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第十四話 戻るのか、戻らないのか
「それにしても」
皇帝は肘かけに肘をついた。
「呼んだ楽人が雹姐だったのはともかく、夫婦で後宮にやってくるとは想像もしなかったぞ。なぁ、春燕」
「主上、私のわがままで、雹華様をお呼び立てしてしまったのです。銘軒殿は心配して付き添ったのでしょう」
控えめに春燕が答える。
皇帝は面白そうに笑った。
「楽人に化けてきて、しかも真犯人をあぶり出すとは。雹姐、戯曲の主人公のようだな。久しぶりに心が躍ったぞ。銘軒も、見事な手柄だった」
「恐れ多いことでございます。しかし主上、あの衛士は、毒を盛った本人ではないのでは」
銘軒が雹華を見ると、雹華はうなずき、彼に言ったことを繰り返した。
「食事は春……房妃様が自ら厨房に取りに行き、運んできて試毒したもの。今までは、運んできた後に私が毒を入れて、瓶を庭に捨てたとされてきました。けれど、あの衛士がかかわっているなら、運ばれてきた後に毒を入れる機会はありません。部屋に衛士は入っていませんから」
「うむ。厨房で誰かが毒を入れ、瓶を衛士に渡した。衛士は北瀟宮の周囲を見回りつつ庭に入り込み、雹姐に罪を着せるために捨てた。そういうことだな」
皇帝はうなずく。
「今、衛士を厳しく尋問している。同時に、厨房で働く者たちが暮らす宮にも見張りをつけた。近いうちに下手人が判明するだろう」
「ありがとうございます」
雹華と銘軒は、そろって再び頭を下げた。
皇帝はもう一度、ちらりと春燕を振り返る。
「春燕、これで雹姐の冤罪は晴れるぞ。安心したか?」
「はい。主上、ありがとうございます」
春燕もまた、礼をとった。
そして、雹華たちに向き直る。
「雹華様、これからは堂々となさって下さいね。また会いにきて下さると嬉しいです」
「主上がお許し下さるなら、ぜひ。月琴、修理しておきますね」
雹華は微笑んだ。
皇帝は銘軒に声をかける。
「林銘軒。雹姐をよろしく頼むぞ」
「はっ」
銘軒は礼をとったが、その心の内は迷っていた。
(これで、いいのか?)
皇帝の御前を辞した二人は、瑞雲宮に戻るべく、広い石畳の道を歩いていた。
雹華は楽人として招かれたため、宮に泊まるための部屋を用意されている。
衛尉寺少卿である銘軒が一緒なので、案内を断り、二人だけだ。
深夜の宮城の、所々に焚かれた篝火が、歩く二人を照らしていた。雹華の髪を飾る簪が、きらきらと光っている。
「旦那様は、今夜はまだお仕事なのですか?」
雹華が聞くと、銘軒は首を横に振った。
「いや。主上に呼ばれたから、すでに代わりの者が任についている」
「では、宿舎に? 明日の朝、一緒に帰れれば」
「雹華」
銘軒は立ち止まる。
「はい」
雹華も立ち止まり、彼を見上げた。しかし、銘軒は視線を逸らす。
「その……悪かった」
「えっ?」
「俺も、あんたをずっと疑って、邪険にしてきたからな」
「あ」
雹華はあわてて、首を横に振る。
「そんな、旦那様は何も悪くありません。私が曖昧な態度をとっていたせいなのですから」
「いや、あんたはハッキリ言ってたぞ。私はやっていないと」
「そう……だったかもしれませんが、旦那様がお疑いになるのは当然のことです。今日、疑いが晴れたなら、それでいいのです」
雹華は笑顔を見せる。
しかし、銘軒の心の内は晴れなかった。
皇帝に忠誠を誓う彼は、皇帝にかけられた言葉がどうしても気になっている。
自分は、雹華を主上から託されるほど、いい夫ではない。本当に、このまま婚礼を上げていいんだろうか、と。
雹華はどう思っているのか、と。
「……あのな」
彼は咳払いをして、雹華に向き直った。
「冤罪だったんだから、雹華は妃の身分を回復させることができるはずだよな」
雹華が、目を見開く。
「えっ……」
「後宮に戻りたいと言えば、おそらく戻れる。房妃様のことが心配なんだろ? それに、『雹姐』なんて呼ぶほど、主上は雹華を気に入っているんだし」
雹華が皇帝と気負いなく会話していたのを思い出しながら、銘軒は半笑いになった。
「ありゃ驚いた。でもそうだよな、俺とあんたじゃ生まれも育ちも違う。あんたは主上の家族同然なんだ。ご両親も、あんたが後宮に戻れるとなったら、喜ばれるんじゃないか?」
「あのっ……でも」
「そうだ、それに後宮に戻れば、冤罪が晴れたって一発で明らかになるじゃないか。皆が納得するぞ」
「旦那様は……私のこと」
雹華は一度、口を引き結んだ。
それから、静かに言う。
「……そうですね。元々、ご迷惑だったのですし。私、知っていました。旦那様が、妻などいらないとお考えだったこと」
彼女の寂しそうな微笑みに、銘軒の胸は鋭く痛んだ。
「私の気持ちを、聞いていただけますか?」
静かに、優しく触れるような声で、雹華は続ける。
「初めてお会いした時は、私など引き受けていただいて、とても申し訳ない気持ちでした。それに、少し恐ろしかった。でも、すぐに誠実にお仕事をされる方だとわかって……信頼できる方だと思いました。さっきも、必ず助けて下さると信じていましたし」
声がわずかに震える。
「犯人を倒して下さった時、とても、誇らしかった。こんな方が私の旦那様なんだと思ったら、胸がどきどきして。色々終わって、もうすぐ婚礼だと、楽しみにしてしまって」
銘軒が見つめる前で、雹華はうつむいた。
涙が一筋、頬を伝い、きらりと落ちる。
「だからこのまま、と思ってしまったのです。でも、旦那様はやっぱり誠実な方だった。そうですよね、こんな、なし崩しを期待するなんて、私」
「俺の気持ちも、言っておく」
いきなり、銘軒は遮った。雹華が何かを決断する前に、言っておくことがあった。
早口で一気にまくしたてる。
「あんたみたいな女に愛情を向けられた人間はそりゃ皆あんたにドはまりするに決まってんだろと! 思ってた!」
「は、はい?」
驚いた雹華が目を瞬かせた拍子に、たまっていた涙がまた、こぼれ落ちる。
銘軒はさらに続ける。
「鈴玉だって春燕だって、主上まで! 雹華が大切で大切で仕方ないってふうじゃねぇか。雹華が俺のところに来てからまだ大して経っちゃいないが、それだけのものがある女だってことは、こう、自分と比べて打ちのめされるくらい思い知った。ひたむきで我慢強くて優しくて、人を裏切ったり、捨てたりしないだろ、絶対に」
銘軒は、赤くなった顔を片手で隠す。
「あー。……そんなあんたに、俺との婚礼が楽しみとか言われて……嬉しくないわけがない」
雹華が、つぶやく。
「旦那様」
「どうせ後宮に戻りたいって言われる、そうしたら潔く手放すつもりだった」
バッ、と顔から手を下ろし、銘軒は半ば睨みつけるように雹華の方を向く。
「でも、戻るつもりがないなら、雹華は俺の妻だ」
涙に濡れた瞳を輝かせ、雹華は微笑んだ。
「……戻るつもりは……ありません」
「よし」
銘軒の腕が伸び、一気に雹華を胸に引き込んで抱きしめた。
「痛っ」
「あ。悪い、腕」
あわてて腕を緩めた銘軒だったが、怪我に触らないよう、彼女の頭を胸にそっと抱き込む。
互いの体温が伝わった。
篝火の灯りから、雹華を隠すように、彼は少し身体をひねる。
軽く身を屈め、顔を覗き込んだ。
緊張している雹華もおずおずと、彼を見上げる。
唇が触れ合った。
一度では足りず、何度も、何度も。
結局、二人は瑞雲宮の外回廊に腰かけ、東の空が白むのを待った。
「……何だか、信じられないな」
雹華を後ろから抱いたまま銘軒がつぶやくと、雹華が「何がですか?」と顔を振り向ける。
「いや……先帝陛下のものにもならず、主上のものにもならず、色々なものをするするすり抜けて、雹華は俺のところまで降ってきた」
少々クサいことを言ってしまった、と思った銘軒は、照れ隠しでさらにしゃべった。
「そう、そもそも先帝時代、あんたほどの女がなぁ」
「ええと?」
「後宮で何やってたんだよ」
「それは」
「色気が足りなかったのか?」
「うぅ……旦那様、意地悪です……」
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