27人が本棚に入れています
本棚に追加
4
「ゴマ、外に出るか」
いつものように、お父さんが合図をする。
僕はベッドから飛び起きて、玄関へと走る。
「お前は本当に散歩が好きだな」
僕の首に紐を付けながら、お父さんが笑う。
お父さんが言うには、この紐は僕が迷子にならないように、との事だ。
畑仕事に行く時は毎回付けないけれど、僕は迷子になった事は一度もない。
たとえどこかではぐれたとしても、僕は一人で帰る事が出来る。
それでも黙って紐に括られているのは、心配性のお父さんが許してくれないからだ。
最近では、散歩にユメちゃんが同伴するようになった。
小学生になったユメちゃんは、長く歩く事が出来るようになった。
僕は、お父さんとユメちゃんと一緒の散歩も好きだった。
「ゴマ、行こう!」
元気よくユメちゃんが言う。
その日は、いつもと違うコースを歩いていた。
「たまには違う所に行きたい」というユメちゃんの希望だ。
僕も、見慣れない場所に気分が浮かれていた。
初めての道は、新しい発見が沢山ある。
ユメちゃんも嬉しそうに道端の花を摘んでいる。
お父さんは、片手に僕を繋いだ紐、もう片方の手にユメちゃんから受け取った花束を持たされていた。
「ちょっと待て」
皆で楽しく歩いていると、突然、お父さんが足を止めた。
僕は何事かと振り返る。
「あれ、猪か?」
お父さんが見詰める方向に、大きな獣が居た。
鋭く尖った牙を持ち、地面を頻りに嗅いでいる。
まだこちらには気付いていない。
僕はぞっとした。
「ユメ、ゴマ、後戻りして帰ろう」
そう言って、お父さんは僕を引っ張った。
僕も賛成だった。
あんな大きな獣、見た事がない。
早く帰って、安全な場所に逃げなければ。
僕は、元来た道を戻ろうとした。
けれど、ユメちゃんは立ち止まったまま、ただ泣きそうな顔をしている。
「ユメ、帰るんだ」
お父さんがユメちゃんの手を握った。
ユメちゃんは小さく頷いたが、やはり動かない。
恐怖で足が竦んでいる。
お父さんは、ユメちゃんを抱き上げた。
しかしその時、すぐ背後に獣が迫ってきている事に気が付いたのは、僕だけだった。
興奮している猪は、僕達を目掛けて突進してきたのだ。
僕はなりふり構わず、走り出した。
僕の紐を持っていたお父さんは、大きく体のバランスを崩した。
「わあ!」
お父さんが驚いて声を上げる。
そこで漸く、すぐ後ろに荒ぶる獣が迫ってきている事に気が付いたらしい。
僕達は精一杯走った。
けれど、その距離はどんどん縮められる。
追っ手の足は、僕達よりも圧倒的に早い。
山道を駆け抜け、田園の畦に出た。
僕とお父さんは、滑り落ちるように田んぼの中に入った。
ユメちゃんを抱いたお父さんは軽く転んだが、すぐに立ち上がった。
山の獣は、未だ追いかけてきている。
その時、僕の体だけがぐんと地面に引っ張られた。
僕とお父さんを繋いでいた紐が、背高い雑草に引っ掛かったのだ。
僕は必死に暴れたが、紐は草に絡まったままだ。
一刻も早く、ここから逃げなければ。
分かっているのに、拘束された体が前に進まない。
猪が、すぐ目の前まで来ている。
「くそ、この野郎!」
お父さんが大声を上げて、猪に足を振り上げた。
がん、と鈍い音がした。
猪の鼻先に踵が命中したのだ。
猪は獣の雄叫びを上げて一度立ち止まったが、すぐに再び向かってきた。
怖い。
僕は、甲高い声で鳴いた。
お父さん。
お父さん、助けて!
猪の牙が、僕の後ろ足を掠めた。
びりっとした痛みが全身を駆け巡る。
お父さんは田んぼの土塊を握って、猪に向かって投げた。
何度も何度も投げつけた。
野生の生き物と素手で戦う術のないお父さんは、それでも必死に立ち向かった。
猪にとっては、痛くも痒くもなかっただろう。
けれど、ふと気が変わったのか、山の獣はそのまま踵を返し、元来た方へと走っていってしまった。
辺りが静かになる。
お父さんの荒い呼吸だけが聞こえる。
僕達は、助かったのだ。
まだ抑え切れない興奮そのままに、目を見開いたお父さんが僕を見た。
僕の後ろ足からは、血が滴り落ちていた。
「ゴマ、お前、足を」
お父さんの声に、ずっと黙っていたユメちゃんも、糸が切れたように涙を零した。
「ゴマが、ゴマが死んじゃう」
泣きしきる声が辺りに響く。
お父さんが、ユメちゃんの頭を撫でた。
最初のコメントを投稿しよう!