ひまわりの愛しさ

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それから無事、今日の仕事を終えた雪乃は外出許可をもらったあと、ご機嫌な様子で福寿へと向かった。 千里に福寿のお菓子をもらって以来、すっかりその味に魅了されてしまった雪乃。だが、街に出かければ、つい髪飾りや帯紐など趣味にお金を使ってしまうことが多いので、高級菓子を買う余裕というものがなかなかないのである。時雨を焚きつけてくれた和泉には、感謝しかない。 「ごめんくださーい!」 意気揚々と店へ乗り込んだ雪乃は店員を見つけると、琥太郎の指示通り渡された封筒を差し出した。にこやかな笑みで、その封筒を受け取った店員が中身を確認する。 「確認いたしました。どうぞ、こちらへ」 にこりと笑った店員は手紙をしまい、店の奥の方へと手を向けた。 「こ、こちら?」 「ええ、お待ちしておりました」 状況が掴めない雪乃は首を傾げながらも、店員の後ろをついていく。店へは何度か来たことがあるが、奥へと案内されたのは初めてだ。そのまま後をついていくと奥に階段があった。 「足元にお気をつけてくださいね」 「は、はい!」 階段を一段一段上がるたびに、ぎしぎしと木が軋む音がした。そして、階段を上がって案内されたのは、ある部屋の前。 「どうぞ、こちらへ。お連れ様がお待ちでございます」 「お連れ様?」 「失礼します」と言って店員が襖を開けると、そこにいたのは窓際に座って外を眺めている時雨の姿。 「時雨様……⁈」 雪乃が目を見開いて驚いていると、窓から視線を移した時雨と目が合う。 「ああ、来ましたか。いらっしゃい」 「いらっしゃいって……どうして時雨様がここに⁈」 「お得意様は、個室で下のお菓子をいただけるんです。福寿のお菓子を、と昨日約束したでしょう」 「そうですけど……」 まさか、こんな特別待遇を受けられるとは思っていなかった。 「そんなところで立ってないで、座ったらどうですか」 「は、はい」 呆然としている雪乃をよそに、時雨はいつもと変わらぬ調子。このまま部屋の前に突っ立っているわけにもいかず、雪乃は時雨に従って中へ入ることにした。 「では、すぐにお茶と茶菓子を用意しますので、ごゆっくり」 ここまで雪乃を案内してくれた店員は、にこりと笑って襖を閉めて行ってしまった。思いがけず二人きりにされ、気まずくなる雪乃。 (一体、何がどうなってこうなってるの……) 窓際に座っていた時雨も立ち上がり、雪乃の真向かいに腰を下ろした。 「時雨様って、ここのお得意様だったんですか」 何か話さねばと思い、話題を振ってみると時雨は「ええ」と何でもないような口調で返してくる。 (そういえば、前に食堂に甘いものを食べに来たとか何とか言ってたっけ) あまり甘いものが好きな印象はない時雨だが、どうやら甘党のようだ。雪乃がそんなことを考えていると、ほどなくして部屋の外から「失礼します」と声がかかる。時雨が返事をすれば、盆を手にした先ほどの店員が戻ってきた。 「お待たせしました。時雨さんのご希望通り、うちのお菓子全種類お持ちしましたよ」 「わざわざありがとうございます」 雪乃には二人のそんなやりとりなど聞こえていないのか、目の前のお菓子に釘付け。最中に団子、おはぎ、大福と福寿の人気商品が並ぶ皿は、雪乃にとっては夢のような光景である。 「す、すごいです……!こんなにたくさん……!」 「お好きなものをどうぞ」 「いいんですか……⁈」 「ええ、もちろん」 時雨の返事に目を輝かせた雪乃。その様子に店員はちらりと時雨を見遣ってくすりと笑みをこぼしたが、お菓子に夢中の雪乃はそれに気づかない。机の上に茶と皿を並べたあと、店員は「どうぞごゆっくり」と言い残して部屋を出ていった。 静かになった部屋。先ほどまでは話の話題に頭を悩ましていた雪乃だったが、今は「福寿のお菓子って美味しいのはもちろん、見た目も繊細かつ華やかで大好きです」と、やや興奮気味。嬉しそうな笑顔を向けられた時雨は、頬杖をつきながら雪乃のことをじっと見つめ返していた。 「そんなに好きでしたか」 「福寿のお菓子なんて、誰でも好きに決まってるじゃないですか〜!高級なので普段はそんなに頻繁には買えませんけど、今日は夢みたい……」 うっとりとそう語る雪乃に、時雨は「食べたいものをどうぞ。もちろん、全部でも構いませんよ」と告げる。 「全部でもですか⁈」 「ええ」 「こ、こんな幸せあっていいの……」 いまだに夢見心地の雪乃は、そんなことを呟きながらも「では、いただきます」と一番近くにあった団子に手を伸ばした。そして、そのまま口に運んだ団子をぱくりと食べる。 「お、おいし〜〜〜‼︎」 たまらない、と言わんばかりの表情。雪乃の顔はすっかり緩みきって、にやけを堪えるのに必死そうである。 「美味しいです、この団子!ほっぺたが落ちるって、このことを言うんですね‼︎」 雪乃の言葉に、時雨の肩の力がふと抜けたように見えた。いつも鋭い瞳を光らせている時雨の雰囲気が、少しだけ柔らかくなる。そして、 「……その能天気な顔を見ていると、気が抜けますね」 と、独り言のように呟いた。だが、好物の菓子を食べられて幸せいっぱいの雪乃から「何ですか、それ」と、笑みを向けられる。 「悩みなんてなさそうだな、と」 「失礼な……!わたしにだって悩みの一つや二つくらいありますよ!」 「ほお、例えば?」 「ええっと、甘いもの食べすぎて太ったらどうしようとか、次にお給金もらえる日まで、どのくらいお金残るかな、とか……?」 雪乃が笑いながらそう言うと、やや呆れ気味に「平和な悩みで何よりです」と返された。時雨はそのまま店員が用意した茶を飲みながら、「ほかもどうぞ」と言葉を継ぐ。 「いいんですか⁈」 「もちろん、そのために今日は呼んだんですから。その代わり、あの医者に尋ねられたら、しっかりこのこと報告しておいてくださいよ」 和泉に対して敵対心を燃やしている時雨を見て、雪乃はふふと笑う。 「和泉様に負けたくないだなんて、案外子どもっぽいところがあるんですね。時雨様」 可愛いなと思いながら微笑ましい気持ちでそう言った雪乃だったが、時雨からはぎろりと鋭い視線が向けられる。 「もうお腹いっぱいですか。だったら、残りは全部私がいただきます」 時雨が自分の皿に載っている菓子に手を伸ばそうとするのに気づき、はっとした雪乃は「あ、ちょっと待ってください!まだいただきます〜!」と慌てて、その手を止めようとする。 途端、触れ合った手と手に、どきりと胸が鳴った。気づけば雪乃の頬は赤く染まり、ぱっと手を離す。そういえば個室に二人きりだということを、今さらながら意識してしまった。 「隙あり」 だが、次の瞬間、前から伸びてきた手に皿に載っていた大福を攫われる。 「ああ‼︎」 「うん、さすが福寿さん。相変わらず、この絶妙なあんの甘さがたまらない」 もぐもぐと口を動かしながら、淡々と福寿の大福の美味しさについて語る時雨に雪乃の肩の力もすっかり抜ける。その口元にはいつの間にか笑みが溢れていた。 「もう……!この最中と団子はわたしに食べさせもらいますからね」 そう言いながら、また菓子に手を伸ばす雪乃。怒った風を装いながらも、嬉しそうに笑う。そんな雪乃を時雨はじっと見つめていたのだが、菓子に夢中の雪乃はそれに気いていないようだった。 そこで時雨が、おもむろに雪乃に手を伸ばす。そして、雪乃の顎に触れたかと思うと──。 「……っ!」 ぐい、と顔を上げさせられ、目が合う。突然の出来事に目を見開いて驚いていた雪乃は、いまの状況を自覚すると顔を赤らめた。胸がどきどきと鳴って、うるさい。 「な、なんですか……⁈」 切れ長の瞳は雪乃のことをじっと見つめたまま、口の端をすっと撫でた。 「……粉がついてましたよ」 目を細めた時雨はそう言うと、手を離した。雪乃はおしぼりで手を拭いている時雨を見て、はっとする。 (だったら、そう言ってくれたらいいのに……!びっくりするじゃない……!) 一瞬流れた、と雪乃は思っている甘い雰囲気に緊張してしまい、何を話せばいいのか分からない。ちらりと時雨を見れば、頬杖をついて、ずっとこちらを見たままで、余計に顔が赤くなる。 (え……?これ、どういう展開なの……⁈) なんだか、時雨から向けられる視線がいつもと違うような気がして落ち着かない。ますます混乱状態が続く雪乃だったが、そんなとき──。 「ぶえっっくしゅんっ‼︎」 この場に不釣り合いな、大きなくしゃみが響いた。とっさに鼻を手で覆ったものの、後の祭りである。時雨を見遣ると、呆れた様子で雪乃を見ていた。 「……なんですか、その親父くさいくしゃみ」 「す、すみません」 へらりと笑って誤魔化す雪乃だったが、先ほどまでの雰囲気は吹っ飛んでしまった。小さく息を吐いた時雨。 「……やっぱり、あなたといると気が抜ける」 「やっぱりって何ですか、やっぱりって!」 そんなやりとりをしていたら、いつも通りの会話ができるようになった雪乃。それから二人は、菓子とお茶をつまみながら他愛もない話を続けた。こんな時間がずっと続けばいいのに、と思いながら。
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