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空が青かったことを覚えている。
大学四年生だった理香は、その日、パスポートの申請に必要な書類をもらうために区役所を訪れた。少し冷たくなり始めた風が、歩道を歩く理香のスカートの裾を揺らした。目を閉じれば、秋のはじめの空気の匂いまで思い出せそうな気がする。
大学卒業に必要な単位は、前期までにほぼ取り終わっていた。卒論の提出が終わったら、同じ学科の友人たちと卒業旅行に行こうと計画していた。行き先は、パリ。
『英文科なのに、わざわざフランスに行くのって変だよね?』
格安旅行のパンフレットを見ながら、みんなで笑って話したことを思い出す。
旅行代金は、塾講師のアルバイトで貯めた。心配性の両親には、旅行の手配が済んでから言うつもりだった。
両親は、娘を海外に行かせることには乗り気でないらしく、大学主催の短期留学プログラムにすら参加させてもらえなかった。だから、きっと反対されるだろうとは予想していた。でも、旅費を出してもらうわけでもないし、少しくらいの反対なら押し切ってしまえばいい。そう思っていた。無邪気な過去の自分がうらやましくなる。
区役所に足を踏み入れたのは、記憶にある限り、あれが初めてだった。
広々としたフロアに水色の待合イスが並んでいた。理香は、ロビーの入り口で立ち止まり、緊張しながら、窓口の上の案内表示に目を遣った。転入転出の届出、住民票の写しの交付、印鑑証明──。いくつもの中から目的の窓口をさがして目をさまよわせていると、女性に声をかけられた。
『本日はどのようなご用件ですか?』
女性の腕には「フロア案内」と書かれた黄色い腕章があった。母とそう変わらない年齢に見えた。理香は少しほっとして、取りに来た書類を告げた。
『あの、戸籍抄本がほしいんですが──』
“戸籍の個人事項証明書(戸籍抄本)”。都のホームページには、そう書かれていた。正確に言わなければいけなかっただろうかと心配になったけれど、女性はにっこり笑って記載台に案内してくれた。
台の上に固定されているプラスチックのケースから用紙を取り、理香の前に置いてくれる。
“戸籍に関する証明書交付請求書”──。
『ご自分の分だけでいいんですね?』
『はい。あの、パスポートの申請だと、それでいいんですよね?』
心配になって尋ねた理香に「大丈夫ですよ」と安心させるように言い、「“個人事項証明書”に丸をつけて、申請理由の欄の“パスポート申請”にチェックを入れてね」と丁寧に教えてくれた。
『分からないことがあったら、声をかけてくださいね』
親切な案内人さんはそう言ってフロアの中央に戻っていったけれど、実際には難しいことなんて何もなかった。書類の「本籍地」の欄に自宅の住所、「戸籍の筆頭者」に父の名前を書いて、窓口に提出する。身分証明書を求められたので、学生証と健康保険証を提示した。
理香は母の健康保険に入っていたので、保険証にも母の名前が書かれていた。父は経営者の側だから、その方が便利なのだと、今思えばよく分からない理由を聞かされていた。
慣れない手続きに緊張しながら、カウンターの向こうで担当の男性が端末を操作するのを見つめた。ずいぶん時間がかかっている。申請書と端末の画面を何度も見比べる様子に何か問題でもあったのかと心配になってきた頃、ようやく担当者が目を上げた。
『申し訳ございません。申請書の内容に間違いはないでしょうか』
担当者は慎重に口にした。
『え?』
『記入いただいている内容を再度ご確認いただけますか』
『あの、それは、どういう──』
心底戸惑っている理香に向かって、担当者は一瞬だけ口を引き結び、それから言いにくそうに小声で付け加えた。
『この内容では該当がありません』
意味が分からなかった。理香は差し戻された申請書を受け取り、ふらふらと記載コーナーに戻った。嫌な予感がした。もう一度申請書の書式を見直してみる。間違っている可能性があるとしたら──。
──本籍地か、筆頭者の名前?
父と母は、結婚した当初から今の家に住んでいると聞いている。だから、本籍地は今の住所で間違いないだろうと思う。じゃあ、違っているのは筆頭者氏名? いや、これも、普通に考えて父だろう。
まとまらない頭で考えていると、さっき窓口で提示してから手に握ったままだった健康保険証が目に入った。母の名前の下に、理香の名前が記されている。
──もしかして、婿養子とか?
自分で思いついておきながら、まさか、と思った。そんな話は聞いたことがない。けれど、ひらめいた考えを試してみる気になった。
もはやパスポートが取れるかどうかなんて、問題じゃなかった。父がいて母がいて、娘の自分がいる。それは間違いようがないことだったはずなのに、自分の存在が急に不確かになってしまったみたいで気味が悪かった。
新しい申請用紙を手に取り、もう一度さっきと同じ内容を書き込んだ。ただし、戸籍の筆頭者の欄には母の名前を記入する。
おそるおそる窓口に差し出した申請書は、今度は差し戻されなかった。自分で書いて提出したくせに、あっさり受理されたことに驚いたものの、ちゃんと戸籍があることが分かってほっとした。
──お父さん、婿養子だったんだ──。
婿養子が悪いなんて全然思わないけれど、びっくりしなかったと言えば嘘になる。
──何で話しておいてくれなかったのかな。
溺愛する娘の前で父親としての威厳を保ちたかったのだろうか。でも、父が、そんな小さなことを気にするとは思えない。
詳しい事情は家に帰ってから尋ねるにしても、何だか腑に落ちなかった。それに、なぜ戸籍抄本を取ったのか、そこから説明しないといけないことを思うと、何をどう話せばいいのか、思考能力を超えてしまいそうだった。
待合のイスに腰かけて、自分の番号が表示されるのを待ちながら、ぐるぐると考える。そのうちに、手に握りしめていた番号札と同じ数字が掲示板に表示されて、理香は「交付」と書かれた窓口に向かった。
手数料を払い、受け取った書類に目を落としたところで、理香は凍りついた。
戸籍の筆頭者は、予想したとおり「山村佐都子」となっていた。でも、問題はそこではなかった。母の名前の下に、理香の名前と生年月日が記載されている。その次に、父と母の名前が並んでいた。そして──父の名字は「山村」ではなかった。
『大丈夫ですか?』
カウンターの向こうから声をかけられて、理香は我に返った。呆然としてしまっていた。
『すみません、大丈夫です』
どうにか笑顔をつくってみせ、さっきまで座っていた椅子のところまで、よろよろと戻った。へたり込むようにして腰を下ろし、手の中の書類をもう一度開いてみる。
初めて見る書類だし、見間違えたのかもしれない。そう期待したけれど、見間違いなんかじゃなかった。見慣れた父の名前の前に、見たこともない名字がついていた。
“曽根崎賢一”──。
理香は信じられない思いでその名前を見つめ、それから、用紙のさらに下に目を遣った。「身分事項」の最初の欄に「出生」とあり、出生地や届出日が書かれている。届出人は、母。でも、次の欄を見たら、そんなことはどうでもよくなった。
“認知”。
自分に関係があるとは思いもしなかった文字が、はっきりとそこに印字されていた。
認知者は見慣れない名字の父。認知者の戸籍として、横浜のどこかの住所が記載されていた。
──訳が分からない。
その言葉で自分を煙に巻いてしまおうとしたけれど、できなかった。区役所の正式な用紙に印字された文字が意味するところは一つしかない。
──父と母は、夫婦じゃない。
パニックになりそうな自分を懸命に押さえつけて、その先を考えた。動悸が止まらない。
夫婦別姓のための事実婚? きっと違う。会社ではどうだか知らないけれど、普段、父は普通に理香と同じ苗字を名乗っている。それに、別姓にしたいだけなら本籍地まで別にする必要はないはずだ。
どうあがいても答えは一つしかない。「認知」という言葉から普通に考えること。
──お父さんには、別の家庭がある。
父は、たまに出張がある以外は、毎日ちゃんと家に帰ってくる。土日だって家で過ごしている。ごく普通のお父さんだ。少なくとも今まではそう信じて疑ったことなんてなかった。
でも、たった一枚の紙が、絶対の事実を告げていた。
──浮気相手を選んだっていうこと?
奥さんがいるのに、その人を置いて? まさか、あの父がそんなことをするだろうか? そして、母が、奥さんがいる人と不倫をした上に、その人を奪い取ったりするだろうか?
どうしても信じられなかった。
目を上げると、カウンターの上の表示が目に入った。しばらく迷ったものの、理香は立ち上がり、さっきのフロア案内の女性におずおずと声をかけた。
『あの、住民票って、どんなことが書かれているんですか?』
『住民登録の内容ですね。ご住所とお名前、生年月日、それに、転入された日付とか、そういった内容です』
丁寧に教えてくれる。その目に気遣わしげな色が浮かんでいた。申請されますか、と確認されてうなずくと、再び記載コーナーに案内された。申請書の用紙を出してくれる。
しばらくして受け取った住民票の写しには、ちゃんと父の名前があった。父が世帯主で、母と理香も同じ一枚の紙に記載されている。
自分の家族が架空の存在ではなく、行政機関に世帯として登録されていることに、少しだけほっとした。けれど、父の名字はやっぱり一人だけ違っていて、母の続柄も「同居人」となっていた。
父は、理香の出生届が提出されたのと同じ日に、横浜から転入していた。そのことが何を意味しているのかに気づいた時、息が止まりそうになった。父が、浮気相手を選ぶ決断をした理由──。
──わたしが生まれてしまったからだ──。
そこまでにすればよかったのかもしれない。でも、知ってしまったからには、どうしても最後まで確かめずにいられなかった。
横浜に着いた時には、日暮れが迫っていた。
住民票の写しには、以前の父の住所がちゃんと番地まで載っていた。電車を乗り継ぎ、スマホの地図アプリを頼りにたどりついたそこは、戸建ての住宅街の中にある、ごく普通の一軒家だった。
家の奥のどこかに、小さく明かりが灯っていた。理香は、家の前の道路に立ち、門扉のすぐ脇に取り付けられた表札を眺めた。
「曽根崎」。
衝動的に来てしまったものの、着いてからのことは何も考えていなかった。まさか、インターホンを押して、父の家なのかと尋ねるわけにもいかない。
『うちに、何か用ですか?』
振り向くと、真面目そうな男の子がすぐ後ろにいて、理香を見ていた。理香と同じくらいの年齢に見えた。父によく似ていた。それだけでなく、理香自身にも。
『いいえ。──すみません』
相手が目を見開いた。理香が思ったのと同じことに気づいたのかもしれない。理香は、小さく会釈をして、背中を向けた。
『待って』
背後から呼ぶ声が聞こえたけれど、理香は気づかなかったふりをして、そのまま歩き続けた。
あの日、世界は、それまでとまったく違うものになった。
家に帰るとすぐに、理香は両親を問い詰め、すべてを聞き出した。理香の想像は間違っていなかった。
負い目が大きかったのだろう、父は、妻と息子の生活費をほぼすべて負担していた。そして、息子が大学を卒業するのと同時に離婚する約束ができていた。半分だけ血がつながった兄は、理香と同じ大学四年生だった。つまり、父が家族を置いて家を出た時、まだ一歳にもなっていなかったということだ。
人を傷つけ、幸せを奪い取って生まれてきたくせに、ぬくぬくと愛されて何も知らずにいた自分が許せなかった。こんな自分が教師になんてなっていいはずがない。単純にそう思った。
アルバイト先の学習塾に就職することを決め、両親が住むマンションを出た。卒業旅行のために貯めたお金は引っ越し費用に消えた。
今こうして、一人暮らしの小さな部屋の明かりを消し、ベッドに横たわっていると、記憶も感情も、いろんなものがごちゃまぜになって押し寄せてくる。
窓越しに風の音が聞こえる。虚ろで寂しい夜の音──。
胸のあたりが苦しくなって寝返りを打った。長谷さんの温もりを思い出し、手のひらをお腹に当ててみる。
あの夜、長谷さんは無茶なことはしなかった。それに、日付から考えても可能性はほぼないと思う。
でも、ゼロじゃない──。
もし、妊娠していたら。たぶん、迷うことはない。長谷さんに似た面差しの子どもを授かることができるなら、きっと喜んで産むだろう。男の子でも女の子でも、大事に慈しんで育てる。
ああ、そうか、と初めて思った。
奥さんがいる人を好きになった上に、その人の子どもまで産んだ母。一体なぜそんなことになったのか、ずっと疑問だったけれど、初めて理解できた。
両親、少なくとも自分の母親みたいにだけはならない。ずっとそう思ってきたはずなのに、やっぱりわたしは、あの母の娘だということなんだろう。
──それでも、わたしは母とは違う。
理香は唇を引き結んだ。涙が静かにこぼれた。
──あの優しい人を、家族から奪い取ったりしない。それだけは絶対にしない。だから、もう二度と会わない。絶対に会わない──。
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