1.溢れ出す涙

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1.溢れ出す涙

 手術室のドアが開くと、水が勢いよく蛇口から流れる音が、辺りに響いていた。 「夏樹(なつき)、お前また腕を上げたな」 「え? そうですか? 有難うございます」  二人の外科医が、それぞれの手を丁寧に洗い終えると、水の出が止る。 「じゃ、僕、家族に説明行くわ。またな~ あっそうだ、今晩久々に集まって、飲みに行くんだけど、夏樹どうする?」 「あ、俺は当直なんで、無理です」 「お前、またか? 御曹司なのに大変だな。どちらにせよ飲み会なんて参加しないよね。じゃ、お疲れ」 「佐野(さの)先輩、お疲れ様でした」  佐野は、右手を上げヒラヒラとさせると、自動ドアの向こうに消えた。  俺、加瀬夏樹(かせなつき)は、ここで心臓血管外科医として働いている。  御曹司と呼ばれるのは、数年前他界した祖父が、ここ加瀬総合病院の創設者で、元厚生労働大臣、そして父がここの理事長だからだ。  しかし、幸いにも俺に後継ぎなどのプレッシャーはない。何故なら、俺には三人もの兄がいて、尚且つ三男でさえ、俺とは八歳も年が離れている。  一番目がここの院長を勤め、二番目は国会議員、三番目は、製薬会社の社長だ。  勿論、祖父の助力があっての事だが、三人の兄はとても優秀であり、当然の役職だと言える。  秀逸な家族を持つ俺だが、彼等に対して特に妬みなど無く、逆に自由に暮らせる事に感謝しているのだ。  先程の男は、佐野壮太(さのそうた)、同じく心臓血管外科の副部長で俺の先輩だ。かなりのチャラ男だが、三十代で副部長になる程の実力の持ち主だ。  夏樹は、先程終わった手術をぼんやりと回想しながら、自動販売機前に立っていると、誰かが背後から硬貨を投入した。  犯人は、この病院の院長である長男の亮一郎(りょういちろう)だ。 「お疲れ~ やっぱり、なっちゃんには、なっちゃんかな?」  そう告げると、勝手にジュースのボタンを押し、取り出し口にオレンジ色の缶が落下した。 「はぁー コーヒーが飲みたかったのに、、、、勝手に買うなよ、バカ兄貴! 違ったバカ院長!」 「じゃあ、なっちゃんは、僕が飲むね。コーヒーのお金、はい」 「それくらい持ってるよ」  三人の兄に対して嫉妬心など微塵もないのは、何を隠そう奴等は全員ブラコンだからだ。  不服申し立てをするなら、俺の名前くらいだろう。  祖父が潤一郎(じゅんいちろう)、父は一郎(いちろう)、そして兄は、上から亮一郎(りょういちろう)万次郎(まんじろう)拓三(たくみ)と続く。  そう、皆の名前はとても古風であり、尚且つ産まれた順の数字が入っているのだ。  しかし俺は、夏樹。予定外に出来てしまった最後の子供には、女の子を期待したのだろう。 「病院では、その呼び方、止めろって言ってるだろうが。恥ずかしいって」 「手術の腕が上がたって聞いたよ。流石、僕のなっちゃん♡」 【全く聞いてねぇ💢】 「何で知ってんだよ」  夏樹は自動販売機から、缶コーヒーを取り出しながら尋ねた。 「愚問だなぁ、手術の後に即効、聞いたからね」  そう言うと、亮一郎は携帯を手にした。 「は~ そう言うのもういいって」 「今晩の集まりに行かないんだって? どうして? 僕も行くんだよ」 「当直」 「はぁ~ なっちゃん、まだそんな健気な事をしているのか」 「健気って、俺まだ研修中だよ」 「当直少な目のシフトに変えてあげる」 「やだよ。俺、もっと色んな経験したいんだ。救急って凄く勉強になる。だから、そう言うの大きなお世話。皆で楽しんで来てよ」 「お兄ちゃん、寂しいけど。なっちゃんの分も楽しんで来るね。じゃあ、僕、今から会議みたい。あ、コーヒー飲み終わってるなら、その缶、捨ててあげようか?」 「良いから、早く行け」 「じゃあね、なっちゃん」  キモイくらい、兄バカだが、俺は大好きなのだ。 「さて、俺も報告会か~」  その場から離れようとした時、何気にバルコニーに目が移った。  夏樹が今居る二階フロアには、大きいバルコニーがあり、患者やここで働く者が、時々訪れるのだ。 【ドックン】 「なん、、、、だ」  夏樹は、突然心臓の鼓動が早くなり、胸を押さえると少し前屈みになった。  昔、毎日のように味わったこの痛み。忘れていた恐怖が夏樹を襲う。    胸を押さえながら、再び視線をバルコニーに移すと、そこには女性の後ろ姿が見えた。  ストレートの髪が風になびいていて、スラっとしたシルエットが美しいと感じた。  胸の苦しみが治まると、夏樹の頬に何かが流れて来た。そっと手を添えると濡れていて、それは目元から現れている。 【涙だ】  夏樹は、無意識にボロボロと泣いていたのだ。  すると、その女性の横顔が見え、彼女の瞳が誰かを捉え微笑んだ。 「神木(かみき)先生」  女性の隣に並んだのは、神木愁(かみきしゅう)。  外科医の二年上の先輩で専門は消化器系だが、宿直など診療時間外勤務の時に顔を合わせる事が多く、外科医として尊敬出来る人物である。  バルコニーに立つ二人の雰囲気から、恋人同士なのだろうと感じた。  じゃれ合っている訳ではないが、醸し出す空気が、長年連れ添った夫婦の様だったからだ。 「加瀬、何やってんだ?」  突然、後ろから声を掛けられ、我に返った。 「町田」  町田麻美(まちだあさみ)は、夏樹の同期で、所属は消化器内科。これで医者になれるのかって、疑問符が付くほど大雑把で、常に一言多い女だが、男っぽい性格からか、女性があまり得意では無い夏樹でも、楽に会話が出来る。 「え? 泣いてるの? もしかして手術でドジッた?」  夏樹は、慌てて顔を袖で拭った。 「違う違う。目にゴミが入っただけだ」 「へ――」  全く信用していない。当り前だ、夏樹の涙の出方は尋常じゃなかったのだ。目を腫らしている可能性もある。 「あれ? 神木先生。わ! 女連れ、、、、これは看護師達にはショックだろうねって、あの人って確か、他の病院から転院してきた患者の家族。私、昨日説明とかさせられたから、覚えてる」 「そうなんだ」 「って事は、速攻で、患者の家族に目を付けたって事? がっかり~ 神木先生も他の外科医と同じかぁ」 「まさか! 俺には尊敬出来る先輩だ。それに長年の知合いぽくないか? あの二人」 「どうだか、ここの外科医ってモテモテだからね。あんたもそうでしょ。ほいじゃ、お疲れ~」  トントンと夏樹の肩を叩くと、ジュースを手に持ち場に戻って行った。  夏樹は、町田が立ち去った後、もう一度、神木の横に立つ女性の姿を目に映すと、その場を離れた。
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