7.ドナーとレシピエント

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7.ドナーとレシピエント

 手術衣をバスケットに入れると、ロッカールームから出た夏樹は、廊下を歩いていた。 「うわ~ 久し振りに日付またがずに帰れる。腹減ったなぁ」  お腹が鳴る音で、最近まともに食事もしていないと気付いた。 「はぁ~」  エレベーターを降り、夜間通用口に向うと、目の前を高城春音が歩いていた。  自宅に保管してあった書類により、夏樹の心臓は、春音に関係がある者からの提供だったと推測した日から、多忙な日が続き、春音や移植の事を考える暇が無かったのだ。 「高城さん」  夏樹は、通用口を抜けようとする春音に声を掛けた。  背後で自身の名前を呼ばれ、警備員に会釈をすると、後ろを振り返った。 「加瀬先生」 「こんばんは。お見舞いのお帰りですか?」 「はい。遅くまで済みません」 「いえいえ。昼間お仕事されている患者さんのご家族は、皆こんな感じです。誰もお見舞いに来られない方が、寂しいですからね」  夏樹の優しい言葉に、春音の頬が少し熱をおびた。 「そう言っていただけると、少し気が楽になります。有難うございます」 「駅に向われるのですか?」 「あ、いえ。私はこっちです」 「俺もそっちなので、、、、あっそうか」  春音は恐らく神木と一緒に暮らしているのだと察した。  そして、神木が、夏樹の住んで居るマンションからは、そう遠くない所に住んで居るのを思い出した。  神木と夏樹の住居が、病院に近いため、緊急時には呼び出される事があるのだ。  春音の横に並びながら、同方向に歩いていた夏樹は、立ち止まると口を開いた。 「高城さん、お尋ねしたい事があるのですが、少し時間を頂けませんか? あ、今日じゃなくていいです。いつでもいいので」  この時、夏樹と春音の脳裏には、同じ考えがグルグルと回転していた。 「あ、はい。今からでも大丈夫ですよ」 「あ、本当ですか? でもこちらからお願いしておいて、恥ずかしいのですが、俺、あの~、今、凄くお腹が空いていて、何か食べながらでも良いですか?」  緊張で張り詰めていた空気が少し緩み、春音は右の人差し指で口を隠すと、遠慮がちに小さく笑った。 「はい。勿論です。実は私もペコペコで」 「良かった」  二人は止めた歩みを進めると、帰宅途中にある小さな洋食屋に入った。 「ここ何でも美味しいですよ」 「そうなんですか。私は、ここに入るのは、初めてです」  金曜日の夜だからだろう、時刻は九時を回っていたが、ワインを飲みながら食事を楽しむ客で賑わっていた。  二人は、兆度片付けが終わったテーブルに腰を掛ける。  適当に注文を済ませると、暫くの間、他の客の話声だけが、二人のテーブルを囲んだ。  沈黙を破ったのは、夏樹の方だった。 「今日は、時間を貰って有難うございます」 「いえいえ、私の方も一度、加瀬先生とお話がしたかったので、、、、」  夏樹は、両手をテーブルから膝の上に移動させると、真剣な面持ちを春音に送る。 「実は、俺、生まれ付き心臓が弱くて、いつも死と隣合わせでした。そんな俺が、こうやって医者として頑張れるのも、全て俺に心臓をくださった方のお蔭です」 「加瀬先生、、、、ご存知なんですか? 私の兄の事」 「はい。すみません。守秘義務破りです」 「それは私も同罪です」 「俺! 俺、本当に、心の底から高城冬也さんに感謝しています。命を助けていただいて、本当に有難うございました」  夏樹は、深く座っていた椅子を少し後ろに押すと、深々と頭を下げた。 「加瀬先生。頭を上げてください。そう言って頂けると嬉しいです」  春音の目には涙が溜まり、今にも溢れ出しそうになったので、慌てて鞄からハンカチを取り出した。 「冬也さんって、お兄さんだったんですね?」 「はい。でも父の再婚相手の息子さんなので、私とは血の繋がりはありません」  冬也の事を語る春音は、切ない顔をした。それは、恋しい人を失った表情だ。  夏樹は、罪悪感からなのか、少し胸に痛みを感じた。そして、これ以上踏み入れてはいけない気がしたのだ。 「冬也の命が、こんな立派な方に役立ったので、私、、、、少しホッとしています。冬也は、心臓だけで無く、沢山の臓器を提供したんです。他も加瀬先生のような方に、受け継がれている事を祈ります」 「俺なんて、そんな。でも、そう言って頂けると嬉しいです。前にも言いましたが、俺、臓器移植の外科医を目指していて。だから、講演会にも出来るだけ行くようにしています」 「そうだったんですね」 「レシピエントコーディネーターのお仕事をされているんですね」 「あ、はい」 「ドナー側じゃなくて?」 「はい。レシピエントの方々の今までのご苦労や、臓器を受けとられる喜びに、少しでも寄り添えたらと思っていて。でも、難しいです。悲しみと喜びが、表と裏にあって、頭では理解出来るのですが、まだ心が付いて来なくて。あ、済みません。加瀬先生を責めるつもりはありません。ごめんなさい」 「謝らないでください」  暫く沈黙が続いた後、春音が言葉を紡ぐ。 「冬也は、お医者さんになるのが夢でした。だから加瀬先生の中で、その夢が叶って喜んでいると思います」  『俺、医者になって、春を守る』  ふと蘇った冬也の笑顔。すると、春音の目から涙が溢れ出た。慌ててハンカチで目元を拭う。 「ごめんなさい」  夏樹は、涙を堪えようとする春音の姿が痛々しく思え、机上を乗り超える勢いで右腕を前に出した。 「高城さん。我慢しないで下さい」  春音は、俯いたままだが、口からポツリと思い出が漏れた。 「そう言えば冬也、大人になったら、私とお酒も飲みたいって言ってました」  そう言うと、真っすぐ夏樹を見つめた。 「加瀬先生は、お酒って大丈夫ですか?」 「え? あ、はい」 「じゃあ、一杯だけ付き合って貰えません?」 「明日は、夜勤なので、今晩は飲みたいなぁって思ってたんですよ」 「良かった」  料理が届くと、店員にワインを注文した。  二人は、夏樹のお勧めの料理を、それぞれの取り皿に乗せ口へと運ぶ。 「本当に美味しいですね。私っていつも同じお店ばかりで」 「この辺りの店ですか?」 「私の住んでるマンションの一階に小料理屋があって」 「あ、小春!」 「そうです。ご存知ですか?」 「あそこの筋煮込みが美味しいですよね。関西の味だって」 「そうなんですよ。店主が大阪出身なんです」 「高城さんも関西出身なんですか?」 「はい。でも中学三年からこっちです」  春音は、何故か少し渋い顔をして応えた。 「いいな~ 俺なんて生まれた時からずっとここです」  夏樹は、暗くなり掛けた会話を明るくなるように務め、その後二人は、移植の話題を極力避け、当たり障りのない話題で時を過ごした。    人付合いの苦手な夏樹だが、驚く事に二人の間には笑顔が絶えず、会話が弾んだ。  夏樹と春音は、随分と前からお互いを知っているような、不思議な空気に包まれていた。 「今日は、有難うございました。色々とお話が出来て楽しかったです」 「俺も高城さんとお話が出来て良かったです。家まで送りますよ」  店を出た二人は、肌寒さが消えた夜風の中を、家路に向い歩き出していた。 「ここからだと、家は、直ぐそこなので大丈夫です。お仕事頑張ってくださいね。お休みなさい」  春音が軽く一礼をすると、その場を立ち去ろうとした。  その時またもや無意識に彼女の腕を掴む夏樹が居た。  そして、腕を掴まれた春音は、夏樹の胸の中へと引き寄せられたのだ。
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