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それからあっという間に時が過ぎ、庭に咲いていた満開だった桜もすっかり散ってしまった。屋敷の周りには青々とした葉をつけた木々に景色が様変わりし、そよ風が新緑を揺らす季節。だが、雪乃はあれから屋敷内で一度も時雨を見かけておらず、まだ再会できていなかった。
「覚えることが多すぎて、倒れそう……」
ここしばらくは、多喜からの叱咤を受けながら日々の仕事に忙殺されていたのだ。それに、そもそも雪乃は新人女中の身でしかなく、任されるのは裏の庭掃きや蔵の片付けと人が少ない外の掃除が主。上官たちの身の回りの世話は、粗相があっては大変だからと新人には役目が回ってこないため、自ずと雪乃が時雨と出会う確率は低くなるわけである。
そこでたどり着いた答え。
「会えないなら、会いに行けばいいのよ」
思い立ったが吉日だ。時雨になかなか会えないと頭を悩ませていた雪乃は、「自ら会いに行く」という結論に達し、休憩時間を使って時雨を探しに行くことにした。
他の隊士や女中たちから聞き込み調査をし、時雨がいる場所の目星はつけてきた。まずは、そこから探してみることにする。さすがにまだ下っ端の雪乃が副隊長の自室周辺をうろつくことはできないが、稽古場や食堂、中庭くらいなら問題はあるまい。
「もう一回会って、ちゃんと確かめないと」
時雨という男が、前世の記憶に登場する「浅葱」と同一人物なのか。本当に、彼は雪乃のことを覚えていないのか。聞きたいことは、たくさんあった。
限られた休憩時間の中で、時雨を探さなければいけないため、雪乃の足は自然と早足になる。長い廊下を歩き、まずは剣術稽古をしているという稽古場に向かうことにした。
しばらく歩くと屋敷とは別棟にある稽古場にたどり着く。中からは隊士たちの血気盛んな掛け声が聞こえており、ちょうど稽古の最中のようだった。
「ここにいるかな……」
堂々と中に入ることはできないので、雪乃はひとまず建物の下方にある格子窓から様子を伺ってみることにしたのだが、残念ながら見えたのは隊士たちの足元だけ。
「これじゃあ、誰が誰だか分からないじゃない」
なんとかして顔が見えないか、と、雪乃は姿勢を低くして中を覗こうと試みるものの、あまり変わらない。仕方ない、もう少し屈んでみるか……と思ったところで、ふと後ろから声を掛けられた。
「あの〜……」
「わあ!」
急に背後から声を掛けられて雪乃は、ばっと勢いよく振り向き、声の方を見遣った。そこには竹刀を両手で握りしめた青年が、びくびくと怯えた様子で雪乃のことを見つめていた。
「びっくりした〜……!」
「お、驚かせてすみません!」
青年はそう言うと申し訳なさそうに頭を下げ、頼りなさそうな瞳を向けてくる。
色白の肌に肩くらいまでの長さがある髪、垂れ目がちな瞳。整った顔立ちをしていて女のようにも見えるが、隊服を着ているので暁の隊士の一人なのだろう。竹刀を持っているところをみるに、今から稽古なのかもしれない。
「中の様子を見ていたみたいですけど、誰かにご用ですか?」
そう尋ねられてから、雪乃はこの青年に地面に這いつくばっていた姿を見られていたことにはっと気づいた。このままでは、いつぞやのときみたく、また「不審人物」の汚名を着せられてしまう。焦った雪乃は「少しこっちへ!」と、青年を物陰に引っ張り、両手を合わせて頭を下げた。
「お願いです!ここで見たことは誰にも言わないください!」
「誰にもって……どうしてですか?誰かに用があったんじゃ……」
「地面に這いつくばって中の様子を見てたなんて知られたら、また変人扱いされちゃうから!」
「また……?」
青年が首を傾げてこちらを見るので、雪乃は慌てて「とにかく!」と言葉を継いだ。
「誰にも言わないでいてくださると、とっても助かります!」
雪乃が青年の手を両手でぎゅっと握り締めながら言うと、青年の頬がほんのりと赤く染まる。女らしい顔立ちのせいか、その表情はその辺の女たちよりも可愛らしい。
「わ、分かりました!誰にも言いませんから手を離してください!」
「本当に⁈ よかった〜!」
安心した雪乃は、ほっと息をついて青年の手を解いた。青年はまだ照れが治らないようで、雪乃に背を向けて何やらぶつぶつと呟いている。だが、そんな青年のことなど目に入っていない雪乃は、稽古場を見たあと、また青年に向き直った。
「それにしても、あなたはここで何をしてたの?稽古はもう中で始まってるのに」
雪乃が尋ねると青年は眉を八の字に曲げて、力なく笑った。
「僕、剣の使い方が下手くそで……。まだ誰かと相手を組んでの稽古ができないから、こうして外で素振りの練習をしていたんです」
「下手くそって……そんなに?」
雪乃が首を傾げると、青年は少し雪乃から距離を取り、持っていた竹刀を一振りした。その動作はぶれていて弱々しく、確かにお世辞にも上手いといえる剣さばきではない。
雪乃はう〜んと唸ると、青年に「もう一回振ってみてください」とお願いした。
「こ、こうですか?」
青年は再度竹刀を振ったが、やはりその一振りは彼の雰囲気同様頼りなく、力が上手く入っていないようだった。
「少し竹刀を借りてもいいですか?」
「あ、はい!どうぞ!」
青年から竹刀を受け取った雪乃は、しっかりと柄の部分を握りしめて目を閉じた。すぅっと息を吸って肩の力を抜く。そして、目を開け青年の顔を見据えたかと思うと、竹刀を一振りした。無駄な動作がなく、真っ直ぐにおりた竹刀は先ほど彼が見せた一振りよりも力強かった。
「す、すごい……。どうやったら、そんな風にできるんですか」
「お腹にしっかり力を入れて、真っ直ぐ前を見ること。それだけよ?」
「真っ直ぐ前を……。こ、こうですか?」
青年が雪乃を真似をして竹刀を一振りする。その太刀筋は先ほどよりも軸が安定して、ぶれが減ったように見えた。
「そう!あと、もっと自分に自信を持って竹刀を振ってみましょう? 剣は使い手の心を映すもの、って言われていますから」
「剣は使い手の心を映すもの、ですか……」
自分の頭に刻みこむようにその言葉を呟いた青年は、ぱっと顔を上げて雪乃を見た。
「あの、あなたのお名前は?」
「雪乃、ですけど」
「僕は千里といいます。あの、雪乃さん……」
千里と名乗った青年は、すがるような眼差しをして雪乃の手を取り、懇願した。
「僕に剣術を教えてください!」
「はい?」
千里から思いもよらぬお願いをされ、目が点になる雪乃。相手は仮にも暁の隊士である。そんな隊士相手に、一介の女中が剣術を教えるだなんて。だが、千里はこれは名案だと言わんばかりに目をきらきらと輝かせて雪乃に詰め寄った。
「雪乃さんの剣さばき、僕なんかよりも全然すごいです!僕をぜひ弟子にしてください!」
「で、弟子って……そんなの無理無理!剣術っていっても昔、お父様に護身用のために教わってくらいだもの」
「それでも構いません!とにかく今よりも上達しないと、僕いつまでたっても素振り稽古になっちゃいます〜……」
しゅんとうなだれる千里は、大きな瞳をうるうるとさせて雪乃を見つめている。その顔立ちは、本当に男にしておくにはもったいないほどのかわいらしさ。女の雪乃も思わず「うっ!」と、絆されてしまいそうになるほどである。
(って、そんなことしてる場合じゃないんだった!)
千里に声をかけられたのは、この稽古場に探している人物がいるかどうか確認するため。時雨を探しにやってきたのだ。こんなところで油を売っている場合ではない。
千里には申し訳ないが、ここは丁重にお断りさせていただこう、と雪乃は決心した。だが、「あの、やっぱりわたし」と言いかけたところで、千里がにこりと笑う。
「お礼に福寿のお菓子をお持ちする、というので手を打っていただけませんか」
「お引き受けしましょう」
即答だった。高級菓子店「福寿」の菓子を前に、先ほどの雪乃の決意はいとも簡単に崩れてしまった。現金な性格である。
「いいんですか⁈」
「ええ。福寿の菓子……じゃなくて、千里さんのためならわたしも気合いを入れて稽古のお手伝いをします!頑張って、あの稽古場を目指しましょう!」
「ありがとうございます!」
二人はがっしりと握手を交わすと、「素振りからの卒業」を目標に剣術稽古を行うことになった。
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