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 小会議室のカーテンの隙間から駐車場を見下ろすと、暗い中に数台の車がとまっているのが見えた。夜の空気の冷たさが、ガラス越しに伝わってくる。  理香は、駐車場から区民センターのエントランスまでの間に人影が見えないことを確かめ、続いて、大通り沿いに設置されている「駐車場入り口」と書かれた看板のあたりに目を凝らした。そのまま少し待ってみたけれど、研さんの大型バイクが現れる気配はない。 「やっぱり、電話してみます」  理香は、窓辺から離れて、会議の資料に目を通している丸岡先生に声をかけた。  研さんは、個性的すぎる見た目とは対照的に、何ごとにもきちんとした人だ。これまで連絡なしで定例会に遅れてきたことは一度もないし、ましてや今日は、自分がいなければ始まらない内容だと分かっているはずだ。  バイクに乗っている時に連絡するのもどうかと思って待ってみたけれど、こんなに遅れるなんておかしい。何かあったのかもしれない。  ロの字型に並べた長机のまわりでは、十人ほどのメンバーが、最後の一人を待ちながら雑談をしていた。理香はその外側を回って自席に戻り、机の上から携帯電話を取り上げた。黒い外装に「AFF事務局」と印字されたラベルが貼られている。 ──事故なんかじゃなければいいけど──。  二つ折りの本体を開いてアドレス帳を表示しようとした時、手の中で緑色のランプが点滅した。  何の特徴もない、初期設定のままの着信音が小さな会議室に響いて、全員の視線が一斉に理香に集まった。液晶の上には、今まさに電話をかけようとしていた相手の名前が表示されている。 「研さんからです」  理香は少しほっとして言い、通話ボタンを押した。 ──ごめん、今日、行けない。  電話を耳に当てた途端に、研さんの苦しげな声が飛び込んできた。いきなりの言葉にとまどい、理香は「どうしたんですか」と聞き返した。 ──たぶん、モウチョウ。 「え?」予期しない単語に、思わず大きな声が出た。「モウチョウ、ですか?」  うまく漢字に変換できずに戸惑っていると、電話の向こうでサイレンが鳴り出した。どきっとするほど音が近い。ピーポーピーポーという耳慣れた音をバックに、録音された声が繰り返す。直進します、進路を開けてください、直進します。 「あの、研さん? 大丈夫ですか?」 ──今、救急車の中で──。  研さんは言いかけ、直後に野太いおたけびを上げた。のた打ち回るアフロヘアの大男の姿が浮かんだ。 ──ぎゃー、そこ、そこ、痛いっす。あだだだだだ。 ──血圧を測ります。動かないでください。  研さんの声にかぶせるようにして、男性の冷静な声が告げる。続いて、うめき声が聞こえた。どうやら、電話の向こうでは大変な事態が進行しているらしい。 「モウチョウって、もしかして、盲腸ですか?」  研さんは「うん、うん」と何度も言った。よほど痛いのだろう、涙声になっている。 ──そっちに向かってたんだけど、ダメになった。今日、無理──っていうか、ごめん、当分無理かも──。 「そんなのいいです」理香は大急ぎで口にした。「心配しないでください。大丈夫です、こっちはどうにでもなりますから」  理香の言葉を聞いているのかいないのか、研さんは「本当にごめん」と繰り返した。 ──代理を頼んだから。『急いで行け』って言ったから、すぐ着くはず──。 「代理?」と反射的に聞き返そうとして、とどまった。悠長に話している場合じゃない。「いいですから、こっちは大丈夫ですから、心配しないで」  研さんは「ごめん」と「ありがとう」を交互に繰り返した。そして最後に「うおぉ、いだだだ」という声を残して、電話が切れた。  理香は、携帯電話を手に持ったまま、一同を見渡した。いつの間にか全員が立ち上がり、会話の成り行きを見守っていた。 「研さん、盲腸だそうです。救急車の中からでした」  小児科医のスミレ先生が「盲腸、救急車」とつぶやくように言い、表情を曇らせた。「大丈夫なの?」 「だといいんですが──。かなり痛そうでした。ごめん、って何度も」  そこまで口にしてから、理香は、会議室の一番奥で思案げに会話に耳を傾けている丸岡先生に身体を向けた。 同じ「先生」でも、こちらは医師ではない。同じ沿線にある大学の教育学部の教授で、この会の代表者でもある。五十代半ばの小柄な男性で、真ん丸い眼鏡をかけている。 「パンフレットの件、代理を頼んでくださったそうです」 「代理?」  丸岡先生が首をかしげ、先をうながした。 「詳しく聞けなかったんですが、すぐに着くはずだから、って──」  その時、とんとん、と二回、控え目なノックが響いた。全員が一斉にドアを振り返る。みんなが見ている前で内開きのドアが遠慮がちに開き、隙間から男性の顔がのぞいた。 「こちらは、AFFの会合でしょうか?」ドアのすぐ脇にいる理香に向かって、男性は小声で確認した。「研和臣さんから連絡を受けてうかがったんですが」 「はい、こちらです」  声が裏返ってしまったかもしれない。理香はぱっと立ち上がり、ドアを大きく開けた。 「とにかく急だったもので──。実は、詳しいことを何もうかがっていないんです」  会議室を一回りして名刺交換をしたあと、「長谷デザインの長谷」さんは、研さんが座る予定だった席に腰を下ろし、少しばかり戸惑った表情でほほえんだ。  年代は研さんと同じくらいだろうか。どこを取っても濃いイメージの研さんとは似ても似つかない、涼やかな顔立ちが印象的だ。理香の右斜め前あたり、いつも研さんのアフロヘアがちらちらしている場所に自然な髪があるのが、不思議な感じがする。 「ただ、パンフレットの仕事を受けてくれ、すぐに行ってくれとだけ」  息も絶え絶えでしたから、と心配そうに口にしたところを見ると、かなり親しい間柄なのだろう。  理香は、受け取ったばかりの彼の名刺に目を落とした。 「長谷デザイン 代表 長谷貴文」という文字の下に、アルファベットで「Takafumi HASE」と印字されている。ブルーを基調にした配列はシンプルで、凝っているようには全然見えないのにスタイリッシュだ。こういうのも本人がデザインするんだろうか。  素敵だなあ、と思うのと同時に、少し心配になった。  AFFは、会員の善意と協力だけで成り立っているような団体で、資金は決して潤沢ではない。研さんは以前からこの会に出入りしていて、こちらの懐具合も分かった上で「いいから、任せろ」と言ってくれた。同じ「デザイナー」という人種でも、目の前にいる人は、こういう世界にはそもそも縁がなさそうに見える。 「あの、予算のことは聞かれていますか?」  おずおずと尋ねると、長谷さんは「少しだけ」と目を細めてみせた。「ほぼノーギャラだから、CSR(企業の社会的責任)だと思え、と言い渡されています」  それを聞いてほっとした。研さんは“息も絶え絶え”だったのに、必要なことはちゃんと伝えてくれたわけだ。 「まあ、大仰にCSRというほどのこともない、個人の事務所なんですけどね」長谷さんは理香を安心させるように笑い、それから少し真面目な顔になった。「僕としては、報酬云々よりも内容かと思っています。正式にお受けする前に、詳しく聞かせていただけますか」  丸岡先生が一同を代表してうなずいた。 「じゃあ、まずこのプロジェクトの話をしましょうか。なかなか面白いメンバーでしょう?」  言われて、長谷さんは改めて会議室を見渡した。それから机の上に目を落とし、二列に並べた名刺を眺める。大学教授に小児科医、自治会役員、地場銀行の営業担当者、文具店やドラッグストアのオーナー、それに、中学校や高校の先生方。一般的に見て、めずらしい取り合わせなのは間違いないだろう。 「確かに──」  長谷さんは、眉根を寄せて考え込んでいる。もともとお茶目なところがある丸岡先生は、その反応に満足したらしく、いたずらっぽく笑った。 「ほかにもね、大学生が三十人ほど参加しています」  学生ボランティアの代表として、この会議に出席している和希ちゃんが、丸岡先生の隣で小さく頭を下げた。長谷さんが会釈を返す。 「で、何をしているかというとね。要は、中高生の学習支援です。よりよい形で社会に出ていけるように、確実に卒業できるようにケアすることと、大学に行きたい子に対しては受験勉強のサポート。家庭の事情で、塾に行けない子もたくさんいますから」  丸岡先生は言って、最後につけ加えた。 「AFFってね、”Act for our future(未来のために行動する)”の略なんです」 「──ああ、なるほど」  長谷さんが腑に落ちた顔になった。  もともとは、丸岡先生のゼミに所属する大学生を中心に、この区民センターで、経済的な事情を抱える中高生のための無料学習会を行っていた。理香が、以前の仕事をきっかけにこのプロジェクトを知ったのも、そのころだ。  当時は「やれる人が、やれることをやる」というスタイルで、来られる人が来て勉強を教え、余力があるメンバーが片手間に連絡係や会計係を請け負っていた。でも、参加する中高生が増えるにつれて雑用も多くなり、事務が回らなくなった。  そこで、専従のスタッフ、要は理香を雇用して、特定非営利活動法人の認証を受けることになった。今年の春のことだ。 「まあね、法人とは言っても、専従のスタッフは、こちらの山村さん一人だけで」先生の言葉に、理香は小さく頭を下げた。「あとは基本、ボランティアです。理香先生、写真、あります?」 「──先生?」 「前職が塾講師なんです、英語の」  大学の先生に「先生」と呼んでもらうような経歴ではない。理香は言い訳するように言い、足もとに置いた書類ケースから、今日、研さんに渡すつもりで持参していた写真データのプリントアウトを取り出した。 「普段の活動です」  スミレ先生が隣から手を差し出し、長谷さんに回してくれる。  写真は、ボランティアが中高生たちに勉強を教えている風景だ。会場は隣の大会議室で、スクール形式に並べた長机の思い思いの場所に中高生が座り、大学生を中心に、大人たちが手元をのぞき込むようにして、ほぼ一対一で教えている。うしろから撮影したもので、生徒たちの顔は見えない。  長谷さんは、写真を机の上に並べ、右手を軽くあごに当てて何か考え込んでいたかと思うと、おもむろに口を開いた。会の事業計画から資金繰り、行政との関わりまで、プロジェクトの状況について細かく質問する。  丸岡先生は、活動資金や物品はほぼ寄付でまかなっていること、資金と人手が確保できれば開催場所を増やしたいと思っていること、区役所と教育委員会から後援を受けていることを説明した。 「で、パンフレットというのは──」  丸岡先生が理香を見た。この件は唯一のスタッフである理香の仕事だ。理香は、先生の台詞のあとを引き取った。 「十二月十七日に、この会で初めてフォーラムを主催することになりまして。会場は、このセンターの小ホールなんですが、せっかくの機会なので、AFFの活動をPRして協賛を募りたいと思っています。お手元に──」  スミレ先生が長谷さんの前に手を伸ばし、さっき渡した写真の下から、あらかじめ全員の机の上に配付していた資料を抜き取って、一番上に置き直した。長谷さんが、左手で資料をめくる。 「最初は、ワープロでチラシをつくって配るつもりだったんですが、研さんから『ちゃんとした印刷物にした方がいい』と助言をいただいて、パンフレットの版下の作成をお願いすることになっていました」 ──こういうのはね、ハッタリでもいいから、ちゃんと作らないとダメだよ。協賛を募りたいなら、なおさらね。オレがやってやるよ。  そう言ってくれた研さんは、ここにはいない。もう病院には着いているだろうが、大丈夫だろうか。  長谷さんが資料から目を上げた。物腰は柔らかいのに、思いのほか強い眼差しで、どきりとする。 「A3の二つ折り、フルカラー。文字はほぼ固まっているんですね」 「はい」  一通り資料を眺めて、長谷さんは「大体分かりました」とうなずいた。茶色い革製の手帳を取り出して開く。 「フォーラムは十七日──。ああ、日曜日なんですね」手帳を見ながら、間に合うかなあ、とつぶやく。「印刷物の納期は何日?」 「十六日の午前中にいただけたら」 「印刷会社は決まっているんですか?」  顔を上げた長谷さんと目が合った。切れ長のきれいな目だ。 「はい。いつも協力してくださっている会社があって」  会社名を聞かれて「川辺印刷」と答えると、長谷さんは「知らないな」と小さくつぶやいた。ジャケットの内ポケットから、スマホを取り出す。 「番号を教えていただけますか? 工程を確認したいんですが」  川辺印刷は、町の印刷所といった風情の会社だ。長谷さんに電話番号を伝え、いつも社長さんと直接やり取りしていることを話すと、長谷さんは「携帯の番号ですね。今、かけても大丈夫でしょうか」と確認し、その場で相手に電話を入れた。 「突然、申し訳ありません。初めてお電話を差し上げております。長谷デザインの長谷と申します」  受話器の向こうから、川辺社長の大きな声が聞こえた。言葉までは聞き取れない。 「はい、長谷デザインです」  川辺社長が、また何か言う。 「ええ、その長谷です。本人です。長谷貴文と申します」  長谷さんは、なぜか何度も繰り返し、それからおもむろに本題に入った。 「実は、AFFさんのパンフレットの件でご連絡させていただいておりまして。急な話なんですが、デザイナーの研和臣さんの代理をさせていただくことになりそうなもので、遅い時間に恐縮なんですが、お電話させていただきました」  そこから、いきなりプロ同士の会話になった。 「仕様は聞かれていますか。一応申し上げますと──」理香が作った資料を手に説明する。「A3判二つ折り四ページ、両面とも四色。紙はコート110kg、部数は二千部。納期が十六日午前中とのことなんですが、色校を二回出していただくとして、最短の工程を教えていただけますか」  相手が何か答える。長谷さんは相槌を打ちながら、スマホを片手に書類の余白にメモを取っている。 「データは、アウトラインかけて完全版下の状態でお渡しします。色校、入稿の翌日に出せます? ああ、週末がかかるか。じゃあ、八日の金曜日にデータ入稿、十一日に色校出し、十三日に二校ですね」  長谷さんの声が明るくなった。「了解です。何とかなるかな。調整して、詳細は明日以降にまたご連絡します。できるだけ急ぎますので、ご面倒をおかけしますが、よろしくお願いします」  長谷さんは電話を切ると、すぐに顔を上げ一同を見渡した。 「この話、お受けします」 「──受けてもらえるんですか?」  理香は聞き返した。 「はい。研さんからの依頼だという時点で基本的に受けるつもりでいましたし、内容をうかがって、ますますやらせていただこうかな、と。ただ、ちょっとスケジュールが──」 「スケジュール?」 「実は、今週末納期の案件を抱えていまして。そちらが終わり次第すぐに着手しますが、来週末には川辺印刷に最初のデータを渡さないといけないので、実質、一週間で校正──文字とデザインの確認をお願いすることになります」  長谷さんは言って、「ご理解いただけたら」と頭を下げた。
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