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「ゴマ、外に出るか」 いつものように、お父さんが合図をする。 僕はベッドから飛び起きて、玄関へと走る。 「お前は本当に散歩が好きだな」 僕の首に紐を付けながら、お父さんが笑う。 お父さんが言うには、この紐は僕が迷子にならないように、との事だ。 畑仕事に行く時は毎回付けないけれど、僕は迷子になった事は一度もない。 たとえどこかではぐれたとしても、僕は一人で帰る事が出来る。 それでも黙って紐に括られているのは、心配性のお父さんが許してくれないからだ。 最近では、散歩にユメちゃんが同伴するようになった。 小学生になったユメちゃんは、長く歩く事が出来るようになった。 僕は、お父さんとユメちゃんと一緒の散歩も好きだった。 「ゴマ、行こう!」 元気よくユメちゃんが言う。 その日は、いつもと違うコースを歩いていた。 「たまには違う所に行きたい」というユメちゃんの希望だ。 僕も、見慣れない場所に気分が浮かれていた。 初めての道は、新しい発見が沢山ある。 ユメちゃんも嬉しそうに道端の花を摘んでいる。 お父さんは、片手に僕を繋いだ紐、もう片方の手にユメちゃんから受け取った花束を持たされていた。 「ちょっと待て」 皆で楽しく歩いていると、突然、お父さんが足を止めた。 僕は何事かと振り返る。 「あれ、猪か?」 お父さんが見詰める方向に、大きな獣が居た。 鋭く尖った牙を持ち、地面を頻りに嗅いでいる。 まだこちらには気付いていない。 僕はぞっとした。 「ユメ、ゴマ、後戻りして帰ろう」 そう言って、お父さんは僕を引っ張った。 僕も賛成だった。 あんな大きな獣、見た事がない。 早く帰って、安全な場所に逃げなければ。 僕は、元来た道を戻ろうとした。 けれど、ユメちゃんは立ち止まったまま、ただ泣きそうな顔をしている。 「ユメ、帰るんだ」 お父さんがユメちゃんの手を握った。 ユメちゃんは小さく頷いたが、やはり動かない。 恐怖で足が竦んでいる。 お父さんは、ユメちゃんを抱き上げた。 しかしその時、すぐ背後に獣が迫ってきている事に気が付いたのは、僕だけだった。 興奮している猪は、僕達を目掛けて突進してきたのだ。 僕はなりふり構わず、走り出した。 僕の紐を持っていたお父さんは、大きく体のバランスを崩した。 「わあ!」 お父さんが驚いて声を上げる。 そこで漸く、すぐ後ろに荒ぶる獣が迫ってきている事に気が付いたらしい。 僕達は精一杯走った。 けれど、その距離はどんどん縮められる。 追っ手の足は、僕達よりも圧倒的に早い。 山道を駆け抜け、田園の畦に出た。 僕とお父さんは、滑り落ちるように田んぼの中に入った。 ユメちゃんを抱いたお父さんは軽く転んだが、すぐに立ち上がった。 山の獣は、未だ追いかけてきている。 その時、僕の体だけがぐんと地面に引っ張られた。 僕とお父さんを繋いでいた紐が、背高い雑草に引っ掛かったのだ。 僕は必死に暴れたが、紐は草に絡まったままだ。 一刻も早く、ここから逃げなければ。 分かっているのに、拘束された体が前に進まない。 猪が、すぐ目の前まで来ている。 「くそ、この野郎!」 お父さんが大声を上げて、猪に足を振り上げた。 がん、と鈍い音がした。 猪の鼻先に踵が命中したのだ。 猪は獣の雄叫びを上げて一度立ち止まったが、すぐに再び向かってきた。 怖い。 僕は、甲高い声で鳴いた。 お父さん。 お父さん、助けて! 猪の牙が、僕の後ろ足を掠めた。 びりっとした痛みが全身を駆け巡る。 お父さんは田んぼの土塊を握って、猪に向かって投げた。 何度も何度も投げつけた。 野生の生き物と素手で戦う術のないお父さんは、それでも必死に立ち向かった。 猪にとっては、痛くも痒くもなかっただろう。 けれど、ふと気が変わったのか、山の獣はそのまま踵を返し、元来た方へと走っていってしまった。 辺りが静かになる。 お父さんの荒い呼吸だけが聞こえる。 僕達は、助かったのだ。 まだ抑え切れない興奮そのままに、目を見開いたお父さんが僕を見た。 僕の後ろ足からは、血が滴り落ちていた。 「ゴマ、お前、足を」 お父さんの声に、ずっと黙っていたユメちゃんも、糸が切れたように涙を零した。 「ゴマが、ゴマが死んじゃう」 泣きしきる声が辺りに響く。 お父さんが、ユメちゃんの頭を撫でた。
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