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『虫垂炎の手術なら、たぶん腹腔鏡だから、四、五日で退院できるんじゃないかな』
最初、スミレ先生はそう言ったけれど、研さんは週末になってもまだ病院にいて、一向に退院する気配がなかった。密かに心配を募らせていたらしいスミレ先生と一緒に、日曜日にお見舞いに行くことになった。
研さんが担ぎ込まれた先は、区民センターの隣駅から歩いて五分ほどのところにある総合病院だ。
お見舞いなのに手ぶらなのはどうか、かと言って、消化器系の病気に食べ物はダメだという話になり、駅ビルの花屋さんでアレンジメントをつくってもらった。ピンクのバラは、研さんにはかわいすぎるかもしれないけれど、病室が明るくなっていいだろう。
病院の入り口を入ってすぐ、一階の案内所で病棟を確認し、消化器外科がある七階に上がる。エレベーターを降り、まずはナースステーションに立ち寄った。
「あの、お見舞いなんですが」
カウンター越しに看護師さんに声をかけると、「はい」と感じのいい声が返ってきた。
「研和臣さんの病室は──」
フルネームを告げた瞬間に、看護師さんは「718号室です」と即答した。名簿を確認することもない。あまりの早さに一瞬引いてしまったほどだ。看護師さんは、理香が手に提げているアレンジメントに目を遣った。なぜか、必死で笑いをこらえているように見えた。
「ピンク──」
つぶやきが聞こえたような気がしたけれど定かではない。
──?
心の中で首をかしげながらナースステーションを離れた。案内表示に沿って進み、廊下の角を曲がった途端に、スミレ先生が「今、何か変じゃなかった?」と不審そうに口にした。違和感を感じたのは理香だけではなかったらしい。
「笑ってましたよね?」
「笑ってたわね。やっぱり、アフロにピンクは変だったかしら」
いつものふわっとした口調で言われて、研さんの姿を思い浮かべた。普段の研さんにピンクのバラは変かもしれないけれど、お見舞いなのだから許容範囲のはずだ。
「大丈夫じゃないですか? ちょっと女性向きかもしれませんけど」
「でも、あの頭だし、変な取り合わせだったかも」
スミレ先生と研さんは、顔を合わせるたびに、つかみどころのない言葉遊びみたいなやり取りを繰り広げている。仲がいいのか悪いのか、さっぱり分からない。
看護師さんの笑いの理由は、研さんの個室に足を踏み入れた瞬間に明らかになった。
部屋の主は、電動ベッドの背もたれを起こして音楽雑誌を読んでいた。いつものアフロヘアだけでも十分個性的なのに、ギターを抱えた同じくアフロヘアの男性がプリントされた紫色のパジャマを着ている。
しかも、部屋中に、ベビーピンクとオレンジ色の花が飾られていた。フラワーアレンジメントのようだが、一体いくつのバスケットがあるのかすら分からない。
ピンクとオレンジの花だらけの部屋に、紫のパジャマを着たアフロヘアの男性。パジャマもアフロ柄。はっきり言って、異空間──というか、異常な空間だ。
「あ、来てくれたんだ」研さんは、絶句している見舞客に向かって屈託のない笑顔を見せ、丸椅子を勧めた。「忙しいのに、ありがとう。迷惑をかけて、ごめんな」
あまりにも態度が自然なので、こっちの目がおかしいのかという気がしてくる。理香は、スミレ先生と一緒に、うながされるままに椅子に腰を下ろした。
「パンフレット、オレが引き受ける約束だったのに、本当に悪かった」
研さんは改めて言い、ベッドの上で頭を下げた。
「いえ、こちらこそ、大変な時に心配させてしまって、すみませんでした」
しごく真面目に答えたものの、目の前で揺れるふわふわの髪が気になって仕方がない。研さんワールドに引っ張り込まれてしまったのかもしれない。
──ちょっと触ってみたいかも。
思った時には、横からスミレ先生の手が伸びていた。先生も理香と同じことを感じていたらしい。
「やだ。なあに、このアフロ。ふわっふわ」
スミレ先生の口から、ため息ともつかない声がもれた。
「午前中に洗ってもらったから──って、気軽に触るなよ」研さんが、あわてた様子で言う。少し赤くなっている。「あと何度も言うけど、俺のはアフロじゃないから」
「どうみてもアフロでしょ?」
「違うって。エレクトリック・ヘアって言うんだって、何回言えば分かんのよ、センセー。ジミー・ヘンドリックスだよ? 常識を疑われちゃうよ?」
スミレ先生は、くすっと笑った。
「そんなの知らないもの。それに、変な紫のパジャマ着て、こんな部屋にいる人に『常識』なんて言われても困るなあ」
研さんは「ああ?」という顔で室内を見回した。そこで初めて、何を言われているのかに気がついたらしく、少しだけ恥ずかしそうな顔になった。
「これはさ、同業連中のいたずら──ってか、嫌がらせ。個室だって分かった途端に申し合わせたっぽくてさ、来るやつ来るやつ、同じ色を持ってきやがって。看護師さんには笑われるし、まるでオレが変人みたいじゃないの」
センスは全然理解できないけれど、研さんが同業者に愛されていることはよく分かった。
「その花だってさ──」
窓際に置かれた一際大きなアレンジメントをあごで指す。生けられている花は、やっぱりベビーピンクとオレンジだ。ただし、ほかのバスケットより全体に色が淡くて上品な感じがする。
「誰が持ってきたと思う? 長谷だよ、長谷」
名前を聞いた途端に、なぜだかどきんとした。研さんは、そんな理香には気づかずに話し続けた。
「あいつまで、こんな悪ノリに加わりやがって。良識派だと思ってたのに」
あの穏やかで真面目そうな長谷さんが、乙女チックな色合いの花を抱えて歩く様子を思い浮かべると、思わず笑みが漏れた。
「いろいろバカバカしいことになってるみたいだけど」スミレ先生が呆れたように言う。「元気そうで安心した」
その言葉に、先生の気持ちがこもっていた。「入院が長引いてるみたいだから、心配してた」
研さんは「面目ない」と言って、また頭を下げた。
「実は、担ぎ込まれる何日か前から調子は悪かったんだけど、忙しくてほったらかしにしちゃってさ。無事に納品して、定例会に行くつもりで事務所を出たんだけど、耐えられないくらい痛くなったんだよな」
立っていられないどころか座ってもいられないんだよ、と眉をハの字にする。
「ちょっとヤバかったみたい。普通は腹腔鏡で手術するらしいんだけど、それじゃ間に合わないって、開腹手術になっちゃって。医者に何でここまでほっといたのか、腹痛をなめんなって、ものすごく怒られた」
「そんなことじゃないかと思った。──ねえ、わたしも怒ってあげようか」
スミレ先生の低い声に、研さんは「怒らなくていいです。深く反省してます」と神妙な顔で言った。
「長谷にもさ──」理香の心臓が、また、どきんと跳ねた。
「今回、ずいぶん心配をかけちゃったんだよね。『これはダメかも、代理を頼まなきゃ』ってなった時、一番に顔が浮かんでさ。連絡したら、『どうにかするから、任せろ』って。惚れそうになったよ、マジで」
なるほど。そして長谷さんは、訳も分からないままに、大急ぎで区民センターに駆けつけたわけだ。
「あいつにだけは、何があっても負担をかけちゃダメだって思ってたのに」
独り言みたいなつぶやきに、理香は、少しだけ違和感を覚えた。
――“あいつにだけは”?
「ずいぶん親しいみたいね」スミレ先生が言う。
「うん、まあね、かなりね。っていうか――」
研さんは言いかけて、何となく困った顔になり、そのまま口をつぐんだ。
「どうしたの?」
スミレ先生と話していたはずなのに、研さんは、なぜか理香に向かって「あいつ、本当にいいやつだから」と言った。
「まあ、こんなことになっちゃったし、今回は長谷に任せるよ。かなり信頼できるから、安心してやらせてやって。それに、あいつだったら客寄せパンダにもなれるし」
病院からの帰り、駅のホームに一人で立って、電光掲示板を見上げた。黒地にオレンジ色の文字が流れていく。時計を確認すると、次の電車まで五分近くあった。
日差しは明るいのに、こうして立っていると空気が冷たい。理香は、マフラーの端っこを襟元に押し込み、コートのポケットに手を入れた。
スミレ先生とは、ほんの少し前に別れた。先生は、病院から駅に向かう道すがら、話しかけてもずっと上の空で考えごとをしているように見えた。そして、改札の手前で突然立ち止まったかと思うと「忘れものをした」と宣言し、いそいそと病院に引き返していった。
──病院に一体何を忘れたっていうんだろう。
理香は小さく笑った。あまり口には出さなかったけれど、スミレ先生が、今回のことで研さんをものすごく心配していたのは知っている。
二人とも大人で、お似合いだとは思っていた。これまで、二人の関係を阻害する要因になっていたのは、唯一、研さんのアフロヘアだったんじゃないかと思うけれど、さっきのスミレ先生の様子だと、何か吹っ切れたのかもしれない。
二人のことを考えていたら、ふと長谷さんの顔が浮かんだ。研さんが最後に言った言葉を思い出す。
──“客寄せパンダ”って何だろう。
確かに、見た目のいい人だということは分かる。でも、研さんが言おうとしたのは、そういうことではないような気がする。
<六番線に電車がまいります。ご注意ください>
耳にアナウンスが飛び込んできて、我に返った。
ホームの端に目を遣ると、滑り込んでくる列車のオレンジ色のラインが見えた。理香は一歩下がってコートの襟もとを握りしめ、首をすくめるようにして、列車が連れてきた冷たい風をやり過ごした。
停車位置ぴったりに停まった車両から、ほのかに温かい空気とともに人が降りてくる。扉の脇に立って目の前を通り過ぎる人の足もとを見つめ、それから、大して混んでいない車内へと足を踏み入れた。暖かさに少しほっとして、風に乱れた髪を手で軽く押さえながら目を上げた。
そこに、さっきまで頭の中にいた人の姿があった。フードがついた薄い茶色のジャケットを羽織り、緑と白の細かいストライプのマフラーを巻いて、反対側のドアに寄りかかっている。彼は驚いた顔をして、理香を見ていた。
「──長谷さん」
長谷さんは我に返った様子で「ああ」とぎこちなくほほえんだ。「すみません、驚いてしまって」
言い訳をするように言い、少し脇へ詰めて手すりの前を空けてくれる。理香は小声でお礼を言って、長谷さんの隣に立った。
「わたしもびっくりしました。まさか電車で会うなんて。この路線なんですか?」
見上げながら言うと、長谷さんは「ええ」とうなずき、駅名を告げた。理香の自宅と二駅しか離れていない。
「もしかしたら、今までにも会っていたかもしれませんね」
「そうですね。頭の中から出てきたのかと思った。ちょうど、あなたのことを考えていたので──」
「え?」
長谷さんが、しまったという顔で口をつぐんだ。列車の騒音のせいで聞き間違えたかと思ったが、そうではないらしい。気にはなるけれど、わざわざ聞き返す勇気もない。
「あの──」理香は、この場に適当な話題をさがした。「わたし、今、研さんのお見舞いに行ってきたんですよ」
長谷さんが、話が変わったことに明らかにほっとした様子で笑った。
「そうなんですか。実は僕も昨日寄ってみたんです。順調に回復してるみたいでよかった」
「はい」
「昔からあいつは、体力を過信して無理をするところがあるから。最近、仕事を詰め込みすぎていたみたいだし、まあ、休息にはいい機会だったかもしれない」
やはり研さんと長谷さんは、単なる仕事上の関係ではないらしい。知り合ったばかりの人のプライベートに立ち入り過ぎないように、理香は当たり障りのない範囲で相槌を打った。
「前からお知り合いなんですね」
「大学の同期なんです」
研さんは俗に言う”有名美大”卒だと人づてに聞いたことがある。つまり、長谷さんもそうだということだ。
「それに──」長谷さんは何かを言いかけ、何だろうという顔で首をかしげる理香に気がついて、少し困ったような顔をした。
「研から聞いていませんか?」
「──? 何をですか?」
「いや、聞いてないならいいんです」
歯切れが悪い。二人の間に沈黙が落ちた。長谷さんは窓の外に目を遣った。
「いい天気ですね」
「そうですね」
理香は同意し、窓の外に目を向けた。高架の下に住宅の屋根が波のように連なり、陽の光を反射させている。風は確かに冷たいけれど、十二月初旬にしてはうららかな日だ。ガラス越しに差す陽の光が暖かい。
「小春日和ですね」
つぶやくと、「本当だ」と長谷さんが楽しそうに目を細めた。
「どうかしたんですか?」
「この間の高校生の女の子、沙彩ちゃんでしたっけ? あの元気な、チェックのスカートの」
理香はうなずいた。
「この間の学習会で、年配の男の先生が『”小春日和”というのは、春ではなくて今くらいの季節に使う言葉だ』と解説されていたんですが──」
たぶん篠崎先生だ。もう退職されているけれど、高校の国語の先生だった方で、金曜日も参加されていた。
「どうしても納得できない、大きくても小さくても春は春だ、何で二月に使っちゃいけないのかって」
最後は屁理屈みたいになってましたけどね、と長谷さんがほほ笑む。
「春が大きいとか小さいとか、僕は考えたこともなかった。子どもっていいですね。自由だ。すごく、自由。僕はもう、そういう発想ができる年じゃありませんから」
「そんな──」
そういうこの人だって自由だと思う。そうでなければ、紙の上にあんな世界を描き出せるはずがない。
そして、この人が女子高生の沙彩ちゃんのことを「子ども」と呼ぶ人だということに安心した。世の中にはいろんな人がいるけれど、この人はちゃんとした大人だ。
フォーラムの準備状況なんかをぽつぽつと話している間に、長谷さんの最寄り駅が近づいてきた。少し名残惜しいと思っている自分に気がついて、何だかとまどってしまう。
列車を降りる間際に、長谷さんは思い出したように言った。
「明日も学習会ですよね。理香さんは、会場にいらっしゃいますか?」
「はい」
「じゃあ、控室に初校を持参します。時間が取れそうなら打ち合わせをお願いしたいんですが、構いませんか?」
「大丈夫です」少しだけ声が弾んでしまったかもしれない。「ありがとうございます、お待ちしています」
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