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時雨との茶会からひと月が経った。季節はすっかり夏めいて、風通しの良い涼しげな色や柄の着物を着た人々が通りに増えてきた頃合い。店先では袖をまくった商人たちが、額に汗を垂らしながら道ゆく人々を呼び込む掛け声で溢れていた。
そんなある日の夕刻、いつもより早めに仕事を終えた雪乃は買い物をしに城都のある店を目指して歩いていた。囮捜査に協力したからとはいえ、もらってばかりの時雨に何かお返しができないかと思い、お礼の品を買うというのが今回の目的である。
雪乃の手から直接渡すのは難しいかもしれないが、琥太郎に相談したところ橋渡し役を買って出てくれたので渡す手筈も万全だ。
「葵さんに聞いたおすすめのお店、初めて行くけど、この道で合ってるかな」
時雨が甘味好きだということは、この間の茶会のときや千里からの話で調査済みだ。そこで、どこかおいしい店を知らないかと藤乃と葵に尋ねてみたところ、教えてもらったのが今向かっている店だった。
「ふふ、どんな反応するかしら」
何を贈ろうか、とそんなことを考える時間は楽しかった。口元には笑みが浮かび、店へ向かう足取りも軽い。
だが、店までの距離もあとわずかというとき、突然背後から「お待ちなさい、そこのお嬢さん」と呼ぶ声が聞こえてきた。足音もなく、急に聞こえてきた声に、雪乃の体はびくりと震えた。ゆっくりと振り返ると、そこには老女の姿。
「な、なんですか……?」
振り向いた先にいたのは、腰をくの字に折り曲げ、杖をついた白髪の老婆。腫れぼったい瞼に、潰れたような鼻。にやりと笑みを浮かべた大きな口がどこか不気味で、雪乃は思わず一歩後ずさった。
「わたしに何か用ですか?」
怪訝な表情で老婆を見る雪乃。対する老婆は、そんな雪菜に下から上まで何かを見定めるような視線を送ってくる。
「こうして対面するのは初めてじゃなぁ、お嬢さん。だが、わたしゃはあんたのことをよ〜く知っておるよ」
そして、ちらりと雪乃の顔を覗きこんだ老婆は「のう、哀れなお姫様」とにやりと気味の悪い笑みを浮かべた。
「お姫様」──。そう呼ばれた瞬間、雪乃の目が大きく見開いた。それは、かつて前世で呼ばれていた雪乃の呼び名。だが、今世でそれを知る人間など誰もいないはずである。手をぎゅっと握り締めて、後ずさる。
「あ、あなた、何者なの⁈」
雪乃はとっさに老婆から距離を取って、じっとこちらを見てくる淀んだ瞳を見つめ返した。
「ただの、しがない老ぼれ婆さんだよ」
老婆はそう言って笑みを深くした。だが、雪乃の前世を知っているこの老婆が「ただの老婆」であるはずがない。「だったら、どうして私のことを『お姫様』だなんて」と、雪乃が問うと、高笑いをする老婆。
「はっはっはっ!混乱するのも無理はないとも。だが、わたしゃはお前の強い望みを聞いてこの場所へやってきたんだよ、姫様」
老婆はそう言うと、大きな口にまたにやりと不気味な笑みを浮かべた。
「さっきから『姫様』って……、あなた、わたしの前世を知ってるの?」
「よ〜く知っているとも。お前の強い望みを聞いて、この場所へやってきたと言ったじゃろう?」
「強い、望み……?」
どういうことだろう、と雪乃が思案していると「あれだけ熱望した願いだというのに。『それが叶うなら、なんだってする』と言ったことを忘れたのか」と、しゃがれた声で大笑いする老婆。その瞬間、思い出す。前世の最期に、浅葱に向けたあの言葉を。
『今世では、叶わなかっ、たけど……、生まれ変わっても、あなたに……また、あいたい。それが叶うなら、わたし、なんだってする……』
「まさか……!」
「そのまさかじゃ。わたしゃ、お前のその願いに応えてやったんだ」
身体中に、ぞわりとした寒気が走る。老婆の言うことが本当ならば、雪乃が浅葱と同じ顔をした時雨と出会ったのは、偶然ではないということになる。
「だったら、やっぱりあの人は……時雨様は、浅葱の生まれ変わりなの⁈」
「ああ、そうとも。人は、生まれ変わっても姿形は変わらん。すぐにあやつが、前世の想い人じゃと分かったじゃろう?」
「それはそうだけど……。でも、どうして浅葱には前世の記憶がないの⁈覚えているのはわたしだけで、浅葱はすっかりわたしのこと忘れてるのよ」
雪乃が詰め寄ると、老婆はふんっと鼻で笑った。
「叶えてやったのは、おまえさんに前世の記憶を思い出させることだけじゃ。いくつも叶えてやることはできん。それに己の願いを叶えてもらうのに、何の対価も必要ないと思うか?望みを叶えるためには、その代価を払わねばならん」
「代価って……」
雪乃が恐る恐る尋ねると、老婆はおもしろくて仕方がないとでもいうように、けらけらとひと笑いしたあと、淀んだ瞳を大きく見開いて、こう告げた。
「次の春を迎えるまでの間、あの男とお前さんが結ばれなければ、その命をいただく。それが、望みを叶えてやった代価じゃよ」
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