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「早瀬さん、すっかり馴染んでるみたいで安心しました」
スクールソーシャルワーカーの野中さんが、小会議室のパイプ椅子に腰を下ろし、理香に向かって嬉しそうに口にした。
区民センターでは、今日も学習会が開催されている。野中さんは、ついさっきまで、隣の大会議室でその様子を見学していた。
「大人しい子だし、初めての場所だしで、春先に連れてきた時は、かなり心配していたんですが、思ったよりずっと生き生きしてました。こちらにお願いしてよかった」
「そう言っていただけると嬉しいです」
野中さんは笑ってうなずき、「あ、そうだ」と思い出したように言って、隣の椅子から書類カバンを取り上げた。「忘れるところでした。今日来たついでと言いますか、実は、お知らせしたいことがあってですね」
「何でしょう」
今後の予算のことだろうか、と心配になった。
区役所からの補助金は、なくてはならない財源だ。まだ七月だから、来年度の予算の話が出るには時期的に早すぎる気はするけれど、予算縮小の可能性があるのなら早めに対策を考えないといけない。
野中さんは理香の表情を見て、あわてて「いや、悪い話じゃないです」と続けた。「実は、新しく、子どもの居場所づくりの事業が始まることになりまして」
「そうなんですか?」
理香は、思わず声を上げた。野中さんは、「そうなんですよ」と嬉しそうに言った。
「来月から実施団体の募集が始まります。AFFさんには、区役所の担当者から直接説明があると思いますが、『子ども食堂』的な要素も含む内容になっています」
言いながら、野中さんは“募集要項”と書かれた書類を机の上に置いた。
応募するための必須事項は、子どもへの居場所と食事の提供。共同事業の体裁で、必要な経費の半分を区役所が負担する──。
──やれるだろうか。
個人的には、ぜひやってみたい。でも、人手は? 食材なんかの費用は?
今でさえ、決して豊かな財政状況ではないのに、費用の半分は行政が出してくれるといっても、残りの半分をひねり出すのは簡単じゃない。そのことは、経理を担当している理香が、一番よく知っている。
「あ」
「どうしました?」
「いえ、すみません。ちょっと思い出したことがあって」
フォーラムの時に、長谷さんの紹介で名刺交換した流通大手の担当者と、その後、一度だけやり取りしたメールの内容を思い出した。フォーラムに足を運んでもらったことへのお礼。理香から送ったメールに対して、思いがけず長文で丁寧な返事をもらっていた。
“フォーラムの内容に心を動かされるものがあった”
“応援があれば将来が開ける子どもはたくさんいると思う”
“弊社が協力できることがあればご連絡ください。地域連携の担当部署と協議します”──。
食品スーパーを広く展開している企業。もしも本当に協力が得られるなら──。
どきどきしてきた。でも、理香の一存ではどうにもならない。まずは丸岡先生に相談し、定例会のメンバーで協議する必要がある。それに、人繰りも含めて、継続できる目途が立たなければどうしようもない。
「あの、野中さん」
「はい」
「情報提供、ありがとうございます。検討してみます」
野中さんがにっこりした。「ぜひお願いします」
その時、小会議室のドアがばたんと開いて、沙彩ちゃんが飛び込んできた。
「リカちゃん先生!」
いつものパターンに、野中さんが苦笑いしている。春までと違うのは、沙彩ちゃんの後ろに、野中さん紹介の早瀬ミキちゃんがいることだ。
「リカちゃん、やっぱりイケメンと付き合ってるんじゃん」
沙彩ちゃんは勢い込んで言った。色白の沙彩ちゃんに、夏服のブラウスとチェックのスカートがよく似合っている。長い髪は、三年生になってからずっとそうしているように、今日もきっちり束ねられていた。本人いわく「ダサいけど就職に備えての内申対策」らしい。
「えーと、あの、えっと、その」
突然のことに、しどろもどろになってしまう。その様子を見て、野中さんが「ぷっ」と笑った。
「駅で、すごくかっこいい人と一緒にいるのを見たって、ミキちゃんが。ねー?」
同意を求められて、ミキちゃんはこくこくとうなずいた。野中さんの言葉どおり、ミキちゃんは、この数か月ですっかり学習会に馴染んでいた。そして、全然タイプが違うのに、なぜか沙彩ちゃんになついている。
「どんな人だったか詳しく聞いたら、どう考えても長谷さんじゃん。リカちゃん先生と仲良くくっついてたっていうんだもん」
「くっついたりしてない!」
理香は、あわてて否定した。せいぜい「ちょっと距離が近かった」程度のはずだ。
「結婚すんの?」
「いや、まだ、そこまでは──」
言いかけてはっと気づいたら、沙彩ちゃんが笑っていた。
「ほら、やっぱり付き合ってた」得意気に言って、「ね?」としたり顔でミキちゃんにうなずいて見せる。
「リカちゃん先生って、隠しごとできないよね。それにしても、あー、いいなー、イケメンの彼氏」
──確かに、隠しごとは苦手なのかも。
冬の間にあったことも含めて、何もかも全部、周囲にバレバレだったらどうしようと思うと、ものすごく恥ずかしくなってきた。
「みーつーけーたーぞー」
いきなり背後からかかった声に、沙彩ちゃんがばっと振り向いた。部屋の入り口に、和希ちゃんが仁王立ちしていた。沙彩ちゃんは「げ、まずい」とつぶやいた。
「こら、沙彩。ミキちゃんまで。もう、どこ行ったかと思ったら、二人とも何してんの、こんなとこで」
「だって、リカちゃんったら、イケメンと付き合ってたんだよ!」
和希ちゃんは、ふふん、と笑った。
「今さら何言ってんの。情報、遅いよ。それに、冷やかすなら終わってからにしな」
やっぱり、いろいろとばれているのかもしれない。
「次、数学やるよ。早くおいで!」
和希ちゃんが、二人をうながして会場に戻っていく。振り向くと、野中さんが笑っていた。気まずくてドキドキした。
「彼女、和希さんでしたっけ? 教師を目指してるのかと思ってたら、社会福祉士の資格を取得予定なんだそうですね」
「ええと、はい。そうらしいです」
「教育委員会に来ないかなあ。スクールソーシャルワーカー、向いてると思うんだけど。そのうち、スカウトしようかなあ」
後片付けは、研さんが手伝ってくれた。いつもの手順で窓の鍵を確かめ、電気を消して会議室のドアに施錠する。
閉館間際の区民センターのしんとした廊下を抜け、人気のない階段を研さんと並んで下りた。踊り場のあたりで視線を感じて隣をうかがうと、笑いを含んだ顔でこっちを見ていた。
「どうかしました?」
「いや。長谷とうまくいってるみたいだな、と思ってさ。さっき、沙彩が騒いでた」
理香は、思わず頬に手を当てた。一体どこまで話が広がっているんだろう。
「なんか、安心した」
研さんがぽそっと言った。飾り気のない言葉が心に沁みた。研さんは研さんで複雑な思いがあるだろうと思う。でも、研さんは、自分のことは全部後回しにして、長谷さんのことだけではなく、たぶん、理香のことも気にかけてくれていた。
「いろいろとありがとうございました」
「オレは、何にもしてないよ」
「ううん。長谷さんとのこともですけど、わたしのこと、今だけじゃなくて、ずっと前から心配してくれていたでしょう?」
研さんが「や、いや、まあ、うん」とつぶやき、前よりも小さくなったアフロに手を当てた。照れているらしい。
「まあ、そうかもな。理香ちゃんは妹みたいなもんだから」
──帰省しなかったのか? どっか出かけたか? 寂しくしてなかったか?
ゴールデンウィークも、お盆も、年末年始も、長い休みのあとには必ず声をかけてくれた。
研さんの妹は、もういない。花穂子さんが実家に帰って来ることは二度とないし、会うことすらできない。
今さらどうしようもないことに対していつまでも意固地になって、かといって正面から話をするでもなく、ただ両親を避け続けているだけの自分を情けなく感じた。
「本当の妹だったら、もっとどっか連れて行ってやったり、ゆっくり話を聞いてやったりできたんだけどな」
「そうですね。お兄ちゃんって呼べたのに」
「懐かしいなあ、その響き」
研さんが、からっとした口調で言い、どちらからともなく笑った。
「長谷、元気にしてる?」
「元気です。あ、でも」
「ん? なんかあった?」
途端に心配そうな顔になる。やっぱり“お兄ちゃん”だ。
「いえ、その。別に問題はないんですけど、あの、意外に長谷さんって、こうと決めたら行動が早いというか、さくさく進めるタイプというか、ちょっとびっくりしてて」
穏やかで静かなイメージが強かったので、控え目で大人しい人なのかと思っていたら、そうでもないことが判明した。
「もともとそういうやつだよ。でなきゃ、いくらデザイナーとして才能あっても、独立して自分で経営なんて、できるわけないだろ」
──それは、そうかもしれない。
言われてみれば、最初に会った時も、急に呼び出されて無茶振りをされたというのに、その場で川辺社長に電話して即決していた。それに、ポケットチーフの小川さんが「興味がない仕事は容赦なく断る」と言っていたことも思い出した。
研さんは、にかっと笑った。
「なに? もしかして、沙彩の推測、正解?」
「推測って何ですか?」
おそるおそる尋ねた。さっきまで隣の部屋でどんな会話が交わされていたんだろうと思うと、冷や汗が出る。
「もう結婚の話が出てんだ?」
──するどい。
内心の焦りが顔に出てしまったらしい。研さんは「そっか」と無邪気に言った。「何年もなんて、絶対待たないよ、あいつ。行動力あるし、いけると判断したら遠慮しないから。覚悟しといた方がいい」
エントランスから出ると、ほのかに夏の夜の匂いがした。区民センターの敷地に茂る、木々の緑の匂い──。
研さんは駐車場にちらっと目を遣った。端っこに一台だけ駐車している黒いセダンのヘッドライトがついた。
「お、迎えに来てるじゃん。仲良しだな。よきかな、よきかな」お年寄りめいた言葉が、妙に似合っていた。「オレ、バイクだから、お気遣いなく。また来週な」
研さんは、近づいてくる車に向かって大きく手を振り、二輪車の駐車スペースに向かって歩き出した。
長谷さんのもとへと歩きながら、理香は、三月の終わりのことを思い出していた。
あの日の翌朝、目が覚めたら、長谷さんに苦しいほどしっかりと抱きしめられていた。 ブラインドの隙間から、春の日差しが降り注いでいた。何だかとても恥ずかしくなって、どうにかもがいて腕の中から脱出しようとしていたら、長谷さんが目を覚ました。
長谷さんは、『おはよう』と理香の耳元でささやいて、額に口づけた。
『ちゃんといた』
『いますよ』
『また逃げられていたら、どうしようかと思った。君には前科があるから』
抱きすくめられていた理由が分かった。前科だなんて、あんまりな言い方だけれど、間違ってはいない。
『ごめんなさい。もう逃げません』
素直に言ったら、長谷さんは小さく笑った。肩に回した腕をほどいて、理香の髪の間に指を滑らせる。その手が、とても優しかった。
指が、ほつれた髪を耳にかける。頬を手のひらで包み込むようにして上向かせ、深いキスを交わした。前夜から何度も愛し合った感触が残っていて、触れられるだけで否応なしに反応してしまうのが恥ずかしかった。
初めて二人で迎えた朝。あの時、長谷さんの時間も、理香の時間も、それぞれに止まってしまっていた時が一緒になって、同じ速さで動き出した。
今は、二人でたくさんの話をする。いろんな話をして、少しずつ互いのことを知っていく。その中には、本当に大切なこともあれば、大した意味はないかもしれないけれど、ぎゅっと抱きしめたくなるようなこともたくさんある。
例えば、長谷さんが、本気で寝起きが苦手なこと。
冬が終わる前、様子がおかしいことを心配した研さんに問い詰められて、長谷さんは、理香との間であったことを白状した。寝ている間に理香がいなくなってしまったくだりで、研さんは「何で目が覚めないんだ」と頭を抱えた──らしい。
その教訓から、思いきり抱き締めて眠ることにしたんだと長谷さんは主張するけれど、それは言い訳にすぎなくて、今は、単に二人でくっついて眠る心地よさを楽しんでいるだけのように思える。
それから、長谷さんは、お酒よりも甘いものが好きなこと。
言われてみれば、初めて一緒に食事をした時、長谷さんは、ビールをグラス一杯だけしか頼まなかった。別に弱いわけじゃないけれど、お酒は、食事と一緒に軽く楽しむ程度で十分らしい。一方で、四月の長谷さんの誕生日に、研さんから聞いていたチョコレートをあげたら、プレゼントしたネクタイと同じくらい本気で喜んでくれた。
そして、花穂子さんとは、大学時代、たまたま研さんの実家に立ち寄った時に知り合ったこと。
学生結婚で、卒業してほどなく、あかねちゃんが生まれた。長谷さんは、それ以上のことは語らないけれど、たぶん二人のことを何よりも大事に思っていた。二人がいなくなってしまったあとも、たった独り、三人で暮らした日々を想い続けるくらいに──。
そんな長谷さんのことを、心から愛しいと思う。
すっかり見慣れた黒い車が、理香の前でとまった。助手席のドアを開けると、長谷さんが「お疲れさま」と温かい声で迎えてくれた。
「すみません、おじゃまします」
言ってからシートに座る。シートベルトを締めて顔を上げたら、長谷さんと目が合った。彼は、なぜか楽しそうに理香を見つめていた。
「どうかしました?」
「律儀だな、と思って」
「そうですか?」
「うん。もっと我儘になってくれていいのにって思うけど、そんなところも」
そのあとに、ものすごく甘い言葉が続いて、理香は真っ赤になった。長谷さんは軽く笑い、理香の額に優しくキスして「続きは家でね」とささやいた。
最近、週末はほとんど長谷さんと一緒に過ごしている。金曜日の夜は、こうして車で拾ってくれるか、駅まで迎えに来てくれることが多い。
静かな車内にウィンカーの音がカチカチと響く。駐車場から大通りに出て、車は、ここ数か月ですっかり通り慣れた夜の道を滑らかに走り出した。
助手席からフロントガラスの向こうを眺めているうちに、この人への恋をはっきりと自覚したのも、こうして夜の道を走っている時だったことを思い出した。
絶対に好きになってはいけない相手だと思っていた。助手席に座ることさえ、いけないことみたいな気がした。自分の気持ちが後ろめたかった。
前方の車の赤いテールランプを見ながら、あの頃のことを思い返していたら、長谷さんが前を向いたままで言った。
「忘れないうちに伝えとく。ワークショップの話、受けるよ」
「え? いいんですか?」
理香は、思わず運転席に目を向けた。長谷さんは、前を向いたまま、涼しい顔でハンドルを握っている。
「うん。スケジュールの調整がついた」
AFFの新しい取り組みとして、夏の終わりから秋にかけて、中高生向けのプログラムを行うことになっている。子どもを対象にしたワークショップはいくつもあるけれど、今回の事業がほかと大きく違うのは、苦しい環境にいる子ども優先で参加者を募るという点だ。
『いろんな世界があることを知ってほしい。そして、将来の夢を描いてほしい。そのきっかけをつくりたい』
丸岡先生は、企画の目的をそう語った。それは、関係者全員の想いでもある。
講師は、あらゆる伝手をたどり、いろんな分野で活躍している方々にお願いすることになっていた。候補者は、定例会の中でリストアップした。その筆頭に長谷さんの名前が挙がっていた。
「あの、本当にいいんですか?」
講師はただ当日いればいいというものではない。事前の準備も必要だし、ファシリテーターとの打ち合わせもある。正直、かなりの手間だと思う。加えて、謝礼は交通費程度しか出ない。
それに何よりも、この人は、まさしくデザイン業界の第一線で活躍しているクリエイターだ。普段、そんなことを周囲に意識させる人ではないけれど、実際に仕事を受けてもらえるとなると、畏れ多い気持ちでいっぱいになる。
「自分でオファーしておいて、そんなに驚かなくても」長谷さんは、もっともな言葉を口にした。それから、ちらっと理香を見て苦笑いを浮かべた。「オファーって言えば、そもそも、あの電話は何?」
「いや、ええと、あれはですね」
言われて、ものすごく焦る。理香の言い訳を待たずに、長谷さんは続けた。
「携帯じゃなくて、わざわざ会社にかけてきて、『お世話になっております。AFFの山村です。ちょっとお願いがありまして』って、一体何が起きたのかと思ったよ」
セリフまで、しっかり覚えているらしい。あれは、さすがに変だったかなと自分でも思っていた。お願いだから、もう忘れてほしい。
「だって、公私混同になっちゃいけないかなって思ったんです」
取りあえず言ってみたものの、全然説得力がない。
「他人行儀すぎて、理香とつきあってること自体、僕の妄想なんじゃないかと心配になった」
いつの間にか、長谷さんがハンドルに右手を軽く置いたまま、理香を真っ直ぐに見つめていた。その目が優しく笑っている。あれ?と思って前を確認したら、信号が赤になっていた。
「理香」
長谷さんがささやいた。理香が大好きな手が伸びてきて、頬に触れた。親指が、ゆっくりと唇の端をなぞる。それだけで、しびれたみたいに動けなくなった。うっすらと開いた口元に、長谷さんが唇を寄せた。触れたところから、甘いしびれが広がっていく。
「──よかった。僕の妄想じゃなくて」
長谷さんは言い、もう一度、頬に触れてから、名残惜しげに身体を起こした。それから少し真面目な声になった。
「あと、もう一つスケジュールの話だけど」
「何でしょう」
話の途中で信号が青になり、長谷さんが再びゆっくりと車をスタートさせた。静かな車内に、低いエンジン音とエアコンの音だけが聞こえる。
「ご両親へのご挨拶、いつがいい?」
長谷さんの口から「結婚」の二文字が出る少し前から、「挨拶だけでも早めに行かせてほしい」と言われていた。そんなのいいのにと思うけれど、長谷さんは「きちんとしておきたい」と言う。長谷さんはたぶん自分が初婚ではないことを気にしている。
「ご両親とは三年ぶりになるんだっけ?」
理香はうなずいた。
「ずっとこのままっていう訳にもいかないだろうし、いい機会だと思うよ」
長谷さんには、理香の家の事情を話してある。出生の経緯も、父と母の関係も、全部。それに、大学四年の冬に家を出てから一度しか帰省していないことも、父と母が入籍したらしいことも、たまに母から電話はあるけれど、理香からは一度もかけていないことも──。
その話をした時、長谷さんは途中で口を挟むことはせず、最後まで黙って聞いていた。どんな反応が返ってくるか心配だったけれど、話が終わったあと、ただ理香を抱き寄せ、腕の中に温かく包んでくれた。
「──連絡してみます」
理香は、長谷さんの横顔に向かって言った。正直、実家に顔を見せるのは気が重いとしか言いようがないけれど、長谷さんが言うように、ずっとこのままでいるのもどうかとは思っていた。
「僕も少しは支えになれると思うよ」長谷さんの左手が、勇気づけるように理香の右手をぎゅっと握った。「一緒に帰ろう」
確かに、この人が一緒にいてくれるなら、心が強くなれそうな気がする。
幹線道路をしばらく走り、やがて左折して長谷さんが住む街に入った。金曜日の夜だからだろう、大きな通り沿いの歩道は賑やかで、飲み会帰りと思しき人達があちこちに寄り集まっている。
ファッションビルがある交差点の少し手前で右に折れた。その先には、表通りの喧騒が嘘みたいに、静かな住宅街が広がっている。
車は夜の道をゆっくりと走って行く。ヘッドライトの先にきらっと光るものがあって、思わず目を凝らしたら、白っぽい猫が光の輪の端っこを通り過ぎ、ふいっと背中を向けて誰かの庭へと入っていった。
両側に立ち並ぶ家の一つひとつに、暮らしている人がいる。その誰もが、今この瞬間に幸せならいい、寂しくなければいいと思う。
「こんなふうに一緒に家に帰るのっていいね」
長谷さんがつぶやいた。理香も同じことを思う。
「そうですね、本当に──」
ちゃんと気がついていなかったけれど、たぶんずっと寂しかった。無条件に愛してくれた父と母に一方的に別れを告げ、生まれ育った自宅を離れた。あれから、研さんや、スミレ先生や、和希ちゃんや、丸岡先生や──たくさんの人に出会い、支えられながら今日まで歩いてきた。
でも、それでも、みんながいる場所を離れれば一人だった。きっと、いつも、どこにいても互いを何よりも大事だと思い合える人、そうして、一緒に同じ家に帰る人に出会いたかった。
小さな三差路を左に曲がると長谷さんの自宅が見えてきた。かつてこの家に暮らしていた幸せな家族の記憶も含めて、今ここにある全部がかけがえのないものに思える。
長谷さんが、ガレージのシャッターゲートをリモコンで開け、車を中に入れた。エンジンを切り、理香の膝の上から、学習会の道具が入ったトートバッグを取り上げる。
車を降り、どちらからともなく手をつないで、玄関に向かって歩いた。長谷さんが、取り出した鍵でドアを開け、「ただいま」と声をかけ合って、家の中に入った。
のんびりと寝坊をして、少し遅めの朝になった。
リビングの窓を開けて、陽の光をいっぱいに取り込む。やわらかな初夏の風が部屋いっぱいに吹き込んで、壁のカレンダーを揺らした。シンプルに配置された数字。上の方に「7」という数字が見えている。
洗面所から出てきた長谷さんが、目をぱちぱちさせた。
「この部屋、こんなに明るかった?」
「前にも同じこと言ってませんでした?」
三月の終わり、初めて一緒に目覚めた朝のことだ。長谷さんは、居間に足を踏み入れるなり、「明るいな」と言った。
「言ってた?」
「言ってましたよ」
憶えていないらしく、長谷さんが首をかしげている。柔らかい生地のパジャマと、整えられていない髪が、何だかかわいい。
「いい天気ですね」
「そうだね」
庭に面した掃き出し窓に並んで立ち、外を眺めた。指をからめると、ぎゅっと握り返してくれる。
「カレンダー、今年のに替えたんですね」
本当は、少し前から気がついていた。本来ここにいて、長谷さんと幸せを分かち合っていたはずの人のことを想う。
「うん。こんな時期じゃ手に入らないかなと思ってたら、会社のスタッフが見つけてきてくれた」
理香の感傷に気づいているのかいないのか、長谷さんはあっさり言った。
食器棚に並んでいたお茶碗も、いつの間にか片付けられていた。どこにやってしまったんだろう、まさか気を遣って手放したんじゃないかと心配していたら、引き出しの奥に大切にしまわれているのを偶然見つけて、ものすごく安心した。
カレンダーも、きっとどこかにしまい込まれているんだろうと思う。大切な人が遺した幸せの記録。そのありかを理香が知る必要はない。でも──。
「無理に手放したりしないでね」
「え?」
長谷さんが何のことだろうという顔をしている。
「カレンダーも、お茶碗も。あと──」ほかには、どんなものがあるだろう。「アルバムとか、指輪とか、思い出とか、気持ちとか、全部ずっと持っていて大丈夫だから」
思いつくままに言葉にしたら、変な日本語になってしまった。
「そのままでいいんです。今のままで──大好きですから」
「──うん」
ありがとう、と長谷さんは小声で言って、理香の手を握りしめた。
この手が好きだ。少し筋張った手の甲と、長い指。触れると温かいことを知っている。
名刺を差し出す。紙の上に鉛筆を走らせる。ゆったりとハンドルを握る。グラスを持つ。きれいに箸を使う。髪に、頬に優しく触れる。指をからめる。ちょうど、こんな風に──。
つないだ手を持ち上げるようにして、しみじみと眺めていたら、「どうしたの?」と不思議そうに尋ねられた。
「手が──」
「僕の手が、どうかした?」
「好きだなあ、って思って。すごく」
この手を離さざるを得なかった人のことを思うと、切なさがこみ上げてくる。けれど、長谷さんには言わない。でも、もしかしたら、長谷さんは理香の気持ちなんてとっくに分かっているかもしれない。
長谷さんが、空いている手を口元に当て、下を向いた。
「どうしました?」
「──照れる」
「え?」
「そこまで言われると、さすがに照れる」下から顔をのぞき込むと、かすかに赤くなっていた。見たことのない表情にドキドキした。
「あ、ほら。外見て、外」
言われて、再び庭に目を遣った。気持ちのいい木漏れ日が落ちている。小さく鳥の声がする。でも、風景はさっきと変わらない。
「何ですか?」
「いいから、しばらく違うところを見てて」
「はい」
理香は、明るい庭を見つめ、それから目を閉じた。
心の中に夜の風景が広がっていく。澄んだ静寂の中で、暗い空から雪が落ちてくる。髪に、肩に、ふんわりと白い綿のような小さな粒が積もっていく。でも、寒くはない。つないだ手が温かい。
時々は、どこかで立ち止まることがあるかもしれない。これから先の長い年月の中で、思い悩むことはいくらでもあるだろう。それに、長谷さんも、暗い道を帰りながら、あの学習塾の入り口で足を止めてしまうことがあるかもしれない。でも、わたしたちは歩いていく。
理香は、再び目を開けた。木漏れ日と小鳥の声が戻って来る。
「あの、言い忘れてた気がしますけど」
「今度は、何?」
身構えている長谷さんの姿に笑いがこみ上げてくる。長谷さんは、絶対的な別れを経験している。その喪失感は想像することしかできないけれど、二度と同じ思いはさせない。
「あのね、わたし、意外と丈夫ですから。何十年かは絶対大丈夫です。一人になんてしません」
きっぱり言ったものの、ちょっとオーバーだったかと心配になって「たぶん」と小声でつけ加えた。長谷さんが眩しそうに目を細めた。
「でも、置いて行かれちゃうのも嫌だから、同じくらいまで生きましょう。約束です」
守れるかどうかなんて誰にも分からない、あてのない約束。でも、この人と一緒に、ずっと、この明るさの中で生きていけたらいいと思う。
「分かった。約束」長谷さんは言って、顔をほころばせた。「じゃあ、まずは実家だ。ほら、さっさと電話して」
わざとらしくせかせかと言った長谷さんに向かって、理香は「その前に朝ごはんです」と宣言した。
「牛乳、あったかな」
「なかったです」
「パンは」
「なかったけど、買ってあります。卵も。いつも冷蔵庫が空なんだもん」
「──ごめん」
口では謝っているくせに、目が笑っている。その後ろでカーテンが揺れている。庭のどこかで小鳥の声がする。たわいのない会話が続いていく。
「たまには、カフェでごはんもいいですけどね。よさそうなお店、近くにたくさんあるし」
実際、一人の時は、カフェで軽い朝食をとることが多いらしい。
「──引っ越してもいいよ」
「急にどうしたんですか?」
「新しい場所の方がいいんじゃないかと思って」
長谷さんは、リビングとその奥のキッチンを見渡した。数年前、確かにこの場所にあったはずの家族の姿が見えた気がした。男性と女性と小さな女の子。でも、それは、幼かったころの理香自身の記憶だったかもしれない。
それとも──もしかしたら未来の記憶だろうか。
「引っ越しなんてしなくていいです。貴文さんがしたいなら別ですけど」
「別に引っ越したいわけじゃないけど。──理香は本当にそれでいいの?」
短い問いかけに気遣いがにじんでいた。理香は、素直な気持ちを口にした。
「わたし、ここがいいな」
「そう?」
「うん」
長谷さんが表情を緩めた。有限の時間。その中で交わす言葉の一つひとつが、低くて穏やかな声が、それに、今この場所に一緒にいることそれ自体が、奇跡的で愛おしいことに思える。
ぱさっと小さな音がした。見ると、山紅葉の枝が小さく揺れていた。
「あ、あそこにいたんですね」
「何が?」
「小鳥。さっきから、声がしてました」
「そうだっけ?」
気がついていなかったらしい。
「何の鳥だったのかな」
「きっと、また来るよ」
「そうですね」
揺れる青葉に、陽の光が遊んでいる。夏へと向かう季節の匂いがする。
「朝ごはんにします?」
「──パンと卵しかないけどね」
長谷さんが深刻な口調で言った。理香は笑って、その手を握りしめた。
ー 終 ー
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