連動

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 あるところに1人の男がいた。  会社に勤続14年。役職なし、持家なし、妻子及び交際相手なし。会社は中規模で、小さいが5階建ての自社ビルを持っていた。男が働く総務部は2階。1階はフロア全体が打ち合わせスペースとなっているため、社員が勤務する階としては2階が最下層だった。経理部も同じフロアに入っていたが、使用スペースも広く優遇されていた。総務部よりも抱えている人数は多く、会社経営における重要部署のためだ。総務部は隅に追いやれていたが、反論する者も特にいなかった。  男はそんな総務部の中でさえもぱっとしなかった。自分の意見を言うことはほとんどなく、主張をすることなど皆無。基本的に他者の意見に合わせた。痩せ型の体躯のせいか、歩く姿も座った姿も貧乏神のようだった。他の社員から大々的に嫌われていたわけではないが、当然好かれているはずもなく、ぞんざいに扱われていた。無視されることもしばしばあった。  あるとき、社内の電球交換を頼まれ4階の営業部に行くと、現場にいたのは入社1年目の女の子だった。男の姿を発見すると、ぱっと花が咲いたように顔全体が輝いた。半分学生のような若々しいエネルギーが周りの空気を揺らめかせる。 「よかった・・・!こちらです!」 女の子は会議室に男を案内した。まもなくここで大事な商談があるため、電気が付かず困っていたという。 男がのそのそと電球を交換し明かりが付くと、女の子は満面の笑で男に礼を言った。男はたじろいだ。あまりの衝撃に、たじろぐことにすら時差があった。人から有難がられたのなんて、一体いつぶりだろう——男は久しく微動だにしていなかった心が震えるのを感じ、心臓発作と勘違いして本当に救急車を呼びそうになった。かあっと胸が熱くなるようで、顔もなんとなく耳の方からじんわりしてきた気がする。手足はいつも通り冷えていたが、近い未来、幸せな柔らかさが包んでくれることを予期して密かにわくわくしていたことを男は知るよしもなかった。 「来週から10月に突入しますが、まだまだ真夏日が続きそうですね。皆さま、水分補給をしっかりとって、熱中症にはお気をつけください」 それではまた明日、と休憩スペースのミニテレビが言った。  クーラーがガンガンに効いている中で、社員達は団扇で仰ぎながら昼食をとっていた。異常気象か、9月後半から順調に涼しくなっていた気候は一変、連日真夏日に戻っていた。 「いやー、どうかしちゃってるよ、日本」 「暖冬どころじゃないんじゃないか?今年は」 気力なくブーブー言う声が聞こえる。 そんな中、1人だけふわふわと清々しい気分でいる者がいた。総務部の男である。  実はこの男、信じられないことに新人の女の子との電球の一件があってから、その後諸々の出来事を経て彼女と交際を始めたのである。 歳の差13歳。男にとってはいつぶりの恋人になるのか本人にもまるでわからなかった。加えて女の子は顔も可愛いだけでなく、性格も非常によかった。金も地位も名誉もない男を素直に愛し、穏やかに幸せを感じていた。 男の見える世界はガラリと変わった。道路は光り輝き、会社の壁からは天使の合唱や壮大なオーケストラが聞こえてくる。周りの社員達がいつも自分に笑顔を向けているようにさえ見える。人生でこんなに幸福な気持ちを味わえるとは思いもしなかった。夢ではないだろうか—— 男は日々高揚感でいっぱいだった。日本全体は季節外れも甚だしい、焼き焦がれるように熱く輝く日々を続けていた。  しかし、男の幸福はほんの1ヶ月で終わってしまった。まもなく11月、日本の真夏日が記録を作ろうとしていた矢先、女の子と男の交際が終了したのである。原因は女の子に他に好きな人ができたことだった。無理もない。自分なんかよりももっと若くて将来有望な人を選んだ方が彼女のためになることは明確だ。男は事実を素直に受け止め、泣きながら謝罪する彼女に砂のように脆い笑顔を向けた。 次の日から、男の歩く道はまた灰色に戻ってしまった。天使の合唱ももう聞こえない。事実を理解し受け入れたとしても、深い深い悲しみはそうすぐには拭えない。男は毎晩1人で泣いた。少しの酒と共に泣いた。泣いて泣いて、泣いた。  日本の猛暑がなんとか11月に入る前に終わり、冬に限りなく近い秋がいきなりやってきた。秋雨前線も遅れていたのか、猛暑が終わるとすぐに冷たい雨が続いた。しとしとしとしと。急激な気候の変化に体調を崩す者も多かった。男もなんとなく風邪ぎみのような感じになりながらも、悲しみはまだ続いていた。湿った気持ちはなかなか離れてくれそうにない。連日続き始めた雨も、一切止む気配はなかった。男は毎晩泣き続け、窓の外で雨は延々と降り続けた。  悲しみの海からなかなか抜け出せないうちに、追い討ちをかけるように信じられない事件が起きた。先月男と交際をしていた新人の女の子が、亡くなってしまったのだ。次に彼女と交際していた男のDVによるものだと、テレビのニュースは言った。営業部のフロアもバタバタしていた。  男はテレビ画面に映し出された、先月まで自分が一番近い距離で見ていた女の子の写真と、その横に並べられたカワハギのような顔の男を見た。カワハギのような男は若いわりに頬にハリがなく、歯並びも悪かった。目は死んでいる。画面を見ながら、男は全身を震わせた。いつの間にか拳を握っていた。これが心臓発作ならこのまま死んでしまいたいと思った。カワハギのような顔はまだ画面に映っており、目が離せなかった。なんとなく自分と顔の造形が似ているようなところがある気がして、腹の底から虫唾が走った。こんな、こんな奴に—— 画面の中の女の子はいつもの可愛らしい笑顔だった。短い人生。この子が何をしたと言うのだ、貴様に?こんな、取るに足らないゴミのようなカワハギ人間に?男はテレビをぶち壊したかった。放り投げたかった。そうすることで、このカワハギ人間がぐちゃぐちゃに死ぬことを心の底から願った。しかしそれを実行する腕力も度胸もなかった。男の目には涙が溢れ、ボロボロと躊躇うことなくこぼれていった。悔しい。くそったれ。あんなやつ、あんなやつ——。どんな目で見られても、どんなことを言われても怒らなかった男は、生まれて初めて体の中で火山が噴火しているような憤りを感じていた。熱い。抑えきれない。行き場のない、破壊的な怒りだった。 「各地方で急激に発達した8つの台風は、どれもアメリカのハリケーンと同等の勢力とされ——」 「えー、ああ!富士山が噴火しました!噴火です!今まさに私の目の前で噴火が起きています!近隣の皆様は急いで避難してください!繰り返します、富士山が噴火しました——」 「揺れています。えー、都内スタジオに大きな揺れが起こっております。まだ続いています。えー、地域の皆様、どうか安全第一の行動を取ってください。えー、まだ揺れています。先程より揺れが大きく——」  総務部の男の怒りが収まる気配はなかった。男は何もかもがどうでも良くなった。自分の憤りを体現したような全国の信じられない天災に、好意すら抱いた。 
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