【番外編・春燕と皇帝】一牛鳴地の距離に、その人はいた 前編

1/1
前へ
/18ページ
次へ

【番外編・春燕と皇帝】一牛鳴地の距離に、その人はいた 前編

 後宮の四つの宮は、どれも同じ作りになっている。  母屋とそれに付属した建物が、中院(なかにわ)を取り囲む形に四角く並んで小宮を作り、その小宮がいくつも並んで一つの大きな宮を形成していた。  朱壁妃・雹華の小宮は、北瀟宮の北西の片隅にある。 「鈴玉、若渓。今日から、こちらの春燕にも侍女の仕事をしてもらいます。仲良くしてね」  雹華が、彼女の椅子のそばに立った娘を紹介した。  侍女のお仕着せを着た娘が、頭を下げる。 「春燕です。よろしくお願いします」  顔を上げた春燕は、細面にきりっとした眉の、背の高い娘だ。 「二人とも、春燕に色々と教えてあげて」  雹華に促され、鈴玉も若渓もにこりと微笑んで挨拶の仕草をする。 「じゃあ春燕、まず厨房に行きましょう。お食事は大宮の厨房から運ぶんだけど、お茶や軽食はそれぞれの宮で用意するのよ」  三人で厨房に入ると、早速おしゃべりが始まった。 「春燕さん、背が高いのねぇ!」  小柄な若渓が、春燕を見上げながら目を丸くする。春燕は苦笑いしながら肩をすくめた。 「男みたいでしょう。この、侍女の素敵なお仕着せも、私にはぜんぜん似合わなくて恥ずかしい」 「あら、そんなことないわ。なんていうか、戯曲の女役みたいなかっこよさ」 「ほんとだ、そんな感じ! もし男装したら、逆に妖艶になってモテちゃいそう」  鈴玉と若渓が褒めると、春燕は「ありがとう」とはにかんだ。  彼女は、この容姿にずっと劣等感を持っていた。  子どもの頃から、近所の悪ガキたちに「オトコオンナ」といじめられて育ってきたのだ。女らしい格好をするとさらに笑われるので、ずっと地味な服ばかり着てきた。  十五歳になり、親が娘の嫁ぎ先を探し始めたことに気づいた彼女は、ゾッとした。 「今さら女らしくして、男と結婚するなんて、絶対いやだ!」  必死で親に反抗し、家出も考えていることを、春燕はある人物への手紙にとうとう書いてしまった。  すると、その人物は心配して、こんなふうに返事を寄越した。 『ご両親と話し合って、どうしてもうまくいかなくて家出することになっても、危ないから絶対に行方をくらましたりしないでね! せめて私のところに来て!』  この手紙の相手が、雹華である。  雹華の父は一介の商人に過ぎなかったが、国境を挟んだ隣国との間に独自の交易路を開拓し、春燕たちの故郷に大きな富をもたらした。  成金、などと口さがないことを言う者もいるが、商才のある実力者であることに変わりはない。  一人娘の雹華には、名のある学者が家庭教師としてつけられた。春燕はその学者の孫で、それなりの格がある家で学びながら育った。  雹華の方が少し年上だが、二人は仲の良い幼なじみである。  ある日、雹華は言った。 「春燕。私、お嫁に行くことになったの」 「えっ……あっ、ええと、おめでとう!」  いつかはそんな日が来ると覚悟していた春燕だったけれど、優しい雹華がいなくなるのは衝撃だった。無理矢理な微笑みを浮かべて祝福する。 「雹華が嫁ぐなら、きっとすごいお家だろうなぁ! あの、どこへ行くの……?」 「ええ、あの」  雹華は俯く。 「お父様が私を、主上にと推薦なさって……。私、後宮に入ることになったの」  ギョッとして、春燕は混乱した。 「後、宮……?」 (後宮なんて! たくさんの女の人が、主上の寵愛を得ようと必死になったり、争ったりって話が……そんな場所で、雹華は幸せになれるの? そ、それに、万保の都は遠いのに。私、もう、雹華に会えない……?) 「春燕」  雹華はすでに、受け入れているようだ。にっこりと微笑む。 「たくさん手紙を書くわ。春燕も、返事をちょうだいね。あ、そうだ、よかったら私の月琴をもらってくれないかしら」 「えっ?」 「お父様が、主上の前では弾くなとおっしゃるから……それなら、いっそ置いていこうと思って。売るにはしのびないし、誰かにあげるなら春燕がいいわ。ね、もらって」  自室に入ると、春燕は立てかけてある月琴にそっと触れる。  この二年、雹華のよすがとして大事に保管し、時には練習してきた。雹華ほどではないが、彼女も弾けるようになっている。 (……これを持って、行こう)  彼女は決意する。 (雹華、ううん、雹華様──朱壁妃様のところへ行ってみよう。先帝が亡くなって、今の主上の後宮でどうなさっているのか、ずっと気になっていたんだもの。そして、後宮で働かせてもらえないかお願いしてみよう。あそこなら私、結婚しないで済むし)  そうして、春燕は万保の都にやってきたのだ。背が高く、凹凸の控えめな彼女は、男装してしまえば女の一人旅とバレることもなかった。  下働きでもなんでもやろう、と思っていた春燕だったが、雹華は侍女として迎え入れた。 (それにしても、まさか雹華様が、主上に雹姐(雹ねーちゃん)なんて呼ばれてるなんて)  春燕は北瀟宮の廊下を歩きながら、思わず笑ってしまった。  男性が苦手な彼女は、皇帝が雹華に会いに来ると厨房に逃げ込み、お茶の支度などして表に出ないようにしている(お茶は鈴玉か若渓が運ぶ)。それでも会話は耳に入ることがあって、最初はその呼び方に目を丸くしてしまった。  鈴玉と若渓が、吹き出しながら教えてくれたものだ。 「びっくりするよね。雹華様が十五歳で後宮入りなさった時──ええと、先帝がご存命で、今の主上は東宮でいらした頃ね。主上はまだ十三歳で、後宮に頻繁にいらしていたの」 「幼い頃に母皇后様を亡くされて以来、後宮で、他のお妃様方に可愛がられてお育ちになったんですって。三年前に雹華様がいらして、初めてご挨拶した時に、さっそくなついてしまわれたのよ」 「だから、とても雹華様を大事にして下さるのよね」 「姉として、だけどね……」  うーむ、と悩んでしまう侍女三人である。  春燕は、小さくため息をついた。 (主上は私と同い歳でいらっしゃるのね……)  同じ年頃の男子が特に苦手な、春燕である。  そんなふうに始まった後宮暮らしも、丸一年になる。  十七歳になった春燕はある日、後宮内の牛舎にやってきていた。  後宮では、牛の乳を飲むのが流行している。元々、令国は騎馬民族から始まった国なので乳製品にはなじみがあり、(チーズ)などはよく食べられていたのだが、最近では生乳を沸かしたものも飲まれているのだ。  管理棟に生乳を受け取りに行く前に、春燕はこっそり回り込んで、牛舎側に出た。干し草や糞尿の匂いはするが、ンモー、というのんびりした鳴き声に、頬がほころぶ。  牛舎の入り口から中を覗くと、牛たちがそれぞれの房から頭を出し、もっしゃもっしゃと餌を食べていた。 (牛、可愛いなあ)  生乳を取りに来るたび、牛を眺めるのが春燕の楽しみになっていた。  彼女は、生き物が大好きだ。実家にいた頃も鶏の世話をし、近所の猫たちを見て回り、池でこっそり亀を飼っていた。  悪ガキたちにいじめられるので、雹華と遊べない時は動物に癒しを求めていた部分もあるのだが。 (はぁ、いつまでも見てられる)  奥を見ようと頭を動かしたとたん、牛舎の(のき)の角に髪をひっかけてしまい──侍女は髪を頭のてっぺんで輪になるように結っている──、春燕はあわてた。 (おっと! もう、こんな時も背が高いと不便)  手探りで髪を外す。 (よし。さ、もう行こう)  管理棟に顔を出すと、ここで働く宦官たちが「いらっしゃいませ」と迎えてくれる。 「朱壁妃様の分ですね、どうぞ」 「ありがとう」  生乳の入った蓋つきの鍋が差し出され、春燕は取っ手を握った。土鍋なので、それなりに重い。  彼女はそれを持って、北瀟宮に戻り始めた。  日が沈み、後宮は闇に包まれた。  一日の仕事を終えた春燕は、侍女の部屋に戻ってきた。着替える前に髪を解こうとして、頭に触れ、ハッとなる。 「あっ……(かんざし)がない!」
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

72人が本棚に入れています
本棚に追加