした場所に出ると、急に頭上が開けたような気がした。十時を過ぎているはずだけれど、人波が途切れることはない。駅から絶えず人がはき出され、反対に駅の外からは、たくさんの人が改札へと飲み込まれていく。
コンコースへの入り口の少し手前で、長谷さんが再び足をとめた。
「久しぶりに楽しかった。ああ──、降ってきましたね」
長谷さんは空を見上げた。つられて理香も頭上に目を遣った。暗い海の底みたいな空から、雪が、ひらひらと舞うように落ちてくる。向かい合って立つ二人の横を、何人もの人が通り過ぎていく。いかにも寒そうに、肩をすぼめて。
「僕ね」何気ない口調で長谷さんは続けた。「毎年、この時期になると思い出すことがあるんです。でも」どこまでも優しい表情で理香を見る。それから、少しだけ寂しそうにほほえんだ。
「もう少し──、あと少しだと思う。あなたのことは、ちゃんと──」
言いかけたところで言葉が途切れた。見ると、長谷さんが、ひどく驚いた顔で理香の背後を凝視していた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
「──」
誰かの名前だったかもしれない。つぶやきに近いかすかな声を理香の耳に残して、長谷さんが呆然と一歩踏み出した。すれ違う瞬間にわずかに肩が触れた。
「ごめん──」
理香を見ていない彼の、たぶん無意識だろう謝罪が胸にささる。
ちょうど電車が到着したらしく、駅から人が次々に出てくる。長谷さんは人波をかき分けるようにして進み、すぐ先を歩いていた黒髪の女性の肩に手を伸ばした。肩をつかまれた女性がぱっと振り向いた。驚いたのだろう、大きく目を見開いている。
「あ──」行き場を失った長谷さんの手が、ゆっくりと落ちた。「すみません。人違いでした──」
女性の目が相手を値踏みするように上下した。まんざらでもなかったのだろう、女性は、謝罪を口にする長谷さんに、むしろ媚びた笑いを浮かべてみせた。それから、少し離れて立っている理香に気づいて、少し残念そうに眉の端を下げ、愛想のよい笑顔を見せて歩き去って行った。
おずおずと近づいて隣に並んだ理香に、長谷さんが視線を向けた。
「ごめんね、急に。ちょっとあわててしまって。びっくりしたでしょう?」
「いいえ」
理香は首を横に振った。
「こんなところにいるはずがないのに」
つぶやいた声がかすかに震えている。いつも穏やかで落ち着いた彼が、こんな風に動揺するのを初めて見た。さっきの女性を誰と間違えたのかは分からない。それよりも、目の前の長谷さんの様子が気になった。
「あの、大丈夫ですか」
「大丈夫だよ」明らかに大丈夫じゃなさそうな声で、長谷さんは言った。「帰ろう」
電車の中で長谷さんはほとんどしゃべらなかった。自動ドアに背中を預け、どこかぼんやりとした表情を浮かべている。
「あの」
心配になって小声で呼びかけると、ようやく視線が合った。
「ああ、ごめん。ちょっとぼんやりしてた。──酔ったかな」
そんなはずはない。二人とも、飲んだのはビールをグラスに一杯だけだ。それにお店を出た時も、そのあとも、長谷さんは全然酔ってなんかいなかった。本人だって分かっているはずだ。でも、まだ友人とすら言い難い自分が、それ以上何かを言うのはためらわれて、理香は口をつぐんだ。
列車は夜の中を走っていく。互いに言葉を交わすこともなく、やがて、長谷さんの最寄り駅に到着した。
「じゃあ、また」
声をかけて降りていく長谷さんが、なぜかそのままいなくなってしまいそうな気がして、理香は思わず電車を降りた。ドアが閉まり、小さな風を起こしながら、列車がホームを滑り出ていく。その音を背中で聞きながら、理香は、階段に向かって歩いていく長谷さんのフェイクファーのフードを追いかけた。
「長谷さん」
長谷さんは気がつかない。その様子に不安が募った。
「長谷さん!」
もう一度、今度は少し大きな声で呼びかける。ようやく自分が呼ばれていることに気づいたらしく、長谷さんは階段の途中で立ち止まり、ゆっくりと振り返った。まさかそこに理香がいるとは思わなかったのだろう、長谷さんは驚いた顔で口を開いた。
「どうしたの? 理香さんの駅は、ここじゃないでしょう?」
「あの──」
あわてて追いかけて来たものの、何を言えばいいのか分からない。とっさに、自分でも思いもしなかった言葉が口をついて出た。
「送ります、家まで」言葉にした途端に、それが正しいことのように思えた。「何だか心配だから」
自覚はあるのだろう、長谷さんは「ああ」と低い声で言い、それから「ごめんね、大丈夫だよ」と笑った。その顔が妙にはかなげに見えて、ますます心配になった。
「“つらい時に雪の中を一人で帰るのは寂しい”って言ったのは長谷さんです」理香は、戸惑った様子の長谷さんの先に立って歩き出した。「北口ですか、公園口ですか?」
「北口──」
改札を抜け、北口から出たところで、理香は立ちどまった。この先をどっちに行けばいいのか分からない。長谷さんの顔をうかがうと、「こっちです」と左に向かって歩きだした。
長谷さんが暮らす街──。
にぎやかな駅前を離れると、さりげない通りの奥に隠れ家みたいなセレクトショップやカフェがあったりして、ちゃんと生活感があるのに、どこかしゃれた空気を感じる街だ。
駅ビルを左に見ながら歩いて行くと、少ししてコーヒーショップがある交差点に出た。 正面にはファッションビルが立ち、その横に学習塾が入ったビルが並んでいる。時間が遅いだけあって、塾の入り口にはすでにシャッターが下りていた。
──娘さんが通っているのって、どこなんだろう。もしかして、ここだったりするのかな。
信号を待ちながら合格率をうたった看板を眺めていたら、自分の行動に自信がなくなってきた。家庭のある男性に、夜、しかも徒歩で「送ります」だなんて。どうかしていたとしか思えない。
信号が青になり、横断歩道に足を踏み出す。一歩進むごとにどんどん気がひけてきて、歩みが遅くなっていく。交差点を渡り切ったところで、今はもう、理香よりも前を歩いている長谷さんが振り返った。
「もしかして『しまった』って思ってますか?」
表情がやわらかい。いつの間にか、いつもの彼に戻っていた。
「──はい、かなり。あの、わたしの申し出、変でしたね」正直に言うと、長谷さんがなぜか下を向いた。よく見ると笑っている。「笑わなくてもいいのに」
気まずさのあまり、恨みがましい口調になってしまった。長谷さんは、今度は隠す努力もせずに声を上げて笑った。
恥ずかしくて仕方がない。でも、長谷さんが楽しそうで安心する。こんな様子なら、彼の自宅までついていく必要なんてないし、そもそもそんなことをする勇気もない。
「大丈夫そうなら、わたしはここで──」
「嬉しかった」
たった一言、飾り気のない言葉が耳に響いた。長谷さんが理香を真っすぐに見つめていた。
「送ってくれるんでしょう?」
もう笑ってはいない。長谷さんは自分の左手を理香の右手に伸ばした。指先が触れたかと思うと、ふわっと手の中に包まれた。彼の手の温度をはじめて知った。温かい──。
「手が冷たいですね。寒かった?」
マフラーはどうしたの、と聞かれて、事務所に置いてきてしまったことを思い出した。
「事務所に忘れて──」
動転して、それだけ口にするのが精一杯だった。
「ごめんね、気がつかなかった」
長谷さんは申し訳なさそうに言い、自分の首元に手をやった。マフラーを外し、驚いて固まっている理香の首にくるっと巻きつける。それから、もう一度、理香の手を取り、今度はぎゅっと握った。
「送ってください、家まで。家の前に着いたらタクシーを呼びます」
手をつないで夜の道を歩いた。マフラーに残る長谷さんの香りと、直に触れている指の感触に、頭の一部がしびれたみたいになって、思考がまともに働かない。
触れてしまったら最後、気持ちを止められなくなるだろうことは、とっくに分かっていた。自分にたくさん言い訳をし、何重にもブレーキをかけて、どうにか気持ちを納得させてきたのに、もうどうしたらいいのか分からない。
雪は、いつの間にか止んでいた。目の前に静かな住宅街が続いている。
長谷さんは一体何を考えているのか、理香の指に自分の指をからませたまま離そうとしない。自宅に近い場所でこんなことをしていて大丈夫なのか心配で仕方がないけれど、この手を離したくない。
「僕の家、あそこです」声が響かないようにだろう、理香の耳に口を寄せるようにして長谷さんが小声で言った。「街灯の向こうの家。分かる?」
片手でしっかりと理香の手をつかまえたまま、空いた手で通りの先を示す。見ると、庭木が茂る広めの敷地に、この辺りではめずらしい一階建ての家がたっていた。
門の前まで来たところで立ち止まった。
最近の住宅ではなく、少し昭和の香りがするような日本家屋だ。確かに長谷さんの自宅らしく、ガレージのシャッターゲートの向こうに見覚えのある黒っぽい車がとまっている。
どう見ても、ひとり暮らしをするような家じゃない。家族で住む家だ。この家に、この人の奥さんと子どもさんが住んでいるのだと思うと苦しくてたまらない。そして、この場所にこうしていることが申し訳なくて仕方がない。
玄関にも家の中にも明かりは見えない。もう寝静まっているんだろうか。おろおろと考えるものの、わざわざ尋ねる勇気はない。
「寄っていきますか?」
「え?」
理香は、びっくりして長谷さんを見上げた。ありえない問いかけに、言葉が出てこない。
至近距離で目が合うと、長谷さんはゆっくりとまばたきをした。少し照れたような、でもとても真面目な顔で「どうしますか」という風に首をかしげてみせる。ふざけているようには見えない。
──でも、ご家族は?
もしかすると不在なんだろうか。とまどう理香の表情を誤解したのか、長谷さんはすぐに「ごめん、いきなり。気にしないで」と謝った。
「約束どおり、タクシーを呼びます。ごめんね、ちゃんと家まで送ってあげたいけど、飲んじゃったから車を出せない」
からめた指を優しくほどいて、長谷さんは上着のポケットに手をやった。スマホを取り出し、電源をオンにする。かすかに振動音がして、暗い中に画面がぼうっと浮かび上がった。
さっきまで理香に触れていた長い指。その指が液晶の上をすべり、電話帳をスクロールさせる。やがて指は、探していた番号を見つけたらしく、動きを止めた。
「寒いでしょう。たぶん、そんなにはかからないと思うから──」
「待って」
発信ボタンに触れようとした長谷さんの腕に、理香は思わず手を伸ばした。ジャケットの袖をぎゅっと握って引っ張る。
「理香さん?」
「もう少しだけ」
小さな声で言った理香を長谷さんが黙って引き寄せた。
玄関のドアの内側に人の気配はなかった。
──離婚?
自分にとって都合のいい、そして長谷さんにだけは絶対に知られたくない、まるで人の不幸を喜ぶかのような醜悪な考えが頭に浮かんで、そんなはずはないと思い直す。だって、この人は、打ち上げに誘われても断って、中学一年生の娘さんを塾に迎えに行き、自宅で夕食をとる優しい夫なのだから。
胸がぎゅっとなった。同時に罪悪感がこみ上げてくる。
──それでもいい。束の間でも、この人と心を通わせ、触れ合うことができるなら、何だって構わない。
廊下の明かりをつけ、先に立って歩く長谷さんの背中を見ながら、穢れた心でそんなことを考える。
年代を感じさせる外観にそぐわず、家の中は現代的だった。いかにも上質な素材のフローリングと、庭に向かって大きく取られた窓。おそらく“リフォーム”ではなく“リノベーション”というのだろう。
「どうぞ」と勧められて、理香は遠慮がちにソファに腰かけた。
「コーヒーでいい?」
長谷さんは言って、きれいに片付いたリビングの奥、使い勝手のよさそうな大型のキッチンに向かった。ビルトインの浄水器から水を汲み、コーヒーメーカーをセットする。
そのまま並んで座り、コーヒーが沸くのを待った。静かな部屋の中にコーヒーメーカーが立てるこぽこぽという音だけが響いた。
この夜の先にあるものを、二人とも知っていたと思う。目を上げると、長谷さんが理香を見つめていた。視線がからむ。そのまま目が離せなくなった。
どちらからともなく、顔を寄せた。
それでも、唇が触れ合うまでは、お互い少しの迷いがあったと思う。でも、いったん触れてしまったら、とまらなくなった。妻帯者だということも、ここが彼の自宅だということも、何もかもどうでもよくなる。
無言のまま、何度も何度もキスを繰り返した。わずかな隙に息を継ぎ、離れている時間を惜しむかのように、また触れ合う。
気がついたら、頭の下にソファの革の座面があった。下から見上げる長谷さんは、とてもきれいだった。白いボタンダウンのシャツの襟もとから、わずかに鎖骨が見えている。男の人のことを色っぽいと思ったのは初めてだった。
──奥さんがいる人だ。娘さんも。ばかなことしちゃだめ。
自分に言い聞かせようとするけれど、深く触れ合いたいという欲求にあらがえない。
長谷さんが、まるで大切なものに触れるかのように、指先で理香の頬をなぞった。それだけで、好きだと思う気持ちがこみ上げてくる。この人が欲しい、今、欲しい。
理香の頬を包み込む大きな手。その手にかすかに力がこもり、もう一度、唇を触れ合わせた。
「ごめん」
一瞬、何のことか分からなかった。長谷さんが身体を起こそうとして初めて、組み伏せられていたことに気がついた。
「ううん」
理香は彼の背中に腕を回した。見た目よりも厚みがある身体。重さが、むしろ心地いい。離れてほしくない。理香に誘われるように、長谷さんがさらに深く覆いかぶさった。耳たぶにキスを落とし、そのまま、唇で首筋をなぞっていく。
「あ──」
思わず、小さな声が漏れた。長谷さんが苦しげに息を吐き、耳もとでささやいた。
「寝室に」
長谷さんは首筋にもう一度キスをし、今度こそ身体を起こした。理香の背中に手を回して抱き起してくれる。理香は、いつの間にかはだけていた胸元を合わせた。
そのまま優しく抱きかかえられるようにして、居間を出た。
明かりをつける余裕もなく、暗い廊下を進む。頭がぼうっとして、足もとがおぼつかない。
長谷さんがドアを肩で押すようにして開けると、窓から差し込む街灯の明かりで、ダブルサイズのベッドが見えた。これからしようとしていることを突きつけられたような気がした。
──こんなこと、しちゃいけない。
しかも夫婦だけの場所で。理香は、ほとんど残っていない理性を懸命にかき集めた。
「すみません、やっぱりだめ──」
「だめ?」
聞き返されて、いやいやをするように首を横に振る。
「いや?」
「いやじゃない。でも」
「でも?」
「だって」
「何?」
自分がしようとしていることが怖くてたまらない。けれど、奥さんが、という言葉をどうしても口に出すことができない。
「だめです──」
「どうして?」
長谷さんが余裕のない声で言う。理香の背中から腰へ、指が身体のラインをなぞっていく。そうする間に、彼の指がファスナーを探り当てた。
「僕は、君が好きです。君が欲しい」
心と身体は間違いなくつながっている。ストレートに求められて声が出そうになった。
長谷さんが、ぎゅっと理香を抱きしめ、長く息を吐いた。懸命に自分を押さえようとしているのが伝わってくる。
「でも、君が同じ気持ちでないなら、やめる。だから、そう言って」
理香は口をつぐんだ。こんなにこの人のことを求めているのに、言えるわけがない。黙ってしまった理香に、彼が低い声で確認した。
「──いい?」
──もう、だめだ。
どうなってもいい。覚悟して小さくうなずいた次の瞬間、視界が回転した。
長谷さんは、激しくて、優しかった。長谷さんが与えてくれる全部が甘く、そして熱くて、愛されるというのは、きっとこういうことなんだろうと思った。
やわらかく包み込んでくれる、温かな手。これまでに経験したことがないほど、丁寧に大切にいとおしんでくれる。身体中にキスを落とす。でも。
──長谷さん、わたし、知っているんです。
愛しい人と今まさに愛し合っているのに、そのことを思うと涙がこぼれそうになった。
家族がいる人だなんて知らなければよかった。そうしたら、少しの間だけでも、幸せな勘違いをしていられたのに。
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