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ユメちゃんが割り算を勉強するようになった。 猪と遭遇した時に出来た僕の怪我も、綺麗に治っていた。 近所には相変わらず獣が出るという話はあったけれど、村の人達の努力で、その数は減っていた。 おじいちゃんは、「猟友会の大森さんのお陰だ」と喜んでいた。 大森さんは、おじいちゃんと同級生の猟師だ。 何度か会った事があるけれど、僕を見る度に「狸だ」と言う。 僕の立派な尻尾が、狸のように太いからだそうだ。 大森さんの活躍で、僕は安全に散歩を続ける事が出来ていた。 最近では、僕とユメちゃんの二人だけで行く事も増えた。 けれど、猪に出会って以降、コースは決まった所を通るようにしていた。 僕はそれで良いと思った。 いつも同じ風景というのは飽きる事もあるが、また怖い目に遭う方が困る。 ユメちゃんもまだ子供だ。 大人のお父さんが苦戦した相手に、ユメちゃんが勝てるとは思えない。 もちろん、僕だってそうだ。 「ゴマ、行こう」 その日も、ユメちゃんの掛け声と共に二人だけの散歩が始まった。 僕は黙って紐を付けて貰う。 ユメちゃんの手付きも、随分慣れたものだった。 散歩中、ユメちゃんはいつも川の中を覗く。 道中で拾った棒を使い、水の中をつんつんとつつく。 ユメちゃんが言うには、メダカや蛙が居るのだそうだ。 そして、今日も水の中の生き物の姿を拝み終わった頃だった。 「さ、帰ろ」 ユメちゃんが立ち上がり、僕の紐を引く。 しかし、僕の目は十数メートル先の黒い巨体に釘付けになってしまった。 それは、以前見た猪ではなかった。 猪とは比べ物にならないくらい、ずっと大きい。 その姿形は、僕と似た黒い体ではあったが、滲み出る禍々しい雰囲気は、決して犬ではない。 ぎらぎらと輝く目が、こちらを睨んでいる。 口から滴る涎が、地面を濡らしている。 鋭い爪が土を踏みしめ、一歩、また一歩こちらへ近付いて来る。 僕が止まって一点を見詰めている事に気が付いたユメちゃんが、僕と同じ方向を見た。 「熊だ」 ユメちゃんがひゅっと息を吸った。 それを合図に、熊と言われる大きな生き物が、猛スピードで向かってきた。 逃げなければ。 僕の頭には、すぐその言葉が思い浮かんだ。 けれど、この状況でユメちゃんは逃げられるだろうか。 猪に出会った時も、恐怖の余り体が動かなかった。 あの時は、お父さんが抱いてくれたから逃げられたのだ。 では、今はどうだ。 僕とユメちゃん、二人だけだ。 お父さんは居ない。 それでも逃げようとユメちゃんを引っ張ると、ユメちゃんは持っていた棒を振りかざし、大きな声で言った。 「もうゴマは誰にも怪我させないんだから!」 涙を堪えて、ユメちゃんが叫ぶ。 僕を繋ぐ紐を持っていた手を離し、熊に対峙している。 ユメちゃんの手が、足が、小さな体が震えている。 それなのに、僕を庇おうとしている。 その瞬間、僕の中で何かが切れた。 僕はすかさず、ユメちゃんの前方に回りこみ、狂ったように吠えた。 熊に向かって力の限り、大きな声で吠えた。 来るな。 僕の家族に手を出すな。 大事な人を傷付けるな。 こんなにも大きな声で吠えたのは初めてだった。 毛を針のように逆立てる。 尻尾を高く天に付き上げる。 前足で強く地を踏ん張り、顔中に皺を寄せ、牙を剥き出しにする。 僕は、熊の危険性を本能で感じ取っていたが、それでももう逃げる気はなかった。 今は、熊を追い払う事。 ユメちゃんを護り、生きて二人で家に帰る事。 それだけしか頭になかった。 僕の剣幕に怯み、熊は足を止めた。 熊に比べると随分小さな体だが、本気で挑む僕の姿勢に戸惑っているようだった。 熊がゆっくりと、その場で旋回する。 こちらの様子を伺っている。 早く何処かへ行ってくれ。 僕は祈りながら、熊と向き合う警戒の態勢を崩さなかった。 背後に居るユメちゃんが、嗚咽を漏らしている。 怖いのだろう。 僕だって怖い。 けれど、今は逃げてはいられない。 「あ」 すると、ユメちゃんが僅かに声を上げて座り込んだ。 緊張に耐え切れなくなったのか、足の力が抜けてしまったのだ。 その時を待っていたように、熊の目が鈍く光った。 来る。 そう分かった瞬間、敵はすでに目の前に居た。 一気に襲い掛かってきた熊が、大きく振り被った手でユメちゃんを引っ掻いた。 鋭く尖った爪が、幼い腕の皮膚を引き裂く。 真っ赤な鮮血が辺りに飛び散る。 痛々しいユメちゃんの悲鳴が響いた。 僕は、生まれて初めて湧いて出た感情に、頭の中が赤黒く染まる感覚を覚えた。 怒りだ。 この全身を駆け巡るのは、血が、内臓が、僕を形作る全てが叫んでいるのは、この世で何よりも許し難い相手に向けられている、どす黒い怒りだ。 僕の大切な家族を奪おうとしている相手に向けられる、憎悪だ。 僕は、熊の足に目標を定め、思い切り牙を突き立てた。 全身の力を顎に集中させ、犬歯を肉の中に抉りこませた。 ぶちぶち、という肉が裂ける音がした。 熊が咆哮を上げる。 暴れ回る。 僕は、更に顎に力を込めた。 口の中に、どろどろした血液が流れ込む。 噎せ返るようなにおいが、鼻一杯に拡がる。 熊は僕の体を引っ掻き、振り回し、あちこちの地面に叩きつけた。 痛い。 熱い。 意識が朦朧とする。 僕の体の全てが滾る。 果たしてそれは、熊に傷付けられた怪我のせいか、あるいは怒りのせいなのかも分からない。 それでも、僕は必死になって食らい付いた。 ぐっと食いしばる顎の力だけは緩めなかった。 「熊だ、熊が出たぞ!」 誰かが叫んだ。 数回、劈くような銃音が響く。 遠くの方で、大森さんの声も聞こえた。
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