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6
ユメちゃんが割り算を勉強するようになった。
猪と遭遇した時に出来た僕の怪我も、綺麗に治っていた。
近所には相変わらず獣が出るという話はあったけれど、村の人達の努力で、その数は減っていた。
おじいちゃんは、「猟友会の大森さんのお陰だ」と喜んでいた。
大森さんは、おじいちゃんと同級生の猟師だ。
何度か会った事があるけれど、僕を見る度に「狸だ」と言う。
僕の立派な尻尾が、狸のように太いからだそうだ。
大森さんの活躍で、僕は安全に散歩を続ける事が出来ていた。
最近では、僕とユメちゃんの二人だけで行く事も増えた。
けれど、猪に出会って以降、コースは決まった所を通るようにしていた。
僕はそれで良いと思った。
いつも同じ風景というのは飽きる事もあるが、また怖い目に遭う方が困る。
ユメちゃんもまだ子供だ。
大人のお父さんが苦戦した相手に、ユメちゃんが勝てるとは思えない。
もちろん、僕だってそうだ。
「ゴマ、行こう」
その日も、ユメちゃんの掛け声と共に二人だけの散歩が始まった。
僕は黙って紐を付けて貰う。
ユメちゃんの手付きも、随分慣れたものだった。
散歩中、ユメちゃんはいつも川の中を覗く。
道中で拾った棒を使い、水の中をつんつんとつつく。
ユメちゃんが言うには、メダカや蛙が居るのだそうだ。
そして、今日も水の中の生き物の姿を拝み終わった頃だった。
「さ、帰ろ」
ユメちゃんが立ち上がり、僕の紐を引く。
しかし、僕の目は十数メートル先の黒い巨体に釘付けになってしまった。
それは、以前見た猪ではなかった。
猪とは比べ物にならないくらい、ずっと大きい。
その姿形は、僕と似た黒い体ではあったが、滲み出る禍々しい雰囲気は、決して犬ではない。
ぎらぎらと輝く目が、こちらを睨んでいる。
口から滴る涎が、地面を濡らしている。
鋭い爪が土を踏みしめ、一歩、また一歩こちらへ近付いて来る。
僕が止まって一点を見詰めている事に気が付いたユメちゃんが、僕と同じ方向を見た。
「熊だ」
ユメちゃんがひゅっと息を吸った。
それを合図に、熊と言われる大きな生き物が、猛スピードで向かってきた。
逃げなければ。
僕の頭には、すぐその言葉が思い浮かんだ。
けれど、この状況でユメちゃんは逃げられるだろうか。
猪に出会った時も、恐怖の余り体が動かなかった。
あの時は、お父さんが抱いてくれたから逃げられたのだ。
では、今はどうだ。
僕とユメちゃん、二人だけだ。
お父さんは居ない。
それでも逃げようとユメちゃんを引っ張ると、ユメちゃんは持っていた棒を振りかざし、大きな声で言った。
「もうゴマは誰にも怪我させないんだから!」
涙を堪えて、ユメちゃんが叫ぶ。
僕を繋ぐ紐を持っていた手を離し、熊に対峙している。
ユメちゃんの手が、足が、小さな体が震えている。
それなのに、僕を庇おうとしている。
その瞬間、僕の中で何かが切れた。
僕はすかさず、ユメちゃんの前方に回りこみ、狂ったように吠えた。
熊に向かって力の限り、大きな声で吠えた。
来るな。
僕の家族に手を出すな。
大事な人を傷付けるな。
こんなにも大きな声で吠えたのは初めてだった。
毛を針のように逆立てる。
尻尾を高く天に付き上げる。
前足で強く地を踏ん張り、顔中に皺を寄せ、牙を剥き出しにする。
僕は、熊の危険性を本能で感じ取っていたが、それでももう逃げる気はなかった。
今は、熊を追い払う事。
ユメちゃんを護り、生きて二人で家に帰る事。
それだけしか頭になかった。
僕の剣幕に怯み、熊は足を止めた。
熊に比べると随分小さな体だが、本気で挑む僕の姿勢に戸惑っているようだった。
熊がゆっくりと、その場で旋回する。
こちらの様子を伺っている。
早く何処かへ行ってくれ。
僕は祈りながら、熊と向き合う警戒の態勢を崩さなかった。
背後に居るユメちゃんが、嗚咽を漏らしている。
怖いのだろう。
僕だって怖い。
けれど、今は逃げてはいられない。
「あ」
すると、ユメちゃんが僅かに声を上げて座り込んだ。
緊張に耐え切れなくなったのか、足の力が抜けてしまったのだ。
その時を待っていたように、熊の目が鈍く光った。
来る。
そう分かった瞬間、敵はすでに目の前に居た。
一気に襲い掛かってきた熊が、大きく振り被った手でユメちゃんを引っ掻いた。
鋭く尖った爪が、幼い腕の皮膚を引き裂く。
真っ赤な鮮血が辺りに飛び散る。
痛々しいユメちゃんの悲鳴が響いた。
僕は、生まれて初めて湧いて出た感情に、頭の中が赤黒く染まる感覚を覚えた。
怒りだ。
この全身を駆け巡るのは、血が、内臓が、僕を形作る全てが叫んでいるのは、この世で何よりも許し難い相手に向けられている、どす黒い怒りだ。
僕の大切な家族を奪おうとしている相手に向けられる、憎悪だ。
僕は、熊の足に目標を定め、思い切り牙を突き立てた。
全身の力を顎に集中させ、犬歯を肉の中に抉りこませた。
ぶちぶち、という肉が裂ける音がした。
熊が咆哮を上げる。
暴れ回る。
僕は、更に顎に力を込めた。
口の中に、どろどろした血液が流れ込む。
噎せ返るようなにおいが、鼻一杯に拡がる。
熊は僕の体を引っ掻き、振り回し、あちこちの地面に叩きつけた。
痛い。
熱い。
意識が朦朧とする。
僕の体の全てが滾る。
果たしてそれは、熊に傷付けられた怪我のせいか、あるいは怒りのせいなのかも分からない。
それでも、僕は必死になって食らい付いた。
ぐっと食いしばる顎の力だけは緩めなかった。
「熊だ、熊が出たぞ!」
誰かが叫んだ。
数回、劈くような銃音が響く。
遠くの方で、大森さんの声も聞こえた。
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