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「あんた、山下さんちの孫か」 ユメちゃんが泣いている。 気が付けば、近くに熊の気配がない。 大森さん達が追い払ってくれたのかもしれない。 僕は、体を起こそうと足に力を入れた。 けれど、うまく動かない。 指先が少し震えるだけで、それ以上が出来ない。 目も開けている筈だが、何も見えなかった。 「ゴマが」 ユメちゃんが言った。 その直後、大森さんが僕の傍に立った。 「この太い尻尾は、山下さんちの犬か。 もう死んでるんじゃないか」 「嘘、ゴマは死んでない」 「お嬢ちゃん、それより今はあんたが病院に行かないと。 手から血が出てる」 「私じゃなく、ゴマを病院に連れて行って」 ユメちゃんが泣いてお願いをしている。 誰かが「仕方ない」と呟いた。 「お嬢ちゃん、犬はあんたのおじいちゃんに伝えておくから。 だから、今はあんたが病院だ」 それだけ言って、ユメちゃんは誰かに抱きかかえられた。 「ゴマ!」 ユメちゃんの叫び声が聞こえたけれど、相変わらず目は何も映さない。 ユメちゃん達の足音が、少しずつ遠ざかって行く。 車のエンジン音がしたかと思うと、その後はまるきり人の声がなくなった。 辺りは、虫や蛙の声が聞こえるだけだ。 僕はどれくらいそのまま横たわっていたのだろう。 真っ暗な世界では、時間の感覚が全くない。 家に帰らないと。 僕は紐に繋がれていなくても、迷子にならないんだから。 そう思って何度も力を入れるも、燃えるように熱かった全身は地面に同化したまま、少しずつ冷たくなっていく。 お父さん、お母さん、ユメちゃん、おじいちゃん。 ぼんやりとした意識の中、僕は家族の名前を呼んだ。 弱かった僕に戦い方を教えようとしてくれたお父さん。 敵に怒って立ち向かうんだと言ってくれた、頼れる人。 僕を息子だと言ってくれたお母さん。 家族は誰一人欠けては駄目だと教えてくれた、優しい人。 僕を格好良くて強いと言ってくれたユメちゃん。 それなのに、僕を護ろうとしてくれた、信頼すべき人。 そして、おじいちゃん。 「ゴマ」 ふと、おじいちゃんの声がした。 幻聴なのだろうか。 耳を澄ますと、またその声が聞こえる。 「ゴマ、ゴマなのか」 僕の体に、ごつごつした手が触れる。 土と野菜のにおいがする。 おじいちゃんだった。 本物のおじいちゃんが其処に居た。 おじいちゃん。 全身が温かくなるのを感じた。 けれど、やはり動く事は出来なかった。 嬉しくて飛び上がりたい気持ちになったが、重い尻尾は一振りも出来ない。 「ゴマ、こんな体になって。 お前は」 おじいちゃんの掠れた声が弱々しくなる。 その顔を舐ってあげたくても、もう僕には何も出来ない。 「痛かったろう、ゴマ。 怖かったろう。 でも、偉かった。 お前は本当に偉かった」 おじいちゃんが、僕をそっと抱き上げた。 「誰よりも強い犬だ。 世界で一番強く、本当に戦うべき時を知っている賢い家族だ」 僕を抱いたおじいちゃんが、ゆっくりと歩く。 優しく揺れる腕の中が心地良い。 「ゴマ」 おじいちゃんが僕を呼ぶ。 「ゴマ」 返事が出来ない僕は、一度大きく息を吸った。 おじいちゃん。 おじいちゃん、聞こえているよ。 僕はちゃんと聞いているよ。 畑に何度も連れて行ってくれたおじいちゃん。 最期に僕を包み込んで褒めてくれた、温かい人。 僕は、山下家の家族になれて幸せだよ。 臆病だと笑われるばかりしていたけれど、家族の愛情を疑う日は一度もなかった。 深い、もったりと重い眠りが襲ってくる。 抗う事が出来ない。 おじいちゃんの声も遠くなる。 ゴマ。 山下家のゴマ。 真っ黒な体をして、太い尻尾を持ち、「わん」としか喋る事が出来ない。 それが僕だ。 それでも僕は、またこの家族と一緒に暮らしたい。 その時また臆病者に戻っていたとしても、皆は笑って許してくれるかな。
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