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 開いたドアの向こうから、隣の大会議室で行われている学習会のざわめきが聞こえてくる。時々交じる笑い声と椅子の音。その音を背景に、理香は小会議室の隅に一人で座り、いつものように事務局専用の携帯電話を手に取った。  壁の時計を見ると七時を回っている。遊びに行ってしまっていたら、つかまえるのは難しいかもしれない。そう思いながら電話したのに、相手は意外なほどあっさり電話に出た。 ──やっぱり、かかってきたかあ。  電話の向こうで、沙彩(さあや)ちゃんが、ふう、とわざとらしくため息をついた。面倒くさそうな口調なのに、どこか嬉しそうにも聞こえる。 「沙彩ちゃん、今日、来てないんだもん。びっくりしたよ」  細心の注意を払いつつ、でも、できるだけ何気なく聞こえるように気をつけながら話を切り出した。うっとうしいと思われて、つながりが切れてしまったら元も子もない。 「期末、月曜日からじゃなかった? 英語、初日でしょ?」  理香の言葉に、電話の向こうで沙彩ちゃんが「苦手だもん、捨てる」とあっさり宣言した。 「ダメだよ、留年かかってるじゃない」 ──何しても、どうせ赤点だし。やるだけムダ。  もしかしたらそうかもしれない、とは思う。でも、もしかしたら、そうじゃないかもしれない。確かなのは、今日頑張らなければ、沙彩ちゃんは、たぶん高校三年生になれないし、「退学」の二文字が急速に現実味を帯びてしまうということだ。 「何言ってんの、やってみなきゃ分かんないよ」  理香は、慎重に言葉を選びながら言った。重たく聞こえないように、あえて「タメ口」を使う。 「それに、赤点だったとしてもさ、『頑張ったな』って先生に思わせれば、印象が違うって」 ──そうかなあ。 「そうだよ」 ──じゃあ、土日に友達とベンキョウする。 「えー? 友達と? そんなの、しゃべって終わりになっちゃうじゃない。ぶつくさ言わないで、とにかくおいでよ。元プロのわたしが見てあげるから」  わざと恩着せがましく言うと、沙彩ちゃんは「ぷっ」とふき出した。 ──ぶつくさなんて言ってないし。仕方ないなあ、リカちゃん先生がそこまで言うなら、行くよ。 「え? 来る? やったー」心からほっとしながらも軽く言う。「すぐおいで。スミレ先生から、マフィンの差し入れも来てるし。すぐだよ、待ってるから」 「餌付けか!」と笑う沙彩ちゃんに向かって、「あとでね」ともう一度声をかけ、向こうから通話が切れるのを待って、携帯電話を置いた。「AFF事務局」のラベルを眺めながら肩をゆっくり回す。 「──『確実に卒業できるようにケアする』っていうのは、こういうことなんですね」  突然声をかけられて、理香は、ぱっと振り返った。開けたままにしていたドアのすぐ近くに、長谷さんが立っていた。黒いコートを腕にかけ、反対の手に大きめのバッグを提げている。黒っぽいジャケットとグレーのパンツが、会社員より幾分ラフだけれど趣味がよくて、彼の職業を思い起こさせる。  長谷さんは、固まってしまった理香にぺこりと頭を下げ、「驚かせてすみません」と申し訳なさそうに言った。「大会議室に行ったら、学生さんかな、この間の会議にも参加していた子に、あなたはこちらだと言われたもので」  和希ちゃんだ。 「ああ、はい。学習会の日は、この部屋を控室としてお借りしているんです」  そのまま沈黙が落ちた。何かコメントを求められている気がして、理香は言葉をさがした。 「あの、“ケア”っていうほど大げさなことじゃないんです。ただ、勉強が遅れ始めると、『もういいや』って諦めてしまう子も多いので。声をかけ続けるんです、ちゃんと卒業できるまで、ずっと」  それから、相手を立たせたままなのに気がついて、「すみません、どうぞ」と椅子を勧めた。理香の斜向かいに腰をおろした長谷さんに向かって、気まずい思いでつけ加える。 「本当は、中学や高校の先生方のほうが、ちゃんと助言ができると思います。でも、こういう電話は、わたしみたいな立場の人間がかける方がいい場合もあるみたい。学校の先生だっていうだけで敬遠する子もいますから──」 「なるほど」  少し分かります、と長谷さんはうなずいた。 「あの、別のお仕事、終わられたんですか」 「ええ」柔らかな口調が彼の人柄を思わせた。「やっとこちらに集中できます。貴重な時間をロスしてしまって、すみませんでした」 「そんな──」  全然悪くないどころか、むしろ、こんなに急な話を引き受けてもらって申し訳ないばかりなのに、なぜか謝る長谷さんに恐縮してしまう。  長谷さんは「今見てきたんですが」と続けた。「参加者、こんなにたくさんいるんですね。生徒さんとボランティアの方と──五、六十人くらいですか?」 「そうですね、今日はそれくらいです」  来週から、ほとんどの中学校や高校で期末試験が始まる。だから、教える方も教わる方もいつもより若干多い感じではある。「日によって違いますけど」とつけ加えると、長谷さんがうなずいた。 「これを週二回ってすごいね、って大学生の子に言ったら、『今は期末前だから毎日やってる』と教えてくれました」  長谷さんは言って、「期末試験って何だか懐かしい響きだなあ」と目を細めた。  デザイナーという人種には、あまり縁がない。だから、唯一知っている研さんみたいに、みんなあくが強いのかと思っていたけれど、そういうわけではないらしい。長谷さんは、いかにも常識的で穏やかそうに見える。 「あなたは専属のスタッフでいらっしゃるんですよね。運営する側も大変ですね」  長谷さんが言った直後に、ドアがぱっと開いた。 「リカちゃん先生!」  元気な声とともに沙彩ちゃんが顔を見せた。短くした制服のスカートから、すんなりした足が伸びている。沙彩ちゃんは、長谷さんを見るなり、きれいにメイクをした目を見開いて、「うわ、イケメンだ」とわざとらしく後ずさってみせた。 「早かったね」  理香が声をかけると「ダッシュで来たもん。マフィン、なくなっちゃうかもしれないし」と得意げな顔をする。見た目は大人っぽいのに、こういうところは年相応だ。 「行ってください」長谷さんは理香に向かって言った。「様子を知りたくて寄ってみただけですし、終わるまで、僕は見学していますから」  その言葉に、沙彩ちゃんがぱっと反応した。 「うわ、デートの約束? リカちゃん先生、今年のクリスマスは、ばっちりだね」  そんな言われ方をしたら、長谷さんに迷惑だ。焦って「そんなわけないでしょ」と返したら、沙彩ちゃんが「だよねー。イケメンすぎるもん」とあっさり同意した。苦笑いをする長谷さんに頭を下げて、理香は沙彩ちゃんと一緒に控え室を後にした。  少しして大会議室に現れた長谷さんは、自分で言ったとおり、あちこちに出没しながら学習会の様子を見学していた。遠慮がちに長机の間を歩き、時々立ち止まってはボランティアと生徒たちのやり取りを眺めている。 ──退屈じゃないかな。  そう思いながら、はじめのうちは横目でちらちらと彼の姿をうかがっていたものの、沙彩ちゃんに仮定法過去について解説しているうちに、いつの間にか集中していた。  二学期の期末試験は、中学生にとっても高校生にとっても、当人たちが考えるよりずっと大事な意味を持っている。中学生、特に中学三年生にとっては、この試験の結果が高校入試の内申点に直結するし、高校生にとっては、次の学年に進級できるかどうかの分かれ目になる。  だから、一点でも二点でも多く取らせてやりたい。そのためには、本当の意味での学力向上にならなくても、ヤマカケだってするし、学校教育では教えないような裏技だって暗記法だって教える。  いつもと同じように、ペンが止まっている子がいないか注意しながら座席の間を回る。「リカちゃん先生」と呼び止められて、質問を受ける。大人しくて声を発するのが苦手な子に、セーターのすそを引っ張られる。そんなことを繰り返している間に、気がついたら、長谷さんの姿が見えなくなっていた。 ──帰っちゃったのかな。  大会議室を見回して彼をさがすけれど、どこにもいない。 ──帰っちゃった──。  いつの間にいなくなったのか、全然気がつかなかった。きっと邪魔にならないように黙って立ち去ったのだろう。納期が終わったばかりなら疲れていたはずだ。そんな中でわざわざ立ち寄ってくれたのだろうに、きちんと応対できなかったことが申し訳なくて仕方がない。それに──。 ──終わるまで見学してるって言ったのに──。  がっかりしている自分に気がついて、複雑な気持ちになった。  もしかしたら、気づかないうちに、沙彩ちゃんの言葉に影響されてしまっていたのかもしれない。  午後九時に学習会が終わり、いつもと同じように、生徒たちとボランティアの面々を送り出した。  急にがらんとしてしまった大会議室に一人残って、筆記具や紙類を片付ける。長机の下をのぞいて忘れ物がないことを確かめ、椅子をもとの位置に戻す。それから、大会議室の明かりを消して施錠した。  用品類を詰め込んだ箱と紙の束を抱えて小会議室に戻る。ドアを入ったところで、理香は足を止めた。さっき目でさがした姿がそこにあった。長谷さんは、部屋の奥で机に向かっていた。 「──いらっしゃったんですね」  理香の声に長谷さんは顔を上げ、束の間、「ここはどこだろう」というように周囲を見回し、それから「ああ」と笑った。 「没頭してました。すみません」  その手に鉛筆があった。机の上に小さめのスケッチブックのようなものが広げられている。何か書いていたらしい。 「それ──」 「パンフレット、この間うかがった話をもとに少し考えてきてはいたんですが、実際に見学してみたら、想像していたのとはちょっと違うなあ、と。で、ボツにしました」  あっさり言う。 「想像していたのと違う?」  何か、がっかりさせてしまったんだろうか。 「こっちに来ませんか」  長谷さんは穏やかに言い、目線で近くのパイプ椅子を示した。理香が座ると、長谷さんは紙をめくって、何も書かれていないページを広げた。 「うまく言えませんが、一方的に誰かに何かをしてあげるっていうようなものじゃなくて、こう、もっと寄り添い合うような──。こんなのはどうでしょう」  白紙の上に、鉛筆でさらさらと図柄を書きつけていく。理香は目を見開いた。  丸みを帯びた葉っぱのような、水滴のような形がいくつも重ねられ、目の前で、見たことのない世界が創り出されていく。まるで最初からそこにあったかのようなリアルさをもって。 ──ああ、こういう人を“creator”っていうんだ。  創り出す人。創造者──。  長谷さんの長い指が自在に鉛筆を操る。鉛筆ってこんな風にも動くんだ、と思う。 「印刷物の目的を考えると、奇抜じゃない方がいいと思います。むしろ普通に、配色は淡いグリーンとオレンジを中心に相手を選ばない感じで。それだけだと平板になりますから、見えるか見えないかくらいのブルーを差して──」  少し低めの落ち着いた声で独り言のようにつぶやきながら、細かい字で「C」だの「M」だののアルファベットと二桁の数字を書き込んでいく。色の指定だろうか。「Y」。これは分かるかもしれない。きっと「イエロー」だ。 「フォントは何をつかうかな。くっきり出すぎない方がいいよな。いい感じにインクが沈めば──。あ、だめだ、コート紙指定だ。うーん、コート紙か──」  鉛筆を手に考え込んでいる。つぶやいたところで、彼がぱっと顔を上げた。しまったという顔をしている。 「すみません、また没頭してました」  恥ずかしそうだ。理香は思わずほほえんだ。 「いつも、そんな感じなんですか?」 「いえ。まあ、その、たまに──かな」  彼がますます恥ずかしそうな顔になった。その様子が、まるで子どもみたいでかわいく見えた。  その時、ドアにノックがあって、いつもの守衛さんが顔をのぞかせた。 「理香先生、そろそろ閉館ですよ」  壁の時計を見ると、いつの間にか十時近くになっていた。区民センターの閉館時間は十時だ。理香は、あわてて椅子から立ち上がった。 「すみません、すぐ出ます」 「あわてなくていいですよ」  守衛さんはのんきな口調で言い、再び廊下に消えた。  筆記具だの紙だのをまとめて、紺色のトートバッグにしまう。コートを羽織ったところで、同じく荷物をまとめ終わった長谷さんが、思い出したように口にした。 「“理香先生”? “リカちゃん先生”?」  室内の確認をしていた理香は「はい?」と聞き返した。目の前の男性は真面目な表情をしている。からかわれている訳ではないらしい。 「どっちで呼べばいいですか。やっぱり“理香先生”でしょうか」 「“先生”はやめてください」  恥ずかしくなって言うと、長谷さんは不思議そうに首をかしげた。 「丸岡先生に、そう呼ばれていましたよね。今の守衛さんにも。皆さん、そうなのかと」 「やめてくださいって言ってるんです、いつも。大学の先生も、お医者さんも、高校や中学の先生だっていらっしゃって、本物の『先生』だらけなのに恥ずかしくて」  長谷さんは、何度か瞬きをしてから優しく言った。 「恥ずかしくなんてないですよ。あなただって、ちゃんと先生じゃないですか。子どもたちにも頼りにされているし」 「頼りにっていうか、友達の延長みたいに思われているだけです」 「そうかなあ。少し違う気がするけど」  そんな風に言われたら、ますますどう反応したらいいのか分からなくなる。 「とにかく『先生』はやめてください」 「じゃあ、どう呼べば──?」 「普通に『さん』にするとか」  あわてて主張すると、長谷さんは「じゃあ、理香さんですね」とにっこりした。理香は真っ赤になった。わざとなのか天然なのか、つかめない人だ。
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