第十二話 舞台が整った時

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第十二話 舞台が整った時

 夕暮れの後宮に、弦の音色が流れ始める。  銘軒は耳を澄ませた。 (また、弾き始めた。合間合間に話をしているのだろうな)  すでに陽は落ち、空の端に残照を残すのみとなっている。  銘軒は、瑞雲宮を囲む木々の陰に身を潜めながら、見回りをしていた。  面会に使われる瑞雲宮は、男性客も立ち入ることがあり、衛士もここまでは立ち入って警備する。後宮内ではあるのだが、緩衝地帯のような場所だ。  それより向こう側を警備するのは、宦官である。外なら男性がやる仕事の全てを、後宮では宦官が担当する。    今、瑞雲宮の中に宦官や侍女はいるが、春燕が人払いをしているので、部屋には彼女たち二人きりだ。  会話は、かすかに漏れ聞こえるのみ。夏の夜を涼めるよう、露台に面した格子戸が開け放たれているので、御簾に二つの人影が映っているのが見えた。  衛士――銘軒たち衛尉寺所属の衛士と、内侍省所属の宦官の両方――が周囲の警備に立っており、何かあれば外からでも踏み込める。  実はここに来る前に、銘軒は例の事件の調書を閲覧申請し、読んできている。雹華付きだった宦官のことも知っていた。 (事件の日、彼は雹華の部屋に一度も立ち入っていないんだよな)  それで容疑から外れたため、春燕もそばに置いているようだ。知り合いがいた方が心強いのかもしれない。  なぜ事件の日に限って、宦官ではなく侍女が試毒(どくみ)することになったかと言えば、宦官が腹を壊していたためらしい。  宦官が試毒できない時には、春燕が試毒すると決められていたようだ。 (その取り決めのせいで、雹華にとっては、『自分が狙われたと見せかけて春燕の命を奪うのに絶好の機会』……ととられてしまったわけか)  調書によれば、毒が入っていたと思われる小瓶も、雹華の部屋にほど近い庭で見つかっている。厨房の者たちはそんな場所まで来ないので──来たら目立つのですぐわかる──、雹華への疑いは強まったのだ。  一曲終わり、密やかな笑い声が聞こえた。 (仲が良さそうだ。全然、主上の寵愛を競ってギスギスしてるとかじゃなかったんだな、本当に)  雹華は主上のために生きていたと言ったが、それは妃が求められる当然の覚悟でもある。  恋愛感情の有無にはかかわらないので、男女間の意味での寵愛を求める者もいれば、求めない者もいるのだろう。 (で、俺の妻になったわけだが。さて、俺には一体、どういう気持ちで接するつもりなのかねぇ)  お飾り妻のつもりで接していたのに、銘軒は少しずつ、雹華の自分への気持ちを気にし始めていた。 (はー。後宮に置いておけないからと、たまたま褒美として押しつけられただけのはずが)  ため息をつく。  その時──  ──宮に近づく、小柄な人影が見えた。 (誰だ?)  銘軒はそちらへ近づいた。  宮からは再び、月琴の音色が流れ始める。どうやら雹華はもう一度、『鵬程万里』を弾くことにしたようだ。  人影は立ち止まり、じっと聞き入っている様子。  銘軒は声をかけた。 「何用か」 「あっ、も、申し訳ありません」  振り向いた影が、高い声で答えた。灯籠の明かりに、一人の女官が浮かび上がる。 「月琴の音に、つい」 「名乗れ」 「あの、若渓(じゃくけい)と申します」 (ん?)  調書の中にあった名前だ、と、銘軒は記憶をたどる。 (そう、雹華の三人の侍女……春燕に鈴玉、そしてもう一人が、確か若渓といった) 「房妃様の、かつての仕事仲間か」  言うと、若渓と名乗った女官は目を見開いた。 「そうです……よく、ご存じ、ですね」  銘軒はぶっきらぼうに尋ねた。 「若渓殿は、今は何の仕事を?」 「別のお妃様の、侍女を、しております……」 「なら、どうしてここに?」 「あの……今日、房妃様が、楽人をお呼びになったって聞いて」  若渓は、銘軒に次々と質問されてビクビクしつつも答える。 「甬道(ようどう)を通った時、聞こえた曲が気に入ったからと……それで、ああ、あの曲、って……私も聞こえたので」  別の妃に付き従って、若渓も今日、甬道を通ったのだ。  そして、かつて春燕が弾いていた(ということになっているが実際は雹華が弾いていた)『鵬程万里』が聞こえることに、彼女も気づいたのだろう。 「で?」  銘軒は短く聞いただけなのに、若渓はすっかり怯えて肩をすくめた。 「ひっ……あんな、珍しい曲、なかなか聞けないので、聞けるかしらって、それでここに……」  そして、恐怖の限界が来たのか、 「警備の邪魔をして、申し訳ありませんでした! 失礼いたします!」  と頭を下げ、走り去っていってしまった。 (やれやれ。曲を懐かしんでいただけなのに気の毒だが、警備上、特別扱いするわけにもな)  銘軒は思いながら、再び見回りに戻る。  しかし。  林の中に入ったあたりで、ふと、思い浮かんだことがあった。 (待てよ。あの曲の秘密を知らなくても、気づく奴がいるかもしれない、ってことか?)  ──春燕が、甬道で耳にした曲に反応し、弾いた者を呼んだ  ──その曲は、かつて雹華の部屋付近でよく聞こえていた、珍しい曲である  この二つ、両方の情報を知る者であれば。 (二つを結びつけて、今日、春燕が呼んだ楽人は雹華かもしれないと思いつく可能性も、なくはない……か?)  もし、真犯人が気づいたら。 『犯人』である雹華が、後宮に来ていると知ったら。 (未遂に終わった春燕殺しを、雹華がもう一度……という舞台が、整っちまってるじゃねぇか。もう一度、雹華に罪を着せようと思えばできるってことになる)  銘軒は再び向きを変え、急ぎ足で宮の裏口に向かった。 (わずかな可能性だが、絶対ないとも言えない。何か理由をつけて、もう面会は終わりにしてもらおう。春……房妃様が拒否なさっても、雹華なら俺の様子で察して、合わせてくれる)  その時、銘軒の視界を、人影が動いた。  衛士の一人が、裏口から宮に入っていくところだった。衛士担当の宦官のようだ。 (何の用だ?)  違和感を覚えた銘軒は、ハッとした。 (さっきの二つの情報、北瀟宮を警備していた衛士の宦官なら、両方知っている!)  夜にふさわしい、静かな曲が、流れている。  雹華が一曲弾き終わった時、部屋の外から声がかかった。 「失礼いたします」  春燕が「何?」と返事をすると、衛士姿の宦官が廊下から姿を見せた。宦官にしては大柄な人物だが、だからこそ衛士になったのかもしれない。  彼は部屋には入らず、廊下で礼をとって言う。 「今、こちらの部屋から奇妙な物音がしたものでして」 「え? 私は気づかなかったわ」  いぶかしげに春燕が部屋を見回した。雹華も静かに控えながら、視線を巡らせる。 (私も別に、何も……でも、弾くのに集中していたからわからないけれど) 「いえ、聞こえたのです」  衛士は言い、そして顔を上げる。 「かつての主人と侍女が、殺し合う声がね」  きらり、と短刀の刃が光った。
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