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 真夜中というには遅く、けれど、明け方というには早すぎる時間に目が覚めた。  長谷さんは、背中から理香の身体に腕を回し、髪に顔をうずめるようにして穏やかな寝息を立てていた。理香のうなじの辺りに唇が触れている。  シーツの上に、白い光の帯が落ちている。沈み始めた月が、窓にかかるブラインドの隙間からのぞいていた。  大好きな人の顔を見たくなって、理香は、彼の腕の中で身をよじった。  薄明りの中で眠る長谷さんを、息を殺して見つめた。愛しさと切なさが同時にこみ上げてくる。どんなに好きでも、一緒にいる未来を夢見ることはできない人。でも、今だけは──。  理香は、長谷さんの唇の端っこにそっとキスをした。 「ん?」長谷さんが半分眠ったまま、理香を抱き寄せた。「なに?」  眠くて目が開けられないらしい。無防備な姿が妙にかわいく見えた。 「のどが渇いて」  単なる言い訳だったはずなのに、実は本当にのどが渇いていることに気がついた。 「みず、れいぞーこ」 「もらいますね」 「ん。すぐもどってきて──」  言いながら眠り込んでしまった長谷さんの腕の間から抜け出し、床に落ちていた彼のシャツを羽織った。ほかに人がいないのは分かっているけれど、何も着ずに部屋の外に出る勇気はない。  長谷さんを起こさないように、そうっとドアを開けて廊下に出た。ベッドの中ですっかり温まっていた足に、フローリングの床がひんやりと冷たく感じられた。  長谷さんのシャツは理香には少し大きくて、手の甲の半分くらいまで袖に隠れてしまう。理香は、自分で着たまま、シャツをぎゅうっと抱きしめた。  身体の内側にも外にも、そこら中に長谷さんの感触が残っている。まだ彼に触れられているような気がした。涙が出そうだけれど、幸せだからなのか、それとも不幸だからなのか、自分でも分からない。  薄暗い廊下を抜けてリビングに足を踏み入れた。少しぼんやりしたまま、ソファの脇を通り過ぎてキッチンに立つ。それから、教わったとおり、冷蔵庫の扉を開けた。  暗闇に慣れた目に、人工的な白い光が一瞬だけまぶしく感じられた。扉に手をかけ、冷蔵庫の中をのぞき込んだところで、理香は動きを止めた。  そこは、がらんとしていた。まるで電器屋さんの展示品か何かみたいに。入っているのは、ミネラルウォーターの透明なペットボトルが二本と、コーヒーの粉、それに、青いパッケージのプレーンヨーグルトが一個だけ。食材どころか調味料すら見当たらない。  理香は、とまどいながら、中身が少しだけ減っているペットボトルをドアポケットから取り出し、キッチンのカウンターの上に置いた。  よく見ると、キッチンには料理をしている形跡が見えなかった。カウンターの上に載っているのは、コーヒーメーカーと湯沸かしポットだけで、ふきんも鍋もフライパンも、何もない。  理香は、カウンター越しに、改めてリビングを見渡した。窓からの光だけでも、生活を感じさせるものがほとんどないのが見て取れた。きれいに片付いてはいるけれど、どことなく寂しい光景に違和感を覚えた。 ──子どもがいる家の風景じゃない気がする。  中学生だった頃、実家はどんなだったろうと思い返してみる。教科書や読みかけの本を居間に置きっぱなしにして、母によく小言をもらっていた。自分の部屋ではなくリビングで宿題をすることも多かったから、しまい忘れたプリントや筆記具がテーブルに載っていることもあった。  理香は、もう一度、キッチンの内側に目を向けた。冷蔵庫の灰色のドアが無機質な存在感を放っている。  実家では、あそこに赤いキッチンタイマーがつけられていた。それに、学校の行事予定表と、母が新聞から切り抜いたレシピ。カウンターの端っこには、理香が好きなお菓子や果物がいつも何かしらストックされていた。生まれ育った家の記憶とともに、母のことが大好きだったかつての自分がよみがえってきて、苦い気持ちになった。  理香は、何も貼られていない冷蔵庫の扉を見つめた。 ──家族は? どこにいるんだろう。  住んでいる人の気配が感じられない部屋。もしかしたら、不在なのは今日だけじゃないのかもしれない。そんな考えが頭をかすめた。  急に寒さを感じた。一人でいたくない。長谷さんのぬくもりが恋しい。 ──早く戻ろう。  温かいベッドにもぐりこんで、長谷さんに包まれたい。あの優しい手で抱きしめられたい。望むのはそれだけだ。今は、何も考えない。それでいい。  理香は、グラスを借りようと食器棚に歩み寄った。ガラスの扉を開けて、ちょうど目の高さに置かれているグラスを手に取る。  そして、それを見つけた。  グラスの一つ下の棚に、お茶碗が並んでいた。藍色の柄が入った男性用の茶碗の横に、少し小ぶりの朱色の茶碗。その隣に、かわいらしいうさぎの絵がついた、小さな、小さなお茶碗が置かれている。  血が引いた気がした。  分かっていたことだ。分かっていて、それでも長谷さんとこうなることを望んだ。それなのに、やっぱりどこかで自分に都合のいい期待をしていた。  手に力が入らない。グラスを落とさないように、カウンターの上に置いた。ひどくみじめな気持ちで、長谷さんのシャツの裾を握りしめる。家族から大事な人を奪おうなんて思わない。それでも、抱きしめられたいと思う。強く──。 ──部屋に戻ろう。長谷さんのところへ。  もう、それだけしか考えられなかった。力なく顔を上げ、ドアに向かおうとした時、食器棚の脇の壁にとめられているものに気がついた。よせばいいのに、理香はふらふらと壁に近づいた。  それは、文字だけのシンプルなカレンダーだった。二か月おきにめくっていくタイプのもので、なぜかもう、三月と四月のページが出ている。見ると、長谷さんの字とは違う女性らしい筆跡で、家族の予定がちりばめられていた。人のプライバシーをのぞくようなことをすべきではないと思うけれど、目をそらすことができない。 ──四月七日、木曜日。“あかね入学式”。  長谷さんの娘さんの名前が分かった。胸がつぶれそうだ。 ──四月十一日、月曜日。“給食スタート”。 ──四月二十六日、火曜日。“貴文さん誕生日。おめでとう!”  もう見るべきではないと思うのに、目が日付の先を追ってしまう。そうして、四月の終わりに、その文字を見つけた。 ──四月三十日、土曜日。“予定日”。  気がついたら、暗い中にぼんやりと立ってカレンダーを見つめていた。呆然としたまま、見間違えようもない三文字にそっと手を伸ばして、紙の感触を確かめる。  予定日──。  ああ、だからきっと奥さんが不在なんだ、と空虚な心で思う。いないところを見ると、娘さんも一緒なのかもしれない。  少し早いような気もするけれど、里帰り出産だろうか。そして、奥さんがしばらくいないから、安心して理香を誘ったんだろうか。  一方で、ちがう、と懸命に主張する自分がいた。長谷さんは、子どもが生まれるというのに、奥さんがいないのをいいことに誰かと遊ぼうなんて考える人じゃない。 ──じゃあ、どんな人なの?  いじけた心の意地悪な問いかけに、ちゃんと答えることができない。足下がずぶずぶと崩れ、どこか暗い場所へと沈んでいく。理香はしがみつく場所を懸命にさがした。  きっと仲のいい家族なのだろうと思う。でなければ、奥さんが長谷さんの誕生日をこんな風にメモしたりするはずがない。  もしかしたら、長谷さんは、落ち込んでいる理香に同情するうちに、うっかり流されてしまったのかもしれない。だって、優しい人だから。  思いついてみれば、それが答えなのだという気がした。四月二十六日の欄を見つめる。“貴文さん”。一度でもいいから、そう呼んでみたかった。 ──ここにいちゃいけない。  ふいに思った。 ──早くいなくならなくちゃ。誰にも知られないうちに。  大変なことをしてしまったという思いが、心を支配する。頭がぶわっと熱くなって、がんがんした。それなのに、手も足も冷たく湿っている。どす黒い現実感が胸の底から沸き上がってきて、息が苦しくなった。 ──急がないと──。  焦りで、ほかに何も考えられない。理香は、強張った手足をどうにか動かして、廊下に出た。  寝室のドアをそうっと開けて室内に滑り込むと、目の前の床に脱ぎ捨てたままの服が散らばっていた。息を殺し、音を立てないように注意しながら、大急ぎで服を拾い集めた。  最後に理香は、服を手に抱えたまま、ベッドサイドに立って大好きな人を見つめた。  月明りの下、長谷さんは、さっきとほとんど変わらない姿勢で眠っていた。理香が抜け出した時のまま、腕まくらをするみたいに、ベッドの空いた側に右腕を投げている。 “ここにおいで”  さっきまで理香に触れていた手が、そう言っているように思えた。ふらふらと近づきたくなるけれど、自分が入り込んでいい場所ではないのだと、ただそれだけを自分に言い聞かせる。 ──ちゃんと目にやきつけておこう。  この人と一緒にいられるなら、どうなっても構わない。でも、長谷さんの本当に大切な人達を傷つけてまで、自分のものじゃない場所に居座ることなんてできない。  理香は、無意識に、空いている手を長谷さんの前髪に伸ばした。触れる直前で我に返り、その手を引っ込める。それから、足音をしのばせて部屋を出た。  夜明け前の住宅街を駅に向かって走った。  冷たい風にコートの裾がひるがえり、足もとにからみつく。見ると、一番下のボタンを留め忘れていた。あわてて飛び出してきたせいだ。  誰もいない街の隅っこで立ち止まり、ボタンを留める。何てことをしてしまったんだろう。そう思うと指が震えた。  まだ暗い街。交差点の向こうで、信号だけが生き物のように赤く点滅している。  理香は、また走り出した。とにかく早く、ここから離れたかった。長谷さんに迷惑をかけないように。そして、汚い自分を誰にも見られないうちに──。  駅の構内に入り、発車時刻を確認しようとして愕然とした。案内表示は黒く沈黙していた。時計を見ると、まだ四時半だ。考えてみれば、こんな時間に列車が動いているはずがない。 ──わたし、何やってるのかな。  理香は肩を落とし、駅前広場のタクシー乗り場に向かって、とぼとぼと歩いた。涙がこぼれそうになる。後悔なのか、欲しい人が絶対に手に入らないことへの悲しみなのか、自分でも分からない。  理香は口もとを引き結んだ。こんなのは醜い自己憐憫にすぎない。長谷さんの家族の側からすれば理香は加害者だ。加害者に泣く資格なんてない。  目を上げた時、通りの向こうに見覚えのある人影を見つけて、理香は立ちすくんだ。見間違えようもない、特徴のある髪型──。  相手もほぼ同時に気がついたらしい。  研さんは、理香に向かって大きく手を振り、向かい風に首をすくめるようにして、理香の方へ渡ってきた。逃げる間もなかった。 「理香ちゃんに似てんなあって思ったら、まさかの本人だった」研さんは小さく首をかしげた。「こんな時間に、どしたの? 家、この辺だったっけ?」  理香は内心の動揺を懸命に隠して、ほほえんでみせた。長谷さんのためにも絶対に知られるわけにはいかない。大急ぎで頭の中で別の話を組み立てる。 「あの、友達が住んでるんです。久しぶりに会ったら、長居しすぎちゃって。今からタクシーで帰ろうかと──」  つい早口になってしまう。しまったと思いながら、どうにか逃れようと付け加えた。 「研さんこそ、こんな時間に何をしてるんですか」 「オレは今まで事務所にいた。この仕事、朝も夜もないからさ。納期が一番、残りは二番」研さんは歌うように言って、真面目な顔になった。「こんな時間に帰るなんて、危ないなあ。そういう時は、朝まで置いてもらいなさいよ。おじさん、心配しちゃうよ」  理香の顔をじっと見る。何もかも見透かされそうな気がして怖くなった。目を伏せたものの、少し遅かったらしい。 「理香ちゃん、なんか目が赤くない?」 「そうですか? 風が冷たいからですよ。目にしみません?」  足下に目を落としたまま言う。研さんの顔を見ることができない。ちゃんと自然に聞こえただろうか。 「──長谷さあ」いきなり言われてびくっとした。「この辺に住んでるんだよね。知ってる?」 「知りません」  即答したのに、見抜かれた。 「隠さなくてもいいじゃん。別に悪いことじゃないし」 「悪いことですよ!」  研さんの言葉に驚いて、思わず強い言葉が出てしまった。すぐに、しまったと思う。これじゃあ、自分から話してしまったのと同じだ。こんな汚い話、誰にも知られたくなかった。長谷さんにも迷惑をかけてしまう。  理香は半泣きになりながら、逃げ場をさがして視線をさまよわせた。 「悪いことじゃないよ。長谷にとっても」  いつになく静かな声が頭上から降ってきた。日頃の研さんからは想像もつかない暗い口調に、理香は初めて研さんの目を見た。研さんは、感情が読めない口調で続けた。 「よかったら、ちゃんと考えてやって。──あ、タクシー来たよ」  研さんは歩道の端っこに立ち、近づいてくるヘッドライトに向かって右手を上げた。
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